第5話 更衣室の悲鳴
今日、日向が家を出る時に親に伝えた行き先は図書館でした。
いつも土日は図書館で一日中本を読み、夕方に帰宅する日向。この行為は、父から逃げて少しでも外の空気に触れたいという日向の意志のもとにあったのですが、春休み期間中、日向は父が家にいない時すら、その当初の目的を忘れて図書館に通い続けていました。
図書館はいいものです。適度な温度に、書誌独特の匂い。広い世界を体験できない日向にとって棚に並べられる本は世界を拡張する、ほぼ唯一の手段でした。
こんな体験は自分には一生出来ないだろう。私はこんな風に色々な人と関わって外の世界を駆け巡ることなど不可能だろう。
そう、思っていました。——今朝までは。
今は百八十度やっていること、感じていることが違います。
愉快で何故か世話焼きで、自分のために世界を広げてくれる二人と、世界を駆けるための
不意に、何故図書館に行くはずがこんなことになったのか忘れそうになります。
そう、忘れそうになるのです。あまりにぼーっとし過ぎると忘れそうになる。
日向の周りでは今、彼女が思考を諦める……それほどに慌ただしいことが起きていました。
「うーん……これ……いや、こっちかしら?でもちょっと派手だし抵抗が……うーんどうしたものかしらねぇ?」
「……え、あ、これ私は可愛いと……」
「いや、こっちの方がいいかも!……ってこれは地味すぎか。次々!」
日向が大分お疲れな顔をしています。
日向がロードバイクを始めることを決意し、お茶会が終わると、次に待っているのはファッションタイムでした。
カフェの隣、ロードバイクショップ〈路流風〉に移動した日向達は、風華の提案のもとサービスでプレゼントされるサイクルウェアを選ぶことに。
色とりどりのサイクルウェアがある中、内心胸躍らせながら気に入った物を選ぼうとしていた日向でしたが、風華の「はい、そこに立って!気をつけ!」という指示の後、次々に身体の前にサイクルジャージを当てられ、日向自身あまり見えないまま風華に見繕われ高速で服の選別が行われていったのです。
女性というのは服選びが好きなものは周知の事実ですが、流石にこの速さ、熱気に当てられたら疲れてしまいます。
元気なのは風華と佐久だけ。
風華は、ハンガーラックに並べられハンガーと共に行儀よく並ぶサイクルジャージを慣れた手つきで取っては日向の前に、取っては日向の前にという作業を繰り返し、日向に最高に似合うサイクルウェアを元気に模索中。
佐久はというと、日向にサイクルジャージが当てられるたび、屈みこみエアカメラで自分の脳内メモリにサイクルウェアを着た日向を想像して保存、想像して保存という作業を繰り返し、どんどんと艶やかになって元気カンスト突破状態に至っていました。「いいねぇ、いいねぇ!もっと!もっと笑顔で!」なんて言う姿は変態ローアングラーの鑑のようです。
しばらく続いたこの作業ですが、あるジャージを当てた時、風華の動きがぴたりと止まります。そして視線は先程カフェから一緒に移動してきたロードバイクの方へ。
ジャージ、ロードバイク、そして日向を順に見ていき、そして満足気に頷くと、
「ええ。やっぱりこれよね、これ!初心者はあまり派手にし過ぎると恥ずかしいものだし、女の子はオシャレがないと満足しない。これはその二つの要望を叶えているピッタリのジャージだわ!」
風華が自身たっぷり大きな声でそう言うので、日向は前かがみにサイクルジャージを覗き込みました。
見た瞬間、日向の目が疲れきった状態から輝きを取り戻します。
「わぁっ……これって……!」
「そう、あのロードバイクと同じ色が入ったジャージよ。どう?気に入った?」
「は、はい!もちろんです!こ、これ凄い良いです!」
そう言って日向は風華からジャージを受け取り、上に掲げました。
一見して黒の多いジャージですが、左肩から胸にかけるラインや首筋、袖口や脇などは日向が一目惚れしたロードバイクと同じ、碧空色をしていました。
と、なんやかんやで初めてサイクルジャージに触れた日向が、違和感にサイクルジャージを満遍なく触ります。
「これ……すごく薄いですし、とっても軽いですね……普段着てる服の半分もないくらい……」
「そりゃそうよ。この服は自転車で速く快適に走るために作られているの。だから軽くて薄くて通気性が良い!今はまだ寒いけど、夏はそのウェアくらいじゃないと暑くてバテちゃうわよ?あ、それと……」
風華が一旦日向の前から姿を消し、そして数秒後、右手になにかを持って帰ってきます。こちらもサイクルジャージ同様に薄そうな服です。
「ジャジャーン!どう?同じ色のレーパンよ」
「レー……パン?」
専門用語が分からず、首を傾げる日向に、佐久が付け足します。
「レーパンっていうのはレーシングパンツの略だよ。これもサイクルジャージと一緒で効率よく走るためのものなんだ。スポーツバイクで距離を乗るならこれも必須のアイテムだよ」
「……なるほど。レーシングパンツというんですね。勉強になります」
そう言って納得する日向ですが、彼女はまだレーシングパンツの真の顔を知りません。
レーシングパンツは佐久の言う通りとても重要なものです。
普通の自転車に乗ってる人にも経験があるのではないでしょうか?自転車に乗りすぎて股間部分やお尻が痛くなったことが。
普通のジーパンなどで自転車を漕ぐと、擦れたりサドルが硬かったりして長時間漕ごうとしても限度があります。ですが、このレーシングパンツはそんな悩みを解決してくれます。
中には股間からお尻にかけてクッションが搭載されており、皆様の大事な部分を守れる設計になっているのです。
なんと便利!なんと素晴らしいもの!
……なのですが、これは普通に履いても効果はあまりまりません。
それを知った時、人は驚き、そして大抵は嘘だと疑います。
さて、日向はどうでしょうか?
「じゃあウェアも決まったことだし、早速試着室に……」
風華がそう言って日向の背中を押し、試着室に向かいます。日向も押されるままに進むのですが、不意に後ろから佐久の大声が響き渡りました。
「ストォォォッップ‼︎」
「「?」」
その言葉に、日向と風華が頭に疑問符が浮かびます。
「いやいやいや!姉ちゃん絶対一緒に試着室入るつもりでしょ!」
「え?そうだけど、それが?」
何も不思議なことはないという風に首を傾げる風華ですが、風華の言葉に驚いた佐久と日向は顔を赤らめ、そして同時に。
「一人で入らせなよ‼︎」「一人で入れます‼︎」
と、叫び声に近い声で訴えました。
ですが、風華にその訴えは届きません。
呆れ顔になりながら人差し指で佐久をさすと。
「あのねぇ?始めてのサイクルウェアな上に、下はビブショーツなのよ?一人でいきなり着て、正しく着れるわけないでしょう?日向ちゃんも!サイクルウェアって結構着るの大変なんだから最初はアタシに任せなさい!」
ごもっともらしい事を言い、それに気圧された日向は「は、はい……」と弱々しく答えますが、佐久は納得が行かなかったらしいです。
「そ、それなら私がやるからそれで——」
「いやいや、アンタに任せられるわけないでしょう。自転車以外は不器用な上に……日向ちゃんとじゃねぇ……」
「な、なんで浅神さんとはダメだって言うんだよ……」
動揺気味に額に汗を滲ませる佐久を見て、風華は佐久に近づき耳元で、
「アンタが過ち犯さないようにアタシが抑止力になってんのよ。何にもしないから、大人しく待ってなさい」
そう囁きました。
流石に正論過ぎて言い返せない佐久は、ただ「むむむむむむ……」と唸りながら日向の元に去っていく風華を見つめることしか出来ませんでした。
まあでも、あれほどに真面目に言ったことですから。自転車屋の娘としてきっちり仕事をこなそうとしているに違いない。
そう佐久は安心もしていました。
更衣室に二人で入る前、風華が
「じゃあ今から裸の付き合いしてくるから、留守番よろしく〜」
そう言うまでは。
「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇええええ‼︎」
駆け出し、お着替えタイムが始まる前に風華を試着室から引っ張り出そうとする佐久ですが、無情にも佐久が試着室に届く一歩手前、そのカーテンは閉じてしまいました。
「なっ!……ぬ、ぐぬぬぬぬぬぬぬ」
カーテンが閉まれば勝手に開けてはいけない。これは暗黙の了解です。
どうしようもできなくなった佐久が出来る行動。それはたった一つだけでした。
「音……だけでも……」
耳に手を添えながらスタンバイ。
両者共に着替えタイムの準備は出来たようです。
と、思ったほぼその瞬間でした。
「なんでですかぁぁぁぁ———⁉」
日向の悲鳴が試着室内から聞こえてきたのは。
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