第30話 父親

 その様子を見た観客の反応は、

「お、おい!あの娘シッティングで止まってるぞ!」

「ま、マジだヤベェ‼︎ここまでパフォーマンスしてくれるなんて、ありゃあカリスマ性があるぜ!」

「ちょ、俺あの娘タイプ……ひっ!」

 最後の人は遠くからの鋭く飛ばされた鬼の眼光に怯んで黙ったので触らないでおきますが、観客達が言ったように、日向はパフォーマンスをしている……ワケではありませんでした。

 ただ、レースが終わり、気が緩んだのは精神だけではなく、肉体もだったようで、

「や、ヤバイ……足攣ってペダルから足離せない……これ、転ける……」

 ビンディングシューズを捻ることができず、日向は一風変わった銅像みたいに動けないで片腕だけ上げてその場でバランスをとっていました。あ、肩も攣った、腕下ろせない。

 日向はどうしようもなくなり、疲れも相まって、もうどうでもいいか、と脱力します。後は地面に落ちるだけ。と諦めて、布団の誘惑に負けるがごとく倒れこもうとすると、

 ポンッと日向の肩を誰かが掴みました。

「こんにちは。……もしかして、攣った?」

 声のする方を見ると、そこには笑顔で桜色の髪を揺らす凛花の姿が。

 なんだか、初めてあった時を思い出してしまいます。きっと、凛花はそれを狙ったんでしょうが。

「はい……すみません、なんか……」

 支えられ、謝る日向に、凛花は頬を膨らませて、

「ホントよ!攣るまで日向が頑張るんだから、私負けちゃったじゃないのっ!」

「ぇ……ぁ…………」

 なんと言ったらいいか分からず、困る日向に、凛花は「冗談よ」と笑いかけます。

「負けた腹いせに意地悪言っただけ!……負けたのは、私が悪いんだしね」

「そ、そんなこと!私が前半にもっと牽いてたらきっと——んっ⁉」

 これ以上は言わせまいと、人差し指で凛花の唇にピトッと触る凛花。

「優しさっていうのは、時には人を傷つけるのよ?それに、私はこの結果に満足してる。全力でぶつかってくれる日向がいたから。だから……私に悔いはないわ!」

 凛花はそう言って、疲れを微塵も感じさせないほどの飛びっきりの笑顔を日向に向け、指を離しました。

「凛花さん……」

「ほらほら!こんなところで固まってたら邪魔よ!支えてあげるから、皆んなのところに行きましょう?」

「は、はい!」

 返事をして、若干なら動く脚でペダリングをする日向。

 それでも、結構キツく、もう完全に動けなくなった時。

「浅神さーん‼凜花―‼」

 直ぐに駆けつけてきた佐久が、日向と凛花両方に抱きつき、図らずも、日向は安定した支えを得ました。と、いきなり、「はいバトンタッチ」と凜花が手を離して、佐久は一人だけで日向を支えることに———。

「おっとと……?」

 元々二人を労うために佐久は走って来たのですが、何だかそれ関係なしに嬉しそうです。まさに役得。


 そのまま佐久に支えてもらいながら進んで、日向はどうにか両親と風華が見える場所までたどり着きました。安堵して、日向が後ろを向き、

「大垂水さん、ありがとう。凛花さん……も……?」

 礼を言ったその時。既に凛花の姿は無く、綺麗な桜色は、まるで散ってしまったように、何処かに忽然と消えてしまったのでした。


 ◇


 日向に佐久をバトンタッチした後、凛花は、静かに後ろからついて行き、そして途中で止まり、人混みに紛れました。

 立ち並ぶ屋台の横へとロードバイクを押して行き、サイクルラックに機体を預けると、ようやく休めると、息を吐きます。

 受付に預けていた荷物を受け取り、ベンチに座ると、凛花はため息を吐き、おもむろにバッグからケータイを取り出しました。

 画面をタッチアンドスライドをして、電話マークのアイコンを押し、会場にいない父親に繋がる番号にかけます。電話はプルルルルという音を立てて、呼び出しを告げます。

 長い時はずっと聞いていなければならないこの音ですが、今回はどうやら直ぐにお別れだったようで、音は直ぐに変わりました。

 そして、麟太郎と繋がるケータイ。

 凛花が口を開き何かを言おうとしますが、それより早く、麟太郎は開口一番で、

『どうだった?』

 そう尋ねました。

 普通はもしもしとか言うものじゃない?と、凛花は思いますが、まあ、この状況で必要なのはそんな決まった挨拶ではないでしょう。

 凛花は軽く意識して息を吸い、空気を震わせます。

 これを言ったら終わる言葉。約十六年間の年月をかけて、ようやく踏み込めた世界。そんな世界が終わる言葉を、凛花は死を覚悟してその言葉を、ゆっくりと口にします。

「ダメだった」

 短く、たった五文字で終了を告げる世界。

 凛花はそのセリフを、電話越しの麟太郎に、恥ずかしそうに、残念そうに笑いながら、告げました。

『そうか』

 更に短い麟太郎の言葉が、凛花の耳に入ります。

「ええ。……最初は手を組んで先行して、その後は一人逃げ。勝てると何度も思ったけど、結局は届かなかった。結果は二位……私は敗者よ」

 たった一度、たった一度だけのレースでしたが、凛花には分かっていました。チーム戦ではない、この個人ロードレースにおける、明確な勝者と敗者の基準を。

 そんな、全て分かっている娘の言葉に、父はまたしても、短く。

『そうか……』

「ええ。だから私はここまで。約束は守るわ。後悔がないわけじゃないけど……それでも、とっても楽しかった!今度、お兄ちゃんにお礼言わなきゃいけないわね!」

 凛花は笑っていました。

 それは、事情を知らない人が見ても気がつくような、強がりの表情。そして、見なくても分かる人物は、

『怪我はないのか?』

 それには触れず、ただ次の問いを投げかけます。

「ええ。むしろ、一位の子の方が脚攣っちゃって、大変だったわよ!……きっと、そこまで出し切れたかが、勝負の分かれ目だったんでしょうね……」

 口ではそう言いつつも、凛花は分かっていました。

 あの時、最後に日向が見せた〈弾丸ラストギア〉のスプリント時、凛花はアレ以上の力は出せませんでした。

 きっと、疲労度ゼロの状態で勝負すれば、凛花は日向を寄せ付けず、圧勝していたでしょう。しかし、度重なる全力スプリントの影響で、凛花はあの時既に疲労困憊。

 出せる全ての力を出し切って、凛花は負けたのです。ここまでの全力、高揚感を味わったのだから、後悔はない。凛花はそう思い、

「いい夢を見れたわ。……それじゃあ、また後で」

 穏やかな声で、自分の世界を終了させようとします。

 ——が、

『お前は甘い。飛び出すタイミングも、スプリントの時も。あんなものは戦略とは呼ばない。ただの無謀だ』

「え、なっ⁉」

 突然の父からの駄目出し。

 潔く、綺麗に終わろうとしていたのに台無しです。

『それに、そもそも自信過剰過ぎる。初心者のお前が、途中で勝利を確信できるほど、レースは甘くないに決まってるだろ』

「なっ!ななななっ、何よっ‼︎いきなり悪口ばっかり!私を最後に傷つけてそんなに——」

『でも、先行して怪我をしなかったのは賞賛に値する』

「えっ……?」

 凛花の言葉を遮り、今度は褒める麟太郎。凛花には、父親の気持ちが分かりません。

 でも、なんだが褒められてるのは事実なようなので、

「そ、そう……」

 素直に受け止めます。

『ああ、そうだ。次からもお前は先行することを常に念頭において走れ。幸い、落車事故の確率は集団より一人逃げの時の方が確実に低い。誰にも追いつかれないスピードで駆け抜ければ、危険もないだろう』

 麟太郎の言葉に、凛花は思わず目を見開きます。

 それはまるで。そう、まるで——

「それってどういう……え?いいの?私、ロードバイク続けても……」

『……心配じゃないわけじゃない。正直、こんな危険な世界に、事故でプロ引退した身としては、娘を入れたくはない。でも……』

 電話の奥、この日凛花の父親は初めて笑い、そして言いました。

『元プロとしては、こんな逸材を日常なんてつまらないところに置いときたくはないんでな』

「……っ!パパ——‼︎」

 先程まで強がっていた凛花の笑みは、本物に変わっていき、無理して押し堪えていた涙は、自然と溢れていきました。喜びの雫です。

『ま、そういうことだ。帰ったらお前を独走の最強選手にするために、プロ入り果たした我が息子同様にみっちりロードレースの技術を叩き込むからな。……覚悟しとけよ』

「…うん。……うんっ!ありがとう!パパ——‼︎」

 凛花はこの時、今日で一番の、満面の笑みを浮かべていました。彼女は生きることを許されたのです。

 この世界で、ロードレースという、過酷かつ、美しい世界で———


 娘との会話を終え電話を切ると、麟太郎は、湾がすぐ近くに見える会場を後にしました。娘の姿は見えなくても、成長してコースを走っていた、あの勇ましい姿を思い出し、微笑みながら、歩き出すのでした。

 自転車バカ……そして、親バカがここにまた一人。

 そしてその頃、もう一人の親バカはというと———

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