第2話 好きですよ
三月二十三日 土曜日
——春休み。
その日、浅神日向は珍しく、ママチャリで川沿いのサイクリングロードを走っていました。
澄んだ空気による肌寒さと、元気に照っている太陽の暖かさが交わる、春の訪れを感じるような、そんな日です。
こんな気持ちのいい日にサイクリングロードにいるのですから、どこか遠くまでサイクリングに行くというのが自転車乗りの定石と言えるでしょう。
しかし、日向はあくまで通過地点としてサイクリングロードを使っているだけであり、サイクリングをする気もなければ、自転車乗りでもありませんでした。なので、日向の目にソレが留まったのは奇跡とも呼べるでしょう。
川沿いのサイクリングロードというのは、とても風が強いことで有名です。向かい風はもちろんのこと、横風も馬鹿にはできません。
風に慣れた自転車乗り達であれば、ちょっと強いなぁ位で済みますし、目に入ってくる風はアイウェアで防ぐことが出来ます。
しかし、先程も述べた通り、日向は自転車乗りではありません。風に慣れていなければ、アイウェアなんて持ってるはずありません。
なので横風が吹いたら、
「つつっ……風強いなぁ……」
当然、吹いてくる方の逆に顔を向けるでしょう。
日向が左を向いて目を守っているその時、細くしていた目に、ソレは唐突に映り込みました。日向がママチャリを止めます。
「なに、あれ……」
日向はママチャリから降りると、周りを確認して、道の脇にある階段の方へとママチャリをてくてく押していきます。
日向のいるサイクリングロードは普通の道路より少し高い場所にありますので、階段を下らないと普通の道には降りられません。しかし、自転車用に段差のない下り坂もあるので、自転車を持ち上げるという必要はないという優しい道です。
日向は一般の道路に出ると、車がいないのを見計らって、反対車線に移ります。
そして、そのままママチャリには乗らず、てくてく歩いていき、目的のお店の前で止まりました。
日向はママチャリのスタンドを立て、停車すると、ショーウィンドウから店の中にあるソレをうっとりした表情で見つめます。
「なにこれ……凄い、綺麗………」
日向の目線の先。
そこにあったのは、スタンドに支えられて真っ直ぐ立っている一台の〝自転車〟でした。
ただの自転車ではありません。
ひし形の細いフォルムに、丸みを帯びたハンドル。所々にカーボンやアルミの部品が取り付けられた前衛的なソレは、一目見ただけで異形なことが分かる特殊な自転車でした。
街で一度は見かけたことがあるのではないでしょうか?
この自転車の総称は〈ロードバイク〉。
アスファルトで造られた道路、時には石畳の道でさえもを、一番速く、効率良く走る為に造られた最速の自転車です。
まあしかし、日向はそんなこと知りません。細かい部品や、その破格すらも目には入っていませんでした。
ただ一つ、日向の関心を引いたのは、その独特な〝色〟でした。
どこか懐かしく、温かいその色は、普通の空の色と言うにはあまりに幻想的で、オーロラと言うには、馴染みがありすぎました。
そうですね……この場合、一番いい色の表現は、〝
日向はロードバイクにしばらく見惚れていましたが、不意に現実を突きつけられました。
誰かが日向に嫌なことを言ったり、{売約済み}とロードバイクに貼ってあったわけではありません。
ただ単純に日向は見てしまったのです。目の前のショーウィンドウ、それに映る自分の姿を。
日焼けを知らない白い肌、細っそりとした腕はパーカーの上からでも分かるほど頼りなく、日本人特有の黒髪は、前は目にかかるほど、後ろは腰の付近まで伸びきっていました。
顔立ちやスタイルはいいのですが、日向にはそんなことはあまり関係ありませんでした。ただ一つ、パッと頭に浮かんだのは——
「私が乗っても……似合わないよね。やっぱりこういうのって……」
ロードバイクに乗り、自然豊かな大地を走り回るショートカットで褐色の元気な少女の姿でした。
そう、日向から一番かけ離れた人物。
故に日向はため息を吐き、ロードバイクに微笑をしながら、背を向けるのでした。
ママチャリに跨り、もう一度だけロードバイクを見ると、もう二度と立ち寄ることはないかななんてことを思いながらペダルに足を置き、漕ぎ出そうとした——その時。
カランカランというベルの音と共に、ショーウィンドウの横、日向より少し先の位置にある店のドアから誰かが飛び出してきました。
日向は慌ててブレーキを握ります。摩擦によって漕ぎ出す前に完全に静止したママチャリ。
ですが、日向はブレーキ以外にもママチャリを止める圧力があり、それがママチャリを制止させているのを感じました。
カゴを誰かが掴んでいます。
日向の心臓がばくりと跳ね上がります。
日向はカゴの手を見つめたまま、必死で考えました。
何故止められているのか。
誰の手なのか。
このシチュエーションは万引き犯がGメンに捕まる時のものではないのか。
あれ?刑期ってどれくらいだっけ⁈
少し飛躍し過ぎな思考ですが、日向は目の前で理解不能なことが起きると大抵ネガティヴな方向に急降下していくのです。それはもう個性と呼べるレベルに達しています。
こうなった彼女は誰にも止められない!……と、思っていましたが、
ネガティヴ思考を打ち切る言葉が、日向の耳に飛び込んできました。
「浅神さん……浅上日向さん、だよね?」
「——!」
誰だか知らない女性の声に自分の名前を呼ばれ、日向の思考が妄想から現実に一気に戻ってきます。
——この人は自分を知っている。ということはつまり。
日向は恐る恐る顔を上げます。
そして正面にいる人物の顔を見た瞬間、
「………………?」
唖然としました。
意外な人物がいたからとかではありません。
単純に、そこにいたのは自分と同い年くらいの知らない〝男の人〟だったからです。
しばらく、誰とも知れない男の人にどうしたらいいか分からず思考すら固まっていた日向でしたが、焦りとネガティヴが再び日向を襲いました。
よく考えれば、自分が知らない人が自分を知ってるのです。日向でなくても驚き、焦るでしょう。
携帯を取り出すくらいは許容範囲です。
しかし日向はそんなことはしませんでした。
というか考えつきませんでした。代わりに、動揺に動揺を重ねて今までにないほど動揺した日向は不意に、
「誰⁉」
と、心の声を漏らしてしまうのでした。
これに対し男は、ガビーンという文字をたてながら文字通りショックを受けた様子で、
「ええ⁉」
カゴから手を離し、思わず仰け反りました。
そして人差し指で自分をさすと。
「私だよ私!同じクラスで浅神さんの右斜め後ろの席の」
「あ……あ〜!……あ〜……あー?」
まるで発声練習のように異なる種類の「あ」を繰り出しましたが、反射的に知ってる風な反応を最初にしてしまっただけで、全く心当たりがありません。
というか、一人称が変じゃないのか?なんて疑問が頭を過ったりもしています。
それを察した男の子は頬に一筋の汗を垂らし、
「……えっとぉ、私、名前を
「んんー?」
そう言われて、日向は身体を少し反らし、マジマジと佐久の顔と全身を見つめ直しました。そう、まさに舐めるように。
本人が自称する通り見るからに男の子っぽい見た目、そして格好もどう見ても男の子に日向は顎に手をあて「うぅむ……」と唸りました。
どう見ても男の子、しかも見たことのない……。
しかし一つだけ既視感を覚えるところがありました。
それは髪色です。
まるで染めたての大学生のような派手な茶髪は、地毛と言われたら納得しかねる、とてもチャリチャラとした遊びのあるものでした。
このチャラい髪を数秒見たのち、日向はピカーンと頭の上に電球を光らせ、手をポンっと叩きました。
そう、クラスにいる佐久の存在をようやく思い出したのです。確かに彼……いや彼女は女でした。変な文章ではありますが。
何故顔を見た瞬間ではなく、髪をマジマジと見てから気づいたのか日向自身ちょっぴり不思議なところではありましたが、それは仕方ありません。
日向は基本的に、良く言えば人見知り、悪く言えばコミュ障なので人の顔を見ません。これは親をはじめとする他人への恐怖心故の反射です。
しかし、人の顔を避けてずっと下を向いていては人とぶつかり不必要なエンカウントをしてしまうので、日向は下ではなく人の髪を見るようにしていたのです。これも最早反射です。
と、何はともあれ思い出したところで日向は直ぐさま、
「お、思い出しました……!あの頭が明るい人ですね!」
「……え、なっ?あ、頭の明るい人ぉ⁉」
「はい。髪の色がとても明るいなぁ、と」
「へ?あー……コレのことかぁ。ビックリしたー、遠回しにバカと言われたのかと」
「え、な、何故です⁈」
「いやぁ、頭明るいって、なんか頭の中お花畑みたいな感じじゃん?太陽に照らされてる花がすくすく育ってます的な。……まあ、高校生で髪染める女子ってのは間違いなくバカだと思われる部類だけど」
そう言いながら佐久は女子のよう……女子がよくやる仕草の、自分の茶髪を人差し指でクルクルと巻き、親指と挟んでジトーっとした目で見つめる、を繰り出すのでした。
「これ、姉ちゃんが寝てる間に勝手に染めたんだ。高校でナメられないようにはこんくらいしろって。正直そこまで気に入ってなかったけど、まさかこんなところで役立つとは……」
はぁとため息を吐く佐久。
そんな佐久の髪を日向は不思議そうに見つめ、
「そうですか?私は好きですよ、その色」
「………………へっ?」
佐久が髪から目線を日向に移し、顔を赤らめます。
先程までは恨めしそうな目で髪を見ていた佐久の表情は日向の一言で一変しました。
まるで世界の全てが輝いているかのように顔をピカピカさせて、だらしなく口元を緩ませながら日向からの「好きですよ」を脳内でずっとリピートしています。見た目、かなり怪しいです。
と、完璧に上の空な佐久に日向は首を傾げ、またも不思議そうな様子で、
「ところで、私に何か用でしょうか?」
「え……あ、ああ!」
呆けていた状態から現実に戻ってきた佐久は、気持ちを入れ替える為に一度咳払いをしました。そして日向の目を真っ直ぐに見据えます。
日向はその行動に一度びくりとして後退りをし、目を逸らしました。
日向は人の目を見て話すことが苦手です。これは幼少期に他人と多く関わらなかったことに原因があるのですが、そんなことは露知らず佐久は目を逸らされたことにちょっとショックを受けました。
ですがこんなところで「目を見て話しましょう」なんて言うのも変なので特に言及せずに佐久は続けます。
「浅神さん、さっき〝アレ〟見てたからロードバイクに興味があるんじゃないかと思って。それで呼び止めちゃったんだ」
佐久が指をさして説明するので、日向はその方向に視線を移すと、そこには先程まで日向がウットリと眺めていた碧空色のロードバイクが太陽の光に照らされ輝いていました。
やっぱり綺麗だなと思い、日向は見入ります。
その様子を見て佐久はゴクリと唾を一度飲み込み、緊張した面持ちで恐る恐る。
「試乗してみる……?」
「え?」
「あ、あれ!商品ではあるんだけど試乗車なんだ!だから興味があるなら……乗って……みない?」
「…………あの自転車に……私が……?」
日向は何か考えるようにロードバイクを見つめます。
綺麗な色に美しいフォルム。自分とは別世界にある存在に、日向は自分ではこの
しかし同時に、何故か惹きつけられるものがある。ここで誘いを断ったら自分の人生は大きく変わる……否、この人生は変わらず、もしかしたら試乗をした人生と試乗しなかった人生の両方の記憶を持ち合わせた時、試乗しなかったことを後悔するような、そんな自分でも上手く説明できない予感がしていました。それはまるでゲームの分岐点のよう———。
悩んでる日向によって緊張した空気が形成され、それが苦しくなったのか、佐久が口を開きます。
「ど……どうかな?無理にとは言わないけど、少しでもロードバイクに興味があるなら、試してみないかな〜なんて……はは」
照れ隠しに後ろ髪をかく佐久。その様子は誰がどうみても日向に試乗してほしくて堪らないといったものでした。いやはや分かりやすい。
しかし分かっていない日向は、ただ親切な人だなと思い、そしてその親切に応えなければならないと、試乗するための一種の
そうです。親切にされたらそれ対し礼を言い、報いるように行動しろと日向はおばあちゃんにも言われていました。つまり。
「ありがとうございます。じゃあ……少しだけ試乗……させてもらってもいいですか?」
「はは……へ?え、あ、あ、ああ!は、はい!お、オッケーオッケー!今準備するから!自転車置いて待ってて!」
佐久はそう言うと後ろ向きで歩きながら、日向の方に両手を向けながら止まれのサインをして、くるりと背を向け店内へと脱兎の如く駆けていきました。
「……うん。良い人」
佐久がいなくなった店の前で日向は微笑みながら佐久の下心には気づかずにそう呟きました。
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