第19話 レーススタート

 レース開始一分前、スタートラインに並ぶ選手達は皆、緊張の面持ちで各々のポジションを確保していました。

 一番有利とされるのは前方。レースのどんな展開にも直ぐに対応することができ、先行や追走、集団コントロールなど、レースのどんな変化にも強く、相手にプレッシャーをかけられます。

 中間は比較的脚を休めて様子を伺うのには向いており、前に出てアタックするチャンスもあるポジション。

 後方は集団全体を見て、レースを把握できる上に一番、前方からの風を受けないポジション。と、ポジションには有利な点がそれぞれあり、何処にいても勝つ可能性がある……のですが。

 今回に限って言えば、前のポジションも後ろのポジションも、あまり変わりはありませんでした。理由は人数。

 この日、クリテリウムの女性部門に出場した選手は日向と凛花を含めてたった十人。横並びにしても、詰めれば全員が先頭で走り出せる人数です。

 このくらいの人数、規模ならば、そんなに緊張することなくレースができる……そう思うかもしれませんが、それは間違いです。

 どんなレースでも選手達はスタートラインに立った時が一番緊張し、不安と期待を抱くものです。

 日向もその例に漏れることはありません。

 身体の震えはロードバイクにまで伝達され、チェーンが揺れています。

「緊張してる?」

 横にいる凛花が微笑みながら日向に尋ねます。彼女はどうやら震えていませんが、内心はどうなのか。

 きっと日向には分かっています。

 だって凛花と日向は、

「いえ……緊張というより……」

 同じ気持ちで今、ラインの前に立っているのですから。

「武者震い……です‼︎」

 ぎこちなくも、いい笑顔を浮かべる日向に、凛花が「そうね」と同意します。この女子グループの中では恐らく最高のチームでしょう。彼女達は。

 そんな最高に昂ぶる二人に、いよいよ暴れる時間がやってきます。

『スタートは十秒前を過ぎ、五秒前。いよいよレースがスタートします』

 淡々と情報を告げるアナウンスを聞いて、選手達は右ビンディングシューズを右ビンディングペダルに固定し始めました。

 凛花も他と同様、直ぐに固定をし、そして日向も、

「……ビンディングシューズと、ビンディングペダル……」

 数分前のことを思い出しながら、初めてのビンディングデビューを、カチャンッ!という独特な固定音と共に果たすのでした。



 ——数分前。

 一旦凛花と別れ、日向と佐久は風華の車がある駐車場へと戻り、ロードバイクを取りに行きました。

「お、来たわね」

 そこには、手を上着のポケットに突っ込んで、車に寄りかかる風華の姿が。

「なんでいるのさ?」

「アタシがいなかったら誰が車から前輪出すワケ?」

「あ……」

 完全に外した前輪を忘れていた佐久が、間抜けにも口を開けて、しまったという顔をします。

 風華はため息を吐くと、車のスイッチを入れ、トランクからホイールケースに入った前輪を取り出し、佐久に渡しました。

「んじゃ、組み立てよろしく」

「う、うん……了解」

 それからの佐久の手際は名誉挽回と言って良いほどの素晴らしいものでした。テキパキとサイクルキャリアからロードバイクを取り外すと、前輪を装着。

 ズレたり曲がったりしている部分はないかなど点検をし、最後はロードバイクの前輪を上げて落とし、後輪を上げて落とし、と空気圧チェック。走れる準備が完了しました。

「普通だったらローラー台とかでアップをするんだけど、今回は無いからこの辺りでギアは軽めにしてアップをするとイイわ」

 風華のアドバイスに、

「アップですか。なるほど」

 日向はそう言うと、おもむろに腰を落とし、伸脚を。次に屈伸、アキレス腱伸ばしなど、ストレッチを始めました。

 肩を回したり、手首を捻るなど、一見自転車とは関係無いような動きをしていますが、実はコレ、結構重要なんです。今回は短いレースですが、自転車とは常にほぼ同じ姿勢で行われるスポーツ。

 なので肩などを動かせる状態にしておかないと、いざという時に力が入らなかったり、手首を柔軟にしないと、転んだ時に怪我が酷くなったりします。

 日向はストレッチと聞いて、一先ず、本で読んだ知識を活かし、全身を温めて動けるようにしたのでした。


 ギア軽めのペダリング確認を含めた一通りのストレッチが終わると、日向は再び風華の車のところに戻ってきました。

「準備万端です!いけます!」

 適度に温まった身体、精神状態、実はさっきちょこっと屋台で食うもん食ったのでお腹の減りも大丈夫。戦闘態勢は整いました。

「えぇ、見ただけでも分かるわ。初めてのレースのアップ、ローラー無しにしては丁度いいほぐれ具合よ。……てことで、それじゃあパパッと最後の仕上げ、いきますかね?」

 風華はそう言うと、車のドアを開け、その椅子に日向を座らせました。

 何をするのか分からず、頭に疑問符を浮かべる日向。

「悪いけどサイズと位置は寝てる時に測らせて貰ったから。コレ、履いてみて」

 そう言って風華は手に持っていたゴツゴツとした靴を日向に渡しました。

 見てみると、そのゴツゴツ感は表面だけでなく、裏面の方が凄く、凹凸がかなり激しい構造になっており、丸みを帯びた金属のパーツまでもが埋め込まれていました。

「コレは……?」

 首を傾げて尋ねる日向に、風華は想像通りの反応だったのか、満足気に笑い、

「——秘密兵器よ‼︎」

 と、高らかに答えるのでした。



 時は戻り開始三秒前。

 初めて付けたビンディングシューズとペダルの、その遊びなき固定感に驚きながらも、日向は考えていました。

(秘密兵器って言ってたけど……使い方聞いてないんだよね。ペダリングはいつも通りで、付ける時は凹みに入れて踏み込む、外す時は踵を外側にって言われて、それは出来たけど……)

 日向はビンディングシューズを見て、険しい表情になりました。

(これのどこが秘密兵器なの⁉拘束道具みたい!)

 説明が無かったのですから、日向の疑問もごもっとも。

 まあしかし、この状況でそんな事は聞けませんし、仮に聞けても、風華の狙いとは違う答えが返ってくるでしょう。

 今はそれよりもスタートの合図に耳を澄ませる方が重要です。日向は再び前を向くと、レバーを強く握り、心の中で、よしっ!と気合を入れました。

 いよいよレースの始まり。五秒前以降のアナウンスは、観客の声や音楽に掻き消されて全く聞こえませんでしたが、スタートを告げる音だけは、絶対に耳に入ります。

 運動会のかけっことかでよく使い、駄菓子屋に売ってそうな……言ってしまえば銃の音——〝号砲〟。


 それが、遂に——


 パァァァァン———‼︎と、空に向けて放たれ、レース開始を告げました。

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