第6話 悲鳴の理由

「え、何⁉どうしたの!」

 そう言ってカーテンを開けようとする佐久ですが、内側から風華が引っ張ってそれを阻止。

「なぁにドサクサに紛れて開けようとしてんのよ。特に問題ないから開けないこと、いいわね?」

「で、でも……」

「でもじゃないの。アタシが大丈夫って言ってんだから。それに、別に悪いことも間違ったこともしてないし言ってないしね〜」

 そう言って力の抜けたカーテンから風華は手を離し、日向に笑いかけました。それに対し、日向は腕をクロスして己が手で己が肩を掴み、防御の構えを取りながら、

「い、言ってますよ……!な、なんですか、ふ、服全部脱げって!」

「え〜?そりゃ脱がないと着替えられないし……」

「じゃあ下着もっていうのは……っ!」

「それはぁ……まあ冗談?」

「………………」

 冗談にしては心臓に悪いなぁと思い、苦々しい表情をする日向。しかし、そんな日向に追い打ちをするように風華は、

「……ではないのだけれど」

 否定の否定をするのでした。

 これには日向、またもびっくり。あまりの衝撃に背中を壁で打ち、衝撃を二重にした後、再び同じようなセリフを口にします。

「なんでですか⁉」

 その驚きの様子に風華は満足気に笑いますが、今度は冗談とは言いません。言わないということはつまり、これは冗談ではないということ。

 日向は一気に身の危険を感じました。

「っ…………」

 できるだけ壁に壁にと下がりますが、何しろ背中の後ろは既に壁です。これ以上は壁にめり込むしかないというもの。逃げられはしません。

 しかし、日向が必死で逃げようとする必要などはありませんでした。なぜか?

 それは、風華が先程から一歩もその場から動いていないからです。

 それどころか、肩をすくめ、何やら反省したようにため息混じりの笑いをしています。

「いやぁ、初めてのお客さんには毎回言うんだけれど、ここまで驚いたお客さんは日向ちゃんが初めてなものよ?」

「……へ?」

 間抜けな声を出し、目を見開く日向。

 服を全て脱げなんてお客さん全員に言っているのかという驚きと、自分が一番大袈裟であったという事実に、大きく混乱しています。

「……え、えっと、て、てことは。他のお客さん全員脱いだって……ことですか?」

「いいえ?そんなことはないわよ。ただ、いつかはそうしたことでしょうね。というか、全員するわよ?」

「え?え?……えぇ……」

 状況がつかめず、どんどんと混乱していく日向に、風華は微笑みながら言いました。

「サイクルウェア……というより、レーパンの下は何も履かない。これが自転車乗りの常識なのよ。サドルに座って自転車を漕ぐ時、ダメージを少なくしてくれる役割を担っているのがレーシングパンツ。その中に何かを履くというのは、レーパンの内側からダメージを受ける……ということになるの。まあ無理に何も履くなとは言わないけれど、慣れてきたら履かないのがベストね」

「……そ、そんな理由が……」

 意外にもちゃんと理由があったことに驚きつつも、やはり抵抗感のある日向は「でも……」と言ってレーパンを眺めます。

 伸ばせば向こう側が見える、海パンのような薄さのレーシングパンツ。どうしても抵抗があるというのは仕方の無いことです。

 そんな様子の日向を見て風華は、何故か作ったような笑顔を貼り付け、

「ま、けど。今回に限って言えば一応試着ということですから。当店での試着は下着をつけたまま!お願いしますね?」

 いきなり店の方針を説明するのでした。

「え?え、えぇえ?……じゃ、じゃあ今までの話はなんだっんですか⁉」

「え?まあ話のつかみってやつよね?緊張はほぐれた?」

 そう、笑いかけて問う風華に、日向は気の抜けたような声で、

「そ、そ、そんなの……ほぐれるわけないじゃないですかぁ……」

 そう、うな垂れるでした。

 しかし、そう言いつつも、全裸より下着姿の方がマシ、という思考のシフトにより気持ちは幾分か楽になってはいたのですが。

 何はともあれ第一説明も終わり、やっと実践的試着が始まりました。

 日向はまず、羽織っているパーカーを脱ぎ、丁寧に壁際のハンガーにかけた後、他の衣類を風華に背を向けて脱いでいきました。

 下着以外の全てを脱ぎ終わり、布よりも素肌の面積が多くなると日向は、

「そ、それじゃあレクチャー……お願いします……」

 そう、背中を向けたまま、顔だけは精一杯風華に向けて言いました。

「ええ、よろしく。……けど、とりあえずコッチ向いてくれない?」

「えっ!……あ、はい……」

 少し抵抗を感じつつも、素直に従う日向。緊張ほぐしの効果が出ているようです。

 そして、風華と対面する日向。なんだかむず痒いものを感じます。

「そ、それじゃあ早速ウェア——」

「日向ちゃん、さ」

「はい⁉」

 言葉を遮られ緊張も相まってか、日向が肩をびくりと震わせました。

 そんな日向の体を隅から隅まで舐めるように見つめる風華。

 自分の身体を見られている羞恥心から、日向は、顔、耳、体全体、とみるみる赤くなっていき、——もう限界!と思ったその時。

「スポーツ……やってないんだよね?」

「え……?は、はい。やってませんが……」

 意外、というか予想外の質問に日向が目をまんまるくします。

「それにしてはスタイル……いえ、良い筋肉してる」

「——‼︎」

「これは日常生活で手に入るものじゃないわね。華奢な身体つきだけど、その皮膚の上からでも分かるほど立派な筋肉……特筆すべきは腹筋と背筋……身体の根幹を担う〝体幹〟ね。……もしかして日向ちゃん、筋トレとかしてたり……って、ああ……」

 風華が問うた時、もう既に答えは出ていました。

 顔を真っ赤にして俯く日向のその姿は、まさに図星を突かれた時の人間の態度の極致のようでした。

「別にアタシは恥ずかしいことじゃないと思うけど?高校生から身体を鍛えようだなんて、立派じゃない。お陰でいいスタイルを築けてるわけだし」

「……そう、言ってもらえると嬉しいですけど……」

「ふむふむ、その様子だとやっぱりそういう目的で身体を鍛えてたようね?」

「はい……。私、言った通りスポーツとかさせてもらえなくて……そしたら、友達に『何もしてないで食べてると一気に太るぞ〜成長期なんだから!』って言われて……」

 その時のことを鮮明に思い出したのか、うな垂れる日向。年頃の女子に……いえ、きっと女性には一生付きまとう問題なのでしょう。

 風華もうんうんと頷いています。

「けど、それで筋トレするって言っても、日向ちゃんの鍛え方は見るからに器具を使ったものよね?話を聞く限りだとジムには行けなそうだし……どうやって……」

「あ、それはお父さんが持ってるのを使ってるんです。このことをお母さんに言ったら、お父さんがいない時なら使っていいよって……。私には運動を禁止するのに、お父さんはそういうの、いっぱい持ってますから……」

「……なるほどねぇ」

 ただ漠然と、日向の身を案じて日向にスポーツを禁止させているのかもしれないと思っていた風華ですが、今のを聞いて少し考えが変わりました。

 子供にスポーツをやらせたくない親といえばスポーツ否定派の人間が多いでしょう。しかし、日向の父は運動器具を多数所持しており、母はそれを日向が使うことを認めている。

 もしかしたら浅神家には自分が想像しているより遥かに面倒な事情があるのかもしれない、風華はそう思うのでした。

「あの……ところで……」

 考え事に没頭する風華に、気まずそうに日向が尋ねます。

「ん?」

「……そろそろサイクルウェアを……」

「あ……」

 今度は素で忘れていた風華が少し急ぎめに日向にサイクルウェアを渡します。

「えっと、サイクルジャージはパーカーと同じ要領で着れるんだけど……いえ、今回はまずコッチからね」

 そう言って風華は手に持っているもう一つの衣類、レーシングパンツことレーパンも日向に渡します。日向はレーパンを受け取るととりあえずはサイクルジャージを近くの丸椅子の上に置きました。

「えっと……これは……」

 手にしているレーパンを見て、日向は困った表情を浮かべます。

 普通のズボンとは違って丈が短い上に、ウエスト回りの部分からは二本のショルダーベルトのようなものが伸びて腰で一体になっています。こんなのはどう着たらいいのか。

 というより、どういう着方が正解なのか、日向には分かりませんでした。

 これは風華に一緒に来てもらって正解だったと言うべきでしょう。

 そしてここから、風華のレクチャーが始まります。

「まず、そのレーパンはビブショーツという種類のレーパンなの。ビブショーツは肩掛けタイプとも言って、レーパンを腹部でなく肩で支えることにより腹部にダメージをかけることなく、更には身体との一体感により走りをスムーズにする効果がある……まあレース志向のレーパンとも言えるわね」

 レース志向と言われてもピンとこない日向ですが、とりあえずは履き方です。風華は説明を続けます。

「今回アタシが選んだのはそんなビブショーツの中でも結構いいヤツよ。えっと……名称はなんというのだったかしらね?……まあとりあえず足をだす穴があるでしょう?そこを触ってみなさいな」

「は、はい。………あっ」

 日向が風華の指示通りレーパンの〝裾〟を触ると、何やら全体の素材とは違う感触がそこにはありました。ゴムのような、テープのような、肌に吸い付く変な素材です。

「それはラッセルテープと言って、比較的肌に負担なくレーパンを履くための滑り止めよ。履く前にまずはこのテープ面を表にしてみて?」

「はい……えっと、こう……ですか?」

 上手くテープ面だけを表にすると風華が一応確認のために裾口を触り、全て表になっているのを確認して「よしっ!」と言いました。

「このテープが初めに表になってないと脚を通した時に突っかかるのよねぇ。……じゃあ次は右脚からレーパンに通していきましょうか。肩掛けの部分はちゃんと外側にしてね?」

「は、はい!」

 そう返事をして、日向は左脚を真っ直ぐに、右脚を曲げて立ったままレーパンを履き始めました。右脚を入れると、薄く肌触りの良い生地が、まるで滑るように脚を通してくれました。

 右脚が入ったのを確認し、同じように左脚も。そして両方の脚が通ると、少しレーパンを上げてフィットする位置に持って行きました。

「こんな感じですかね……?」

「えぇ、いい感じよ。じゃあ次は肩掛けね。とりあえずコレは私がやるわ」

 風華はそう言うと日向に近づき、腹部の辺りで垂れ下がっている肩掛けを手に取り、手と腕を間に通し、そして肩にかけました。

「いい?コレが捻れているとジャージを羽織った時なんかに擦れて肩が痛くなるから、ちゃんと向きや位置を確認するのよ?」

「な、なるほど……はい!分かりました……!」

 日向の返事に風華ら微笑みながらコクリと頷ずくと、自分が言ったことを実践するように、肩掛けの方向や位置を丁寧に整えていきました。

 途中、風華の手と日向の肩が触れ合い、日向が「っ……っぁ…」と、恥ずかしそうに声を出すたびに風華の頭の中では佐久が見たらどう思うのか、なんて楽しいことが浮かぶのでした。

 両方の肩掛けを付け終わると、ついでに風華は表を向いているラッセルテープを元に戻し、レーパンの装備を完成させました。

「よし!レーパンはコレでオッケーね。サイクルジャージは……まあ、手伝わなくても問題はないでしょう。パーカーと同じ要領で、片腕ずつ丁寧に通すのがコツね。生地が薄いから気をつけて?」

「は、はい!ありがとうございます……」

 それから日向は丸椅子に置いてあるサイクルジャージを手に取り、指示通りの着方をしていたのですが、あとはジッパーを閉めるというところで風華が不意に、

「そういえば日向ちゃん、アナタってバランス感覚いいのね?さっきレーパンを履いている時立ったままだったけれど」

「……え?そ、そうですか?普通は立ったまま着替えるものかと……」

「へぇ……普通レーパンとかは立って履くの苦手なひと結構いて椅子を使うんだけど。……ほら、キツイじゃない?結構」

 風華の言葉に、先程まで荷物置きとして使っていた丸椅子に目をやる日向。椅子とは本来座るためにあるわけですが、全くの盲点だった日向は汗を滲ませます。

 こういうところで女子力の差がでるのか、なんてことを考えながら。

「すみません……いつもの癖というか、頭が回らなかったというか……」

「ん?別に責めてる訳ではないのだけれど。それに、バランス感覚が良いのは自転車に必要なことですしね、悪いことなんてないわよ。それと……」

 風華がおもむろに日向を指差し、日向は何をしてるのか分からずに首を傾げました。

 そんな日向に、風華は微笑みながら、

「アタシが話しかけて止めちゃったわけだけど、そんなに色っぽくいつまでも前だけ開けてると風邪引くわよ?」

「……え?……っつ!」

 日向はしばらく風華の言葉の意味を考えた後、自分がまるでグラビアアイドルのようにセクシーにジッパーだけを開けっぱなしにしていることに気づき、慌ててそれを閉めるのでした。チョイ見せというのは下着姿とは少し違った恥ずかしさがあるものです。

 他人に言われて気づいたら尚更。ほっぺのご飯粒を取られるようなものです。

「お、お見苦しいものを……」

「いえいえご馳走様でした。……それじゃ、佐久も待ってることですし出ますかね」

「は、はい!」

 そう言って試着室から出た後、日向を待っていた佐久のセリフは……まあ、予想通りの大絶賛でありました。

 あまりにも褒めの言葉が激しく、人生で貰える褒め言葉の上限を超えるほどに歯止めが効かなくなっていたので、途中風華からのチョップ制裁が加わりました。

 対処の仕方が古いテレビと同じです。

「さて、ウェアも決まったことですし、後は……コレね」

 そう言って風華は試着室の隣にあったヘルメットコーナーからヘルメットを一つひょいっと手に取り、まるでお菓子あげる感覚で日向に渡しました。

「え、っとぉ……」

「日向ちゃんのロードバイクと同じ色のヘルメットよ。正直サイズ小さいし買う人いなかったから、遠慮せずに使って良いわよ」

「は、はぁ……」

 そんな大雑把で良いのかと思いつつ受け取ると、サイズが小さい云々以前に、まるで発泡スチロールのような軽さに日向は驚き、再び自転車競技における軽さの重要性について思い知らせれました。そして同時に、こんな軽くて安全なのか、という不安が脳裏を過りもしました。

「あ、それと!日向ちゃん、人と話すのが苦手って言ってたわよね?」

「……え?はい、言いましたけど……」

「……ならコレを……っと!」

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