フェンリルの対価
「たいか? たいかってなんだ? 食い物?」
チカ先輩の言葉に首を傾げながら犬は言う。ま、まぁ、犬に人間の言葉を理解しろって言っても無理な話か。人間の言葉で翻訳されてるけど。難しそうな単語は知らない、とかそんなレベルだろう。よし、コイツは幼児だと思って話そう。
「家に帰してあげる代わりに、何かくれってことだよ」
「お礼って事だな! わかったぞ!」
僕が通訳すると、犬は嬉しそうに尻尾をブンブンと振り回した。いや、何がそんなに嬉しいのだろう。犬の気持ちはわからない。
「驚いたな……王子くん、君は異界の子ども相手にスムーズに会話を進めることが出来るのか。これはありがたい」
「エイジです。……ん? 今、なんて言いました?」
チカ先輩も、僕の名前をもはや訂正する気がなさそうでため息がでる。でもそれは置いておいて、聞き捨てならない発言を聞いた気がする。
「ん? スムーズに会話を進められる?」
「その前です」
「異界の子ども相手に?」
「それです!」
異界って何? そして子どもって? 僕の脳内は疑問符だらけだ。けどチカ先輩はどうってことない表情で、ああ、そのことかと口を開く。
「この子は、まだ子どもだぞ?」
「成犬じゃないんですか!?」
「もちろん。というかそもそも犬ではない。フェンリルという種族だ」
そういえば、さっきからチカ先輩はこの犬をフェンリルと呼んでたな。名前か何かだと思ってた。僕は隣にいる斗真に顔を向け、知っているかと目で尋ねた。斗真も首を横に振っていたので、知らないということだろう。
「まぁ、簡単に言うと大地を揺らす魔物だ。魔力を持っていて魔法も使える巨大な狼だと思えば良い」
「そ、そんな生き物がいるんですか……」
「当然、この世界にはいないよ。だから異界からの迷子なんだってば」
異界……それはつまり、この世界とは違う世界がどこかにあって、そこからこのフェンリルはこちらの世界に迷い込んだ、という事だろうか。理解はできたけど信じられない。申し訳ないけれども。
「フェンリルが成体になったら……そうだな、こちらで例えるなら小さくともライオン、大きくて象くらいの大きさになる」
「げ……!」
予想外の大きさに斗真が思わずうめき声をもらす。僕も気持ち的には同じである。
「こ、子どもでよかった……!」
「当たり前だよ。そもそも、世界と世界の狭間に迷い込んでしまうのは、魔力の弱い存在だけなんだから。大人のフェンリルが迷い込むことはまずない」
当然のようにチカ先輩は言うけれど、僕らそんな常識知らないから。にしても、異界の生物か……未知の領域を垣間見た感じがして、ちょっと興味深い。そりゃ、話に聞いただけならそんなの嘘だって興味も湧かないけど、目の前にいたら気になる。……このフェンリルも魔法を使うのだろうか。思わずジッと見つめてしまう。
すると、フェンリルが突如、所在なさげにソワソワし始めた。見すぎたか? と思ったけど、どうも違うらしい。
「なぁなぁ、オイラ、魔女に渡せるものなんて、なんにも持ってないんだけど……毛を毟る? やだぁ、禿げるのはやだぁぁぁ」
確かに毛並みは美しいから、かなり高価な毛皮に……いや、流石にかわいそうだな。毛皮にするなら毟るだけじゃダメだし。一気にスプラッタだ。
ひとまず僕は、オンオン泣き出したフェンリルを撫でながらあやしてやる。
「毟らない。勝手に想像して泣きべそをかくな。まったく……」
チカ先輩は額に手を当ててはぁ、とため息を吐いた。さっき、魔力が弱い者が迷子になるって言ってたし、きっと子どもが多いのだろう。心底疲れた、というような先輩の態度を見ていると、先輩は異界からくる迷子の相手に辟易としているのかもしれない、なんて思った。
「でもチカせんぱぁい? だったらこの子から何を貰うんすか? 毛じゃないなら、牙?」
「うわぁぁぁん! 歯を抜かれるのもやだぁぁぁ!!」
と、斗真が余計なことを無神経にも聞いてきたために、フェンリルはさらに涙をポロポロこぼしはじめた。僕はよしよし、とさらに宥めるのに必死である。でも、この泣きっぷりに対して音量はそうでもない。大口開けてるのに。さっき、先輩が騒がない、逃げない、みたいな契約をしてたから、それが影響してるのかな。うーん、つくづくすごい。
「おい、トーマ! 余計なことを言って迷子を不安にさせるんじゃない。以後、喋るなお前は! フェンリル、牙も抜かない。痛いことは何もしないから泣くんじゃない」
チカ先輩が斗真に注意を飛ばしながら回し蹴りを決めた。美しい軌跡を描いた先輩の踵は綺麗に斗真の鳩尾にヒットする。高さを調整してくれたのだろう。ほんの少し先輩の優しさを垣間見た気がするけど、斗真の呻きっぷりを見たら受けたいとは全く思わない。一言余計な斗真の悪い癖が災いとなった。これで少しは改善されることを祈る。
「ほ、ほんとぉ……?」
「本当だよ。嘘はつかない」
「ぐすっ、そうだよね。オイラ聞いたことある。魔女は何があっても嘘は吐かないって」
「魔法少女だ」
ほんと、魔法少女にこだわるな、この人。響きがそんなに重要なのだろうか。怖いから聞けないけど。僕は空気が読めるのだ。
にしても、魔女は嘘をつかない、っていうのは異界の常識なのか? 幼い子どもが知っているくらいだし。
「重大な嘘は吐かないってだけで、小さくてくだらない嘘は吐くけどね」
吐くのかよ。ここは肯定しておけよ。それともそれだと重大な嘘になってしまうのだろうか。謎だ。
「話を戻そう。対価っていうのはな、フェンリル。君から異界の話を聞かせてもらいたい」
「おはなし?」
「そうだ。迷い込む前はどんな場所に住んでいて、誰かと会っていたのか、それはどんな人物なのか、とかそう言ったことだな」
椅子に座りなおしたチカ先輩は、足を組んでフェンリルにそんなことを言った。その内容が意外だったから、僕もフェンリルもぽかんとしてしまう。
「そ、それだけ……?」
そして思わずそう呟いた。だって、対価っていうからもっとこう、重要ななにかを要求するんだと思うじゃないか。それとも、世界を渡らせる魔法ってのはそんなに簡単なのか? よくはわからないけど、なんとなく物凄い魔法な気がするんだけど。
すると、チカ先輩はチッチッと指を振った。どこか偉そうな態度だが、実際この場で先輩に逆らえる者はいないので黙る。
「情報ってうのは宝なんだよ。何にも勝る、ね。子どもでも払えて、貴重な宝。報酬として申し分ないよ」
でも、先輩がどこまでも真っ直ぐな目でそう言うから、妙に納得してしまった。……うん、まあ、情報は武器っていうしね。間違いではないのだと思う。
ただ、どことなく真剣味が増していたから、何かあるのかもしれない、なんて邪智しただけだ。気のせいかもしれないし。蛍光色だから目がチカチカするから、そのせいという可能性もある。
「オイラのこと、話せばいいのー?」
「そう。話せる?」
「もっちろーん!」
思いの外簡単な事だったから、気が楽になったのだろう。さっきまでオイオイ泣いてたのが嘘のように、フェンリルは尻尾をブンブンと振った。単純だな。やっぱ犬でいいかもしれない。
「もふりてぇ……」
いつの間に復活したのか、斗真が両手をワキワキさせながらフェンリルに近付こうとしている。気持ちはわかるが、お前、もう少し理性に仕事させろと言いたい。
「言っておくけど、私が異界の者と話している間は絶対に余計な口も手も出さないように」
あと少しで斗真の手がフェンリルに触れる、というところで、氷点下の冷気を感じさせる口調でチカ先輩が忠告した。笑顔だ。スマイル。いくら無料でもその笑顔はいらないと僕は思う。
「お、大人しくしてまーす……」
「賢明な判断だ」
本能で危機を察知した斗真はすごすごと退散してきた。先輩の言うように、珍しく賢明な判断だったと思うぞ。まじで。僕は斗真の首根っこを引っ掴み、少し下がった辺りで椅子に座らせた。僕も隣の椅子に腰を下ろす。
「では、聞かせてくれ」
「わかった! えっとえっと、オイラ、普段は森に住んでる!」
「…………」
「?」
意気揚々と話したフェンリルと、続きを待つ先輩。まさかとは思うが、フェンリル、それでおしまいってわけじゃないよな? そう思ってそうだ。
「……えー、誰と住んでる?」
チカ先輩がそう問うと、フェンリルは嬉しそうに仲間たち! と答えた。なるほど。これは質問しないとダメなやつだ。先輩も気づいたのか、あれこれと質問していくことにしたようだ。こうして聞いてみて得られた情報はざっとこんなものである。
大きな森で複数のフェンリル同士、群れを作って生活している。散歩していたら突然辺りが眩しく光って、気付いたら白い空間にいた。小さい頃に、怪我をしているところを助けてくれた少女と仲が良い。その少女とは時々遊ぶ。その少女はお姫様である。
姫!? お前、そんなんなのに王家と繋がりがあんのかよ! 思わず叫びそうになったけど耐えた自分を褒めたい。でもまぁ、フェンリルにとっちゃ人間の王様だとかどうとかは、結構どうでもいい事なのかもしれないよな。人間の価値観で決めつけるのはよくない。
「オイラたち、受けた恩は返すのがほこり? なんだ! 姫さまが困ってたら、オイラ助けてやるんだ!」
それに、本人が姫に懐いていて、有事の際に助ける気満々なら、余計に気にすることはないかもな。そんな風に一人納得していると、チカ先輩が立ち上がった。
「よくわかった。教えてくれてありがとう。対価、確かに受け取ったよ」
それからフェンリルの頭を一撫でして、微笑んだ。やっぱり美人だよなぁ、なんてうっかり思ってしまう。
「では、早速元の場所へ帰そう。辺りが光ったというから、何か大きな魔法の魔力によって空間が捻れたんだろう。それに巻き込まれたってとこだね。大丈夫、帰れるよ」
「本当か? よかったー! お願いするんだぞー!」
チカ先輩の言葉にフェンリルは軽く飛び跳ねて喜んだ。こういう姿はなんだか可愛く見えるな。そうこうしている間に予鈴が僕らの耳に入ってきた。そろそろやばそうだ。
「契約成立。帰還せよ」
両手をパンと合わせてチカ先輩がそう言うと、フェンリルの足元に円形の不思議な模様が現れて発光した。ま、まぶしっ! 僕は思わず目を細める。
眩しい中、次第にフェンリルの足元から透けていくのが見て取れた。ほ、本当に帰るんだな。そう思ったら、僕はフェンリルに向かって叫んでいた。
「っ、強くなれよ! お姫様を守りたいなら」
「! おう! もちろんだー!」
そんな声だけを残してフェンリルは消え去り、光が次第に収まっていく。後に残ったのはぼんやりと呆けた僕と斗真と、晴れやかな表情のチカ先輩だけとなったのだ。
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