第10話 レースへの誘い

「じゃあ、行ってきます……」

 日向が玄関のドアを開けながらそう言うと、幸が居間と廊下を繋ぐ扉を開き、洗い物をしていたのかタオルで手を拭きながら、

「はい、行ってらっしゃい。遅くなる時は早めに連絡をして下さいね」

 優しく微笑みながらそう言いました。日向もつられるように微笑み、

「はい」

 と言うと、日光に照らされ光るドアをゆっくりと閉め、レバーが押すことも引くことも出来ない状態になったのを確認してからガチャリと鍵をかけました。

 家の中でもそれは確認され、幸は自分の作業場へと戻って行きました。

「あんなに笑顔でいってきますを言うなんて……よっぽど楽しみなのかしら?ふふっ」

 幸がそう独り言を呟きながら台所に戻ったのとほぼ同時。テーブルの上に置いてあった幸のケータイが誰かからメールが来たことをバイブレーションで幸に伝えます。

「あら?」

 幸はケータイを手に取ると、送信者とその内容を見て、「あらあら」と呟き、ふふっと笑って玄二に話しかけました。

「玄二さん。実は先程、和田さんに今日の娘さんのご予定を伺ったのですが、聞きたいですか?」

「………………」

 その声はたしかに玄二に届いているでしょうが、玄二は先程の新聞の続きに集中しているのか、返事をしません。

 しかし、その耳は微かにですが、ピクピクッと動いており、それを見た幸はまたもふふっと笑いながら続けました。

「生加奈ちゃん、今日は趣味のマウンテンバイクで出掛けるらしいですよ?友達と二人で」

 その言葉に、先程までは反応を示さなかった玄二が新聞を置き、幸の方を向きました。

「どういうことだ?生加奈くんは今日は日向と勉強会をするんじゃなかったのか?……まさか、日向が嘘をついていると……」

「いえいえ、日向は嘘はついていないと思いますよ?きっと生加奈ちゃんも。きっと生加奈ちゃんの友達というのは日向のことでしょうから。……けど、何をするのかは……」

 幸の含みを持った言い方に、玄二は「うぅむ……」と唸ります。

 生加奈が、そして日向が何をしようとしているのか、玄二はそれを考え、悩んでいるのですが、それ以前に一つ、玄二には疑問がありました。

「なあ、昨日は日向を守るような発言をしていたお前が、何故今日は日向の秘密を暴こうとしているんだ?何か矛盾のようなものを感じるのだが」

「矛盾?いえいえ、そんなものはないですよ。今でも日向が悪いことをしているとは思っていませんし、信じています。ですが……」

 幸はそこまで言うと急に唇を歪め、心底面白そうに、

「秘密というのはそこにあると暴きたくなるものです。……例え娘のであっても……ふふふっ……」

「うっ……そ、そうか。とにかく、帰ってきたら話を聞くとするか……う、うむ、そうしよう」

 玄二はそう言うと再び新聞を手に取り、新聞の文字をただ流し見する作業を開始しました。

 夫婦になってから……いえ、もっと前から玄二は気づいていました。あの笑顔を幸が浮かべたら、何人たりとも逃げることは出来ない。秘密は暴かれ、言葉はことごとく論破され、対象は決して反撃が出来ないように追い込まれる。

 それが分かっているから、それが体に染み付いているからこそ、玄二は本能的にこの話題から身を引きました。

 まあけど、今回の対象は日向。自分が気になっていることを幸が全力で暴いてくれるなら百人力です。なので玄二は恐怖とともに安心感を抱いていたのですが……。

「ふふっ……ふふふふふ……」

 玄二はまだ知りません。大体の状況を把握した幸が、手の平で踊る玄二の姿を想像して笑っているということを。

 浅神家のパワーバランスが垣間見えた瞬間でした。


  ◇


 午前十時。

 日向は計算通りのペースでママチャリを走らせ、現在開店したての自転車ショップ〈路流風〉の前に到着しました。

 ママチャリを降りてお店に入ろうとすると、入り口には今シャッターを開けたと思われる佐久が伸びをしていました。

「おはようございます。大垂水さん」

「ん?あ、浅神さんおはよう!早いねぇ」

「はい……あの、更衣室を使わせてもらいたくて……」

「あー、なるほど。だから集合時間よりも早く。おっけ!これ鍵だから、いつも通り使っていいよ」

 そう言いながら佐久が右ポケットから鍵を一つ取り出して日向に渡しました。

 日向は佐久に一礼すると、テコテコと更衣室に向かい歩いていきます。慣れたものです。

 日向がいつも使っている更衣室。それはショップとはほんの少しだけ離れた別棟にあります。

 風華曰く、ショップを構えた時両親が『日本一のショップチームを作りたいから設備を充実させよう』と言ったのがキッカケで更衣室が設立されたとのこと。

 その甲斐あってか、更衣室、シャワー室、休憩室とサイクリストに愛される設備が整っているショップとして有名になり、今では全国チェーンで店を展開しており、チームメンバーも本店だけで百人を超えているそうです。

 この更衣室は、チームに加入することにより使用が可能になる仕様となっているのですが、一人だけ例外がいます。

 ふんふふ〜んと、ありがちな鼻歌を歌いながら更衣室に絶賛向かっている人物。

 そう、日向です。

 チームにはチーム会費というものがあり、それが更衣室やシャワー代のようになっているので、それを支払わずに使用できる日向はかなりの優遇対応をされていると言わざるを得ないでしょう。

 佐久と風華と知り合いになったことによりこんなVIP対応。やはり世界はコミュニティか。

 そんなことを思いたくなりますが、日向はそんなこと露知らず、鍵まで自由に扱って更衣室を使い、ライド前の準備をします。

 最初は手間取っていたウェアの着替えも慣れたものです。

 更衣室の日向用ロッカー⦅風華が勝手に日向のものにしたもの⦆から自分の着替えを取り出し、それを持って個人着替え室に入ると、まずはビブショーツ、そしてサイクルジャージへと習った通りに順調に着替えていきます。

 グローブ、専用靴下、ヘルメットなどその他必要な装備も身につけて、今では完璧な着こなしをしています。そう、自転車乗りにとって完璧な。……意味深。

 着替えが終わると、自前の日焼け止めクリームを露出している肌に塗り、更衣室内にあるサイクルラックにサドルを軸としてぶら下がっているマイロードバイクを手に取って更衣室から出ます。鍵を閉めるのを忘れずに。

 集合時間よりも前に集合場所に到着することをモットーにしている日向ですが、流石に慣れてからは十五分もかからないでここまでの準備が完了します。

 なので、

「お店の中で時間潰そう……」

 そう呟き、店の中へと入っていきました。

 ショップの中にもサイクルラックはあります。なのでロードバイクはサイクルラックに預け、店の中を回ります。

 まだロードバイクを始めてから二週間ほどの日向ですが、なんとなくショップではどんなものが売っていて、どう使うのかが分かるようになってきました。なので商品を見て日向は思うのです。

 ロードバイクのお金を払い終わったら他の可愛いパーツも買おう、と。

 ほら沼でしょう?

 ただ、やっぱりそうやって想像している期間が一番楽しいものです。例え今が買えないと分かっていても、日向は今日もそれに浸るつもりでした。

 しかし、

「あら、日向ちゃん。おはよう」

「風華さん!おはようございます……って……」

 日向はレジの席に座ってアクビをする風華の格好を見て、驚き……いえ、もはや少し呆れました。

 風華が身に纏っているのはなんとも生地が薄そうな水色のパジャマ一つだけ。上に丹前もパーカーも着ずに堂々と座っているのです。

 胸元が少しはだけており色気がかなり漂っているのですが、レジがこんなでは正直、自転車ショップではなくなんだかヤバイ店に思えます。

 以前の日向なら大きな声を出して恥ずかしながらも注意をしたかもしれませんが、春休み期間、風華と過ごし、ライド中にジッパーを下げて胸元でパタパタと風を扇ぐなど、到底女性のすることとは思えないような風華のずぼらっぷりを知ったため、もう何も言いはしませんでした。

 と、開店準備を終えたツッコミ役の佐久が店内に戻ってきました。

「あ、浅神さん着替え終わったん……だ、って姉ちゃん‼︎なんでパジャマのまんま店来てんだよ‼︎」

「えぇ〜……だってまだ寝てたかったし、ちょっと日向ちゃんに話があって急いだんだから仕方ないじゃない?」

「いや、今日はバイトの人休みだから姉ちゃんも働かなきゃいけないんだけどね。てか、何か羽織りなよ……」

 そう指摘する佐久に対し、風華は鬱陶しそうに一応持ってきていたらしい青いジャージをテーブルから取って羽織りました。その背中には大きく〈こうはなるな‼︎〉と書かれています。まさしくその通り。

 そんなやる気の無い風華に日向は問いかけます。

「あの、私に用事ってなんですか?」

「ん?あぁあ、そうそう。あー、ヤバイわね。頭が半覚醒状態のせいで記憶が……えっとぉ…………あ、そうだ!」

 風華は急に眠たそうだった薄目を大きく見開き、ポンっと手を叩きました。

「明日って用事はある?」

「え……?い、いえ、無いですけど……」

「そう。なら大丈夫そうね」

 風華がそう言ってニヤリと笑うと佐久が、

「ライドに行くなら私も連れてってよ!明日は非番だし、私も浅神さんの走り見てみたい!」

「ん?ライド?いえ、違うわよ。まあ走るっちゃ走るけど、アンタは走らないわ」

「え……じゃあ何すんの?」

 これは日向も疑問に思ったようで、日向と佐久は同様に不思議そうな表情で首を傾げます。

「そうねぇ。普段のライドを練習とするなら、明日のは本番ってとこかしら?」

「……え、まさか……」

 どうやら佐久は気づいたようです。頬に一筋の汗を垂らし、風華がその言葉を口にするのを静かに待ちます。

「そう、明日あるのよねぇ〝レース〟が」

 風華の言葉に、やっぱり、と佐久が呆れ顔をします。

「レース……ですか?あ、風華さんがレースに出るんですね!」

 納得がいったと、手の平を叩いて頷く日向。しかし、風華は首を横に振ります。

「いやいや、違うわよ。明日、レースがあるから日向ちゃん出ない?っていう話なんだけれど」

「レースに……?」

「そう」

「私がですか?」

「そう」

 日向は頭の中を整理するように腕を組み、うーんと唸りました。そしてしばらくすると日向は風華の方を向いて少し困ったような笑顔で、

「やめておきます」

 そう短く言いました。

「え………?」

 これに対し風華は予想外と言わんばかりに不味そうな顔をします。

「い、いや、レースよ?レース!楽しそうだと思わないの?」

「うーん……と、レースって競うものですよね?私、ロングライドとかのイベントは興味あるんですけど……やっぱり人と競うのはなぁって……」

「うぅん…………」

 正直、最近の日向はスピードを求め、ロードバイクにどっぷりハマっていたので、提案を断られるとは思っていなかったのですが……。

 なんとも日向らしい理由に風華は納得しかけ、頭を悩ませます。

 そんな時、横でやりとりを見ていた佐久が、

「まあ、レースも悪くないと思うけどさ、そんなに急ぐ必要も無いんじゃない?興味のあるイベントから参加していくのが楽しいやり方だと私は思うよ」

「でも、レースは海外じゃなによりの特訓になるのよ⁉今のうちから参加して損はないじゃない!」

「それはプロになる人達の話だろ、浅神さんはそういうのじゃないんだから無理強いさせたらダメじゃんかっ!」

 佐久の正論に風華はジトーっとした目で佐久を見つめます。

「……すみません風華さん。いつかは出るかもしれないですが、今回はやっぱり……遠慮させていただきます……」

 日向が申し訳なさそうに微笑みながらそう言います。

 風華はそれに短く溜め息。

 微笑しながら肩をすくめると、

「まあそうね。急ぐことではないかしら……ちょっと知り合いの子が出るって話をしてたから日向ちゃんを誘ってみただけよ。気にしないで」

 そう言って、悪かったという風に日向の肩をポンポンっと叩きました。

「いえいえ、こちらこそお誘い頂いたのにすみません……あっ」

「ん?」

 風華が日向の肩から手を下ろすと、日向が風華から平行に身体を動かします。

 そして風華の後ろ、店外でピースサインをして自分を待っている人の存在に気付き、

「いっちゃんが来たので、私行きます。それではまたっ」

 そう言って軽くお辞儀をし、ロードバイクを手にテコテコと歩いて行きました。そんな日向に、佐久と風華は手を振り、日向もちょっと恥ずかしそうに手を振ってショップを後にしました。


 日向がショップを出た後、佐久が日向を目で追いながら風華に尋ねました。

「ねえ、なんで浅神さんのことレースに誘ったの?私は一緒に走ってないから浅神さんの実力は知らないけど、レースに出るには早いし、それに今日決めて明日出られるもんじゃないでしょ?レースは」

 佐久の質問に、風華は一度伸びをして、まだ眠たそうにそのままアクビをすると、肘を机に、顎に手をやって支えを作ってからゆっくりと答えました。

「さっき言った通りよ。早めにレースを経験しておけば実力がつくし、日向ちゃんはもっと成長できると思ったから誘ったの。ちょうど定員に空きがあって女性ライダーの募集かけてるレース主催者の知り合いがいたから、日向ちゃんが初めてお店来た日に入れてもらったんだけど……フラれたわねぇ……」

 そう言って支えを崩し、腕を枕にして伏せる風華。

 そんな風華に佐久は溜め息を吐きながら、頭をぽりぽりとかき、

「今回はこれで良かったんだよ。レースは成長の場かもしれないけど、レースってのは実力を叩きつけられる。かえって浅神さんに嫌な思いをさせるかもしれないだろ?」

「…………日向ちゃんはついていけるわよ。それくらいの実力はある」

 そう言うと風華は立ち上がって、〈STAFFONLY〉という垂れ幕の方に向かって歩き出しました。そして垂れ幕の前で小さく、

「それに、あの子といいライバルになると思ったのよ」

 そう呟き、中へと入っていきました。

 一人残された佐久は、

「浅神さんってそんなに速いのか?……って、ん?姉ちゃん?」

 佐久が、何故かスタッフルームに消えた風華を追いかけて垂れ幕を上げると。

 そこには、グデ〜っと二つの椅子をベッドにして横になり、うわ言のように、

「ぁぁぁ……キャンセル料…………キャンセル料がぁぁ……っ……」

 負のオーラを撒き散らす風華の姿がありました。

 この駄姉っぷりを見た佐久は、炎のようにメラメラとしたオーラを放ち、ワナワナと震えながら、まるでライオンのように店に……いやむしろ外にいる人の足を止めるほどの響き渡る大声で、

「仕事しろ—————っ‼︎」

 と叫ぶのでした。

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