第7話 才ある存在はこうして沼に浸かっていった 

 風華は試着室、ヘルメットコーナーの更に横、何やら色とりどりのメガネがあるコーナーに手を伸ばすと、レンズの黒いメガネを手に取り、

「自転車やるならアイウェアは必須!オマケのオマケね〜」

「え、えぇ……?」

 あまりに次々と渡されるもんで困る日向を見兼ねてか、普通に家計がヤバイと思ったのか、黙って見ていた佐久も流石に、

「ちょっ、姉ちゃん!大丈夫なの⁉流石に父さんと母さん怒るよ!特に母さん!」

「んん?へーきよへーき!アタシが商品代はひとまず店に入れとくし、それに……」

 風華が日向の顔をジッと見つめ、何やら真剣な表情をします。最初はよく分からずに、見つめられるがままに見つめ返していた日向ですが、しばらくするとなんだか恥ずかしくなり、ちょっと上の方に視線を移しました。

 その瞬間。

「他の人と話すのが苦手な人って、目を合わせる……っていうか、目を見られてると感じるのが苦手なのよねぇ。だからこそ……」

 風華は手に持っているアイウェアを装着出来る状態に開き、そして日向の顔へと近づけました。

 反射的に目を瞑る日向。その直後、アイウェアは日向の頭部に進行していき、最初はこめかみ、次は耳の裏に当たりながら位置を調節し、そしてついにあるべき場所に収まりました。

 自分の顔にアイウェアがフィットしたのを感じたのか、恐る恐る目を開け始める日向。

 と、閉じていた世界に微かな光が目に飛び込んで来た時でした。

 徐々に開けようとしていた目に映った世界が、いつもより少し暗くなったことに驚き、日向はゆっくりと目を開けていたことを忘れ、一気に目を見開いてしまいました。

「く、暗いです結構……いえ、見ることに支障は無いんですが、こんなにも変わるなんて……驚きました」

 スキーやスノーボードに行ったことのある人なら分かるかもしれません。サングラスやゴーグルというのは太陽の光から目を守るために作られており、付けたら暗い、外したら明るい、といった風に普段とは違う感覚になりやすいもの。

 太陽から身を守って行うスポーツをやったことがある人なら経験があるかもしれませんが、日向にはやはりそんなものはありません。

 驚くのも無理ないというものでしょう。

「ほら日向ちゃん、そこの姿見を見てごらんなさいな?」

「え?は、はい……」

 日向は言われた通り、側にある姿見の前に立ち、そして自分の全身を確認しました。

 まあ、全身を確認する必要など無かったのですが、自分で自分の姿を確認するのはこれが初めてです。全身に目が行くのも分かります。

「……わぁ……本当に自転車やってる人みたい……それに……あ!」

 日向は自分を包むサイクルウェアを一通り眺めた後、先程風華が付けたアイウェアを見て、その特性に気がつきました。

「目が見えない……外からは黒いだけで何も見えないです!」

「ええそうよ。このレンズは濃度が高いのよ。だから相手から日向ちゃんの目は見えないの。つまり相手の目を気にしなくて済むってこと。どう?少しは気休めになったかしら?」

 たまに意地悪なことを言うけれど、やはり親切な風華。そんな、もう既に姉のような存在の風華に、日向が口にする言葉は、

「とっても……とってもいいです!ありがとうございます……っ!」

 素直な喜びと感謝でした。

「うんうん、気に入ってくれたなら良かった。これぞ商売のやりがいってヤツよねぇ!」

 そう、気持ちよさそうに伸びをしながら言う風華ですが、佐久はボソッと、

「これは商売なんだろうか……」

 そう呟きます。が、地獄耳の風華、これを聞き逃さず、佐久の肩に手をするりと回すと。

「細かいことはいいのよ。てか感謝しなさーい?これで日向ちゃんはウチの常連になること間違い無いんだから、文句はないでしょう?」

「……それは嬉しいんだけど、父さんと母さんはなんて言うか……」

「だから、それなら大丈夫よ?なんてったってロードバイクからサイクルウェア、アイウェアやヘルメットまでアタシが全額払うんだから」

「はっ⁉」

「しー!声がデカイ!」

 驚く佐久の口を押さえて、風華が日向の様子を見ます。が、日向はちょこっと前から本当に反対から目が見えないかを姿見で研究することに没頭しており、特に佐久と風華を気にする様子はありませんでした。

「いい?あの娘は正直異常よ。ドリフトの話はまだこの目で見るまで完全には信じられないけど、あの身体……明らかに自転車をやるためにあるものだわ!才能を身体で計らないアタシがそう思ってしまうほどに」

「で、でも姉ちゃんが金払って利益ってあんの……?」

「あるわよ?なんたって、あの娘をゆくゆくはチームに入れれば名が売れてくじゃない。そしたら利益も利益!大利益ってものよ!」

 そう言い、何やら黒い笑顔を浮かべる風華。

 その笑顔を見た瞬間、もう佐久は何かを言うのをやめました。だって無駄ですから、何言ったって。

 それに、自分には良いこと尽くめなわけですし、金銭面で問題が起きないなら問題は無いってもんです。

「まあけど、それを差し引いてもアタシは普通に日向ちゃんのこと気に入ったしねぇ。まあ、これから仲良くなるためのプレゼントって感じでいいでしょう。……けど、分割払いさせるって約束はしちゃったわけだから……そうね……日向ちゃん!」

「……!は、はい!」

 日向がアイウェアもとい見えない筈の自分の目を見るのをやめて振り向くと、風華が右手人差し指を立てて何やらポーズをとっていました。

 そして唇を歪ませながら、

「ロードバイク 分割払いの件だけど、一ヶ月に千円!これを何年か続けていってもらってお金に余裕が出来たら一気に貰うわ!これでどう?」

 そう堂々と言いました。

 これに対し、日向は一旦アイウェアを外して少し申し訳なさそうにしながら、

「はい。……ただ、あの……ヘルメットとかジャージとかも、いつかはちゃんとお代を払わせていただきます。……やっぱりこういうのは、ちゃんとしないといけないって、思うので……!」

 そう言いってはにかみ笑いを浮かべました。

 これを見て佐久と風華が思ったことは一緒でした。

 ——なんてできた良い娘なんだ!

 この申し出を無下にすることなど風華と佐久には出来ず、全ての人が幸せに、微笑ましい空気に包まれて会計は終了しました。


  ◇


 再び試着室から出てきた日向は少し疲れた顔をしていました。

 今回ゲットした全ての品の整理、風華による代理会計のためにサイクルウェアを脱ぐことになり、要領は掴んだとのことで一人で着替えを済ませることになった日向。まあここまでは良かったのです。

 しかし、いざ脱いでみると、レーパンよりもサイクルジャージの方が意外に腕から抜けにくく厄介で、始めてしまった着替えの最中に手伝ってくれとも言えずに、日向は試着室内でジャージと格闘する結果となってしまったのでした。

「お疲れ様〜、会計終わったけど浅神さん、結果見る?」

 そう言って明らかにそこに悪魔の数字が描かれているであろう電卓を持って登場した佐久。

「は、はい……気乗りはあまりしませんが……いつか返すと決めたんです!見ないわけには……」

 と、佐久の電卓を受け取って数字を確認すると……

「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、……万……ウン……ジュウ……マン…………」

 どこぞやの鑑定番組なら正確な数字を最後発表してくれるものですが、今の日向には数字が莫大過ぎて単位を口にすることしか出来ませんでした。

 人生で見たことがない金額に、翼が生えた猫が金を持って飛んでいく幻影まで見えてきそうです。

「出世します…………」

「……うん、ファイト……あと、なんかゴメン」

 そう言って、分かりきってはいた現実にどよよんとする二人でしたが、そんなことお構いなしに元気なのが一人いました。

「さぁて!すごい金額ねぇ!常連客になんないと中々出さないくらいなものよ?初心者で一気にこんな金額叩きだすんだから、将来は大物ね!」

 フォローなのか、皮肉なのか。それを聞いた日向から出るのは苦笑いくらいなもんです。

「それで?今日はどうするの?流石にあのジャージじゃ今日は寒いと思うけど、近場なら今着てる服で十分だろうし……初ライド、してく?」

「初……ライド……」

「そうだね!まあ、明日からは比較的暖かくなるみたいだから、逆に厚着で走れるのは今日が最後かな?レッグバンドも貸すし、行ってきたら?」

 二人の提案に、日向はロードバイクを一瞥しました。

 太陽に照らされキラキラと光るロードバイクはまるで、僕はいつでも走れるよ、そう言っているようでした。

 準備は万端。気合も道具もある。

 だったら答えは一つです。

「私……行ってきます!」

 その今日一番で良い返事と笑顔に、佐久と風華もつられて笑い、そして、

「「行ってらっしゃい!」」

 そう返すのでした。


 ここからです。ここからようやく、物語が始まるのです。

 後に出るレースで伝説を残し、自転車界に旋風を巻き起こす、浅神日向と自転車の物語が!


 ……ですが、その前に風華から一言あるようで。

「あ、そうだ。ヘルメットとアイウェアはどんな格好でも必須ね?あとグローブも無いとダメね!靴は……まあとりあえずは運動靴でいいでしょう。その他必要な物もコッチで考えて用意しとくから、出世払いでよろしく、ね?」

「……………………(汗)」

 どうやら冒険自転車には金銭問題が付き物のようです。まあ何はともあれ、日向の自転車ライフは始まったばかりです。

 これから日向と自転車はどうなっていくのか?そして幾ら金が溶けるのでしょうか?



 先に言っておきましょう。ロードバイクとはつまりは色んな意味で“沼”なのです。


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