デメリット
「っはーーーー、死ぬかと思った……」
無事にフォウザーさんを見送った後、ようやく斗真が衝立の向こうから出てきてヘナヘナと倒れこみながらそう言った。見るからに疲弊している。ゴーストの存在は相当、斗真に負担を与えたようだった。
「大げさだな。死ぬわけないだろう」
「オレにとっては命の危機っすよ! 確実に寿命は縮んでますからね!?」
「大して縮んでないから安心しなさい」
「否定して! そこは否定してくださいよぉぉぉ!!」
寿命は縮むんだ……なんか嫌だ。斗真が騒ぐのを無視してチカ先輩は紅茶を淹れはじめた。高級そうな茶葉の入った缶を開けただけでふわりと良い香りがする。
「事実、それほどのストレスを感じていたのなら寿命も縮まるでしょ。それは霊の存在にかかわらず、日常のストレスによっても同じこと。ほんと、現代の日本人は自ら寿命を縮めているんだから。もう少し逃げたり休んだり、気を楽に生きられないものかねぇ」
カップを温めたり、茶葉を蒸らしたり、一つ一つ丁寧に作業しながら言う先輩の言葉はなぜか説得力があった。本当に高校生だろうか。達観しているというか落ち着き払っているというか、下々の人間を高みの見物というか。そういった貫禄があるのがこの人だ。先輩の周囲は時間がゆったりと流れているような気さえした。女優業、学生生活、魔女……もとい魔法少女業と三つもこなしているというのに。誰よりも忙しいはずなのにこの余裕。
でもどれもこれも、「チカ先輩だから」で納得できてしまうんだよなぁ。疲れたと泣きたくなる日はないのだろうか。想像もつかないや。
「オレだって本当はそれを望んでるんすけどね……ま、霊感あってストレスかかる分、普段はダラダラするっすよ! バランスとれりゃいーっしょ!?」
「極端なんだよ、お前は」
これでこいつが普段から生真面目であったらそれはそれで心配になっていただろうし、確かにバランスは取れているのかもしれないけどさ。人に迷惑かけるのだけはやめてほしい。主に被害を受けるのは僕なんだから。
「ま、でも今回はトーマくんにとってはしんどい案件だったね。知ってれば準備もできたんだけど、まさかそこまで霊感があるとはねー。ってことだからお詫び。飲みなよ」
「えっ!? いーんすか!?」
そう言って、チカ先輩は紅茶のカップをそっと斗真の前に置いた。先輩が紅茶を振る舞うなんて珍しい……!
「王子くんも。なかなか良い説得だったよ。君にはいつも助けられているしね」
「僕も? いいんですか?」
「甘ったるいだけのミルクお湯がいいならそれを淹れてあげようか?」
「それはいつでも飲めるんで。せっかくですし、ありがたくいただきます」
ミルクお湯って。ちゃんと紅茶も入ってるし。先輩からすればもはやお湯なのかもしれないけどなんという言い草だ。
まぁ、こんなに良い香りを漂わせた紅茶の前では、そう言いたくなるのも頷けるけど。……あれはあれで美味しいんだぞ?
漂う香りを楽しんで、一口飲む。口に入れた瞬間香りが鼻に抜けていく。おぉ、これが本来の紅茶。その良さはわかるけど、美味しさまではわからない僕はやはりまだ子ども味覚なんだろうな。砂糖とミルクを入れたくなる。
「お好きにどーぞ」
「え、入れていいんですか?」
そう思ってたのがバレたのか、チカ先輩はどこからともなくミルクポットと角砂糖のガラス瓶を差し出してくれた。本来の味を楽しめないなんて! と怒られるかと思ったのに。
「この紅茶にはミルクも合うしね。それに、一口目はそのまま飲んだだろう? そうしたらあとは、本人が一番美味しいと思う飲み方をするのが良いに決まってる。作法がどうとか……気にする必要なんてない。ここはただ空き教室で、私たちはただの高校生なんだ。誰に何を気遣う必要がある?」
王子くんはこの中の誰よりもストレスを溜め込む気質を持っているよね、とチカ先輩は笑う。僕は遠慮なくミルクと砂糖をカップに投入した。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
のんびりとお茶を楽しむ間は斗真でさえも無言で、今もなお降り続けている雨の音だけが響く室内。その雨音に紛れるように僕は静かに問いかけた。先輩は短くどうぞ、とだけ答えて紅茶に口をつけている。
「……ゴーストって、その、寿命はあるんですか?」
フォウザーさんはこのままでは死ねない、とゴーストになる決意をしたということはわかった。でも、なんのデメリットもないわけはない。そうでなければ魔力を持っている人たちはみんなゴーストになりたがる気がするし。だって、霊体とはいえもう一度生きられるんだから。生きられる、という表現が正しいのかは微妙だけど。
僕の質問を聞いて、チカ先輩はもう一口だけ紅茶を飲んで、ゆっくりとカップを置く。それから目線を下げたまま、静かに答えた。
「ないよ」
簡潔なその答えには重みがあった。それだけで、彼がどれほどの覚悟を強いられたのかがわかった。
「……え、じゃ、じゃあ、あの人、ずっとあのままってことすか……? あのまま、存在し続けるってこと?」
意味に気づいた斗真が動揺したように言う。心なしか手が震えているな。斗真のその言葉にも、チカ先輩は短くそうだとだけ答えた。
つまり、フォウザーさんは、このまま永遠にゴーストとして彷徨い続けるってことなんだ。永遠、っていうのはちょっと言い過ぎかもしれない。霊体もいつかは終わりを迎えるのかもしれないけど、少なくとも、今後の長い時をゴーストとして彷徨うことになるんだ。
そう、たとえば、家族や、慕っていた人たちが次々に亡くなったとしても。その後、ずっとずっと存在し続ける。
とても想像のつかない状況だ。人はいつかは死ぬんだって、そんなの当たり前のことなのに、それが当たり前ではなくなったようで衝撃を受ける。
だって、そんなの。
「さみしい、じゃんか……」
僕の思考を読んだかのように、斗真がポツリと呟いた。死者なのに死ねないなんて、皮肉なものだ。
「一度は失った命。行くべき道を辿らずに現世に留まるんだから、それなりの代償があるのは当たり前なんだよ。この世界だって、現世に留まる霊は悪霊に変わっていってしまうんだから」
何かを得るためには何かを失う。何かを差し出すからこそ、望みが叶う。良いことの後には悪いことが起きるのは世界のバランスを取るために必要なことなのだと先輩は言う。
「ただ、世の中には自分の対価を近くの人間に払わせてしまう者もいるんだけどね。本人の意思とは関係なく、そういう体質を持つ者が」
「え、それって、もしオレに良いことがあった時、全然関係ない王子に悪いことが起きたりとか?」
「ま、そういうことだね。その逆も然り。世の中は理不尽だろう? この世を管理する存在がもしもいたとして、そいつだって細かく管理なんかできないだろうよ。案外、世界のルールってのは適当なんだよ」
さすがの私も神的な存在についてまでは想像でしかないけどね、とチカ先輩は冗談めかして笑った。正直、神と繋がりがあると言われても、そうなんだ、と信じてしまえる自信はあるけど。
「せめて、フォウザーさんが支持する人が次期国王になってくれたらいいんだけど……」
そこまでのリスクを知っていたにも関わらず、死の間際に迷いなくゴーストになる道を選んだのだろうし。並々ならぬ無念と覚悟が無駄になる、なんてことになってほしくない。
「きっとやるよ。ちょっと迷いはあったみたいだけど、君のおかげで吹っ切れたみたいだしね」
「だといいんですけど」
どのみち僕らに出来るのは祈ることだけだ。これまでの迷子にそうしたのと同じように、元の世界へと帰っていったゴーストに幸あらんことを、と願う。
「さ、君たちもそろそろ帰りなさい。雨も小降りになってきたことだし」
「え? あ、本当だ」
チカ先輩がパンと一つ手を打ってそう言うので窓の外を見てみれば、確かに小降りになっている。ついさっきまではまだザァザァと降っていたのに。今日の天気予報では夜中まで雨だったはず。止むことはないだろうから確かに帰るなら今がチャンスかもしれない。
「じゃ、お言葉に甘えてオレらは帰りますけど……先輩は? 帰らないんすか?」
カバンを肩にかけながら、斗真が先輩に聞いている。そういえば、先輩の家ってどの辺りにあるんだろう。
「もちろん帰るよ。少し用事を済ませたらね」
「用事?」
斗真が首を傾げると、チカ先輩は口元に人差し指をあてて不敵に微笑んだ。
「そう。乙女の秘密」
「お、乙女の……!?」
斗真、食いつくな。何を想像しているのか知らないけど、人の事情に首を突っ込むんじゃない。ましてやチカ先輩だぞ? 踏み込むだけなんかこう、危険な気がする。
「じゃあ、僕たち帰りますね。先輩も気をつけて帰ってください」
「そうするよ、ありがとね。また明日」
斗真の首根っこを掴んでドアの前まで向かい、振り向いて挨拶をすると先輩は愉快そうにクスクスと笑いながら返事をしてくれた。くそ、可愛い。外見だけは反則級に可愛い。だが、僕は惑わされない。そもそも、美人というのは鑑賞用なのだ。失礼な物言いかもしれないけれど。
「いてて、いてっ、離せって。もうちゃんと歩くからさー」
講義の声にパッと手を離すと、今度はバランスを崩したのか斗真がつんのめって転んだ。突然離すなよ、と文句を言うので、離せといったのはお前だろ、というお約束な返事をしておく。
それでもギャーギャーと文句を言ってくる斗真のことを軽くスルーして、廊下を歩きながら窓の外に目を向けた。まだ空はどんよりとしていて、いつまた本降りになるかわからない雰囲気だ。これはさっさと帰らなきゃ。
薄暗い外の景色に、先ほどまで見ていたチカ先輩の鮮やかすぎる色彩が白い影となって浮かんでくる。あぁもう、晴れの日も曇りの日も目に痛い先輩だな。軽く目頭をほぐし、僕は早歩きで廊下を進んだ。
先ほどのゴーストの恐怖がまだ後を引いていたのだろう、斗真が慌てて追いかけてくるのを背後に感じた。
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