復帰

「ねえお姉さま私肉を食べられるようになりたいわ」

 植物しか食べられない松子は姉にそういった。

「あらベジタリアンのあなたがどうしたの急に」

 姉の外子は大きめの固い唐揚げから顔を上げた。

「お姉さま髪の毛が口に入っているわ」

「嫌だ共食いになってしまうわ」外子は髪を束ねなおした。「ありがとうでもどうしたの肉を食べたいなんて」

「ねえ姉さま私ひ弱な自分にもううんざりなんです。生っちろい腕や卑屈な気持ちを改善したいのです。生まれつき何をさせてもどんくさいしどうにも駄目駄目なんだとお姉さまも知っているでしょう。私が軟弱者なのと比べ、お姉さまは背も大きいし機転は利くし、丈夫な体は病気もしないし、学校一足が速いから球技も出来るわ。お友達だって多いのでしょう。同じ生まれの姉妹なのにこうも違うのはお姉さまは毎日肉ばかり食べていて私は野菜ばかり食べているからだわ」

「私は運動部だから」外子はそういって唐揚げを見た。外子は陸上部で短距離選手だった。

「私が劣るのは動物性蛋白が足りないせいよ。小鳥の餌のような食事をして碌な栄養を採らないからだわ。私は姉さまのようになりたいわだから肉を食べたいんです」

「私てっきりあなたは思想的菜食主義者なのかと思っていたわ」

「肉が苦手なだけなんです」松子はサラダを無意味にかき混ぜた。

「それにしてもいきなりね」

「真っ当な人間になりたいだけなんですお願い私を肉の食べれる強い体にしてください私も逞しくなりたいんです」

「いいでしょうでも努力がいるわよ」

「耐えてみせます」翌日から松子の肉食復帰が始まった。食事の支度は外子がした。

 肉を食う気でいたのに出てきたのが豆だったので松子は拍子抜けした。

「まずは慣らしていかないとね」ご飯をよそいながら外子はいった。

「ああ緊張して損した」松子はそれでもほっとした。

「召し上がれ」

「いただきますでもどうして豆なの」

「ほらよく御覧なさい」

 姉が促すので松子は黒豆を注視した。「なあに」

「虫に見えない黒光りして。ほらこっちの豆もたくさんの群れ」

「ええ」

「虫は動物よ動物の手前よ。いきなり牛には行けないでしょう。少しずつ慣らさないとね」

 虫のように見える植物で動物(非植物)への嫌悪を慣れさせようということらしかった。

「見えないわでも」松子は苦笑した。「無理しなきゃ無理よ」

「あらそうなの」外子も照れて笑った。「お弁当も豆ね」

 夜も豆だった。

「精進料理みたいどんどん草食になっていくわむしろ」

「残しちゃ駄目よ」

「うんいただきます」

 黒豆の中には死んだ蝿が二匹浸かっていた。汁を吸って翅も腹もふやけていた。

「姉さま蝿が」

「少しずつ慣らさないとね」

「蝿」

「無理しなきゃ虫に見えないわよ昼も気がつかなんだでしょう」

「昼って」

「お弁当にも一匹入れたのよ」姉は嬉しそうに空の弁当箱を洗っていた。

 翌朝は豆と蝿の比率が七対三まで上がった。黒豆以外の豆も順次カメムシ等と混ぜられていった。翌日の弁当箱には生きた芋虫が一杯に詰められていた。魔法瓶を開けると蝗の佃煮が湯気を上げていた。夜には魚への準備体操としてシャリの上に甲虫を載せた鮨も用意された。一週間すると松子は頭痛に苛まれるようになった。

「お姉さま頭が痛いの顎から耳へ針金を刺したみたい」

「我慢なさい」

「いつまでも口に翅の味がするの脚が歯に詰まっている気がするの。何度も何度もゆすいでいるのに血が出てもずっと磨いているのに」

「努力が要るといったでしょう。さあ今日から鳥と魚よ」

 鶏肉の前段階として外子は羽毛布団の中身を煮干で煮込んだものを松子に飲ませた。魚としては他にルアーを複数個ひたすら舐めさせたりもした。布団が二枚目に入る頃には意識が朦朧としてきて、松子はルアーを四つほど誤飲した。

 慣らしの偽物でこのざまでは、本物の鳥や魚を見た日にはどうなってしまうのかしらと松子は思った。こんなに肉食への過程が苛酷で苦痛なものだというのは予想外だった。ぼうっとしているだけの授業が終わりふらふらしているとグラウンドを外子が走っているのが見えた。

「全国を目指し部活に励み帰れば二人分の食事を作ってくれる姉はなんて優しくて逞しいのだろう」自分もこのままでは駄目だと松子は思った。

「やあお姉さんを待ってるの」

 声をかけられ松子が振り向くとクラスメイトの山田が立っていた。

「や山田さん何故ここに」松子はふらつかぬよう手を握り締めた。

「部活帰りだよ」山田は新体操部のエースだった。「たまたま通って」

「私も一緒で、たまたまでもう帰るんです」手が汗ばむのが自分で判った。

「松子さんは部活やらないの?」

「部活、は」松子は惨めな気持ちになり目がしばしばした。

「お姉さん運動神経いいし何かやればいいのにと」

「私はあんまりよくないんです」

「あらそうなのでも楽しいよ体動かすと」

「うん何か考えてみます」

「うんじゃあ帰ろっかな」

「私もう少し見ていくからじゃあね」

「うんじゃあね」

 去っていく山田の後ろ姿を松子はじっと眺めていた。運動部らしい引き締まった背中だった。自分の猫背が恥ずかしくなって松子は背を伸ばし深呼吸した。

「なるほどそういうあれだったのね」

 いつの間にか背後にいた外子がいった。松子は驚いて仰け反り足を挫いた。

「お姉さま」

「卑屈で向上心のないあなたが自分から変わりたいなどといい頑張るなんておかしいと思えば」

「心を入れ替えたいのは本当なんです」

「じゃあしっかり耐え切らないとね。今日が復帰最終日よ」

「はい」

 目の前に並んだあじの開きとフライドチキンを見て松子は恐怖のあまり震え始めた。今まで耐えられたのが不思議なだけにもう駄目だという絶望で目の前は真っ暗だった。

「さあ箸を持ちなさい口を開きなさい食べなさい」

 外子は向かいの席で妹を静かに見つめていた。これを食いそして死ぬんだとなんとなく松子は思った。観念し吐き気をこらえながらあじのグロテスクな頭部に舌をつけ、舐めてから噛み締めた。ばりばりと乾いた音がして炭化したひれが口中に広がった。硬い骨を奥歯で砕くとぱさぱさになった眼球が転がり出て舌の上でとろけた。

「あっおいしい」

 意外と平気どころか食欲を感じていることに松子は自分で驚いていた。気がつくと貪るように皿を舐めていて、あっという間に三匹のあじは消えていた。チキンも同様で骨すら残らなかった。

「何これ全然おいしいわ! あんなに今まで辛かったのに何故肉がこんなおいしいの」

「だって今まで食べ物じゃないじゃない」

「あっ」

「どうやら肉食に復帰できたようねほら豚カツと焼肉さん太郎よ」

「おいしいおいしいうまいわうまいわ! ああ!」

「何だい松子今日は元気だね」帰宅した父親がドアを開け現れた。

「最近二人でこそこそしているんですよ」母親が二階から降りてきて晩酌の支度を始めた。

「すごいわ肉っておいしいのね」松子は飼い猫を食べながら目を輝かせていった。

「松子」

「お父さんもお母さんもすごいおいしいわ!」父の眼球を吸いながら松子は感動で大絶叫した。姉の外子も悲鳴を上げた。松子は母の手料理を作っているところだった。

「ああもう駄目すごい私もう肉しか食べれないわ太る前に運動しなきゃ」

 一大体験をした松子はすっかり性格も変わり新体操部他複数の部活に入り日々をカロリー消費に費やした。お腹が空くと部員を食べてしまうのでサークルクラッシャーとして恐れられた。山田さんとも仲良くなれた。

 姉は家族が食べられるのを見て以来すっかり肉を食べれなくなってしまった。青白くやつれてしまったので今度は松子が豆や虫やを食べさせ続けたが、復帰最終日に遊びに来ていた山田さんを食べてしまいまた松子は肉を食えなくなった。

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