教室

「結局調べてみたら原爆じゃあなかったらしいよ」

「じゃあまだ日本では電源ケーブルが医業類似行為に使用されてるの?」 

 教室の右後ろの方では二人組みが小さな声で話している。机の上にはノートを広げているが、授業が始まってからずっと喋り続けていて、まだ何も書いてはいない。

「歯が抜け落ちるらしいよ。因果関係の証明は難しいらしいけれど」

「じゃあなんで新聞紙はいくら食べても右翼から賠償請求されないんだろう。メタルフレームの二次的目的での使用は原則的に禁止されているのに」

 教室の一番前では中年の教師が黒板に板書をしている。単語を無数に羅列し何重もの丸で囲み、それらを曲がりくねった矢印で繋ぎ合わせ複雑な相関図を築いていく。チョークの音が力なく続いている。

 誤字があったのかシャツの袖で黒板を何度も擦る。黒板消しには目もくれない。青いシャツの袖が白く汚れる。

 教卓の真正面に座っている生徒は静かに板書をノートに書き写している。

 背筋を老婆のように丸め首を突き出しシャープペンシルを指がねじれて潰れてしまいそうないびつな持ち方で握り、顔を机に付きそうなほどに近づけ、手元と黒板を交互に見つめている。姿勢と裏腹に、書かれていく字は少し丸みがあって特徴的だが、きれいな読みやすいものだった。

 教室の左、窓側の列には四人の生徒が座っている。

 一番前の席に座っている生徒は先程から机の表面に落書いている。おかしな顔をした人間や変な生き物の絵をいくつもいくつも、書き記している。

その真後ろ、二番目の席の生徒は眠っている。机に倒れこむようにして寝ている。時折いかにも不健康そうな汚いいびきが漏れる。口の端から流れ出た涎は右の袖をぐしゃぐしゃに濡らしている。

 その隣に座っている生徒は食事をしている。黒板を眺めながら手作りらしいお握りに噛り付いている。隣の席からいびきが聞こえてくるとちらとそちらに視線を移し、死ねと思ってから視線を戻す。程なく握り飯を平らげると、かばんから袋詰めのカレーパンを取り出し盛大な音を立てて包装を破り、静かに口に運ぶ。黒板を眺める顔は何も考えていないかのように静かな無表情だった。

 その斜め後ろ(寝ている生徒の真後ろ)では腹を抱えるようにして一人の生徒がうずくまっている。顔を苦しそうにゆがめている。熱くて悪い汗が全身から噴き出している。教師の話も殆ど頭に入っていない。

 板書を終えて振り返った教師が一瞬その生徒の方にちらと目を留める。

 が、それが特にどうということはなく、授業は進む。

「今黒板に記したように、青年は少女と親密な関係でしたが少女の母親は将校を殺して山に消えました。山に逃げればたいていのことでは見つかりません。そこで青年は少女の父親に車を貸してくれと頼みました。これはいったい何のためでしょうか誰かわかりますかじゃあそれじゃあそこのあんた」教師は教室の真ん中辺りに座る生徒を指差す。

 その生徒は下を向いたまま洟をかんでいる。ぶびゅうという可愛らしい音が響く。下を向いていたので自分が当てられたことに気づいていない。

「じゃああんた」目を伏せて教師はその後ろの生徒を指す。

「はい」その生徒は勢いよく立ち上がり、そのまま椅子の上に立つ。「青年は少女か、少女の父親をひき殺すつもりだったんです。でも自分は車を持っていないから借りたんです。なぜなら少女の母親は探しても見つかりません。なぜなら車では山へはいけませんだからです。将校については生前少女に暴行を加えていたので死んでよかったと思います。でも少女が酒飲みである父親から暴行を受けないか心配です。だから青年は父親をひき殺すか少女をひこうと思いました。なぜならば自分もいつか仲良しの少女を暴行してしまいそうだったからです。そういう理由で僕は飲酒にも反対です」

 教卓の前に座る生徒は歯噛みする思いでそれを聴いている。怒鳴りつけてやりたい衝動が膀胱の辺りから立ち上って、脳の芯が熱を持つ。両の膝が自然と揺れ始める。

「でも飲酒は駄目でモアレ法は楽しい、って理屈つける人いるけどあれはどうかと思わない?」二人組みの片割れが呟く。「自分の体なんて恥ずかしくないのかな」

「感染症の危険性が高いらしいよ夜汽車の寝台って。低反発寝具の魅力には抗いがたいらしいけどね現地の人たちは」もう片方もきょろきょろしながらささやく。

「じゃあラヂオテルミーって結局絶版状態なの?」

「はいまあいいでしょう」教師が、何も聴いていなかったがそういう。「青年は少女と買い物に行こうとしていたんですね。じゃあ続きを誰か読んで下さいええと誰がいいかな」

 教師はきょろきょろと教室を見回すが、目の前の席で生徒が自分を必死に見つめていることには気づかない。元々教室を見回すだけで生徒は見ていないからでもある。

「じゃああんたもっかい。読んで」

 椅子の上に立ったままの生徒を教師は再び指名する。最前列の生徒は教師を睨みつけてより激しく膝を揺すり始める。指名された椅子の上の生徒は嬉しそうにはにかむ。

「はい、読みます。『まだ五歳の少女はぎょろりと青年を仰ぎ見る。俯いた眉間から察するに、落ち込んでいるようだった。青年の悲愴な眉毛はこの三日でだいぶ薄くなっていた。彼が夜ごと少女に抜かせていたのだ。少女は自分の歯に挟まった青年の眉毛の、ちりちりした感触を思い出す。

 少女は顔を強張らせている父親の手を握った。そんな事するつもりは少しもなかったのに、父親の顔を見ていたら明日は学校だという事を思い出してしまったのだ。』」

「もういいよ」教師が止める。「はい、少女は父親の手を握りました。気持ち悪いですね。こんなことあるわけないですね。気持ち悪いですね。この少女気持ち悪いですね。この父親気持ち悪いですね。青年はいいです別に。作者も気持ち悪いですね。こんな文章を読んだあんたも気持ち悪いですね。椅子なんかに立っちゃって」

 その言葉を聞いて椅子の上の生徒は突然飼い主に殴られた豚のような表情を浮かべた。代わりに顔から笑みが引いた。

 教師とその生徒とを交互に窺いながら委員長席の生徒はなおも膝を揺すり続けた。強く握り締めていたシャーペンのHB芯がぶちんと音を立てて折れた。芯は折れた勢いで飛び、生徒の右の目玉に優しく刺さった。

「いあっうわっいっあっあっひ」激痛に生徒の体がはねた。椅子が引かれてがたんと音を立てた。右目に指をやりそれが更に痛みを酷くした。

 教室の何人かの視線が、音のした方に集まった。

「どうしたのあんた」教師が目を押さえる生徒を見る。「なんかあったの。誰か知ってる人いる? あんたなんか知ってる?」

 教師に突然声をかけられて、落書きをしていた生徒は体をびくっと痙攣させて、慌ててノートで落書きを隠した。それから、萎縮したしゃがれ声でわかりませんとだけ答えた。

 教師は「そう」といってから生徒の手元を一瞥して、気持ち悪い、と付け足した。 生徒はそれを聞いて自分の胃腸がワイングラスのように冷えていくのを感じて、顔を真っ赤にしながら塗り潰すようにごりごりと落書きを消し始めた。

 教師は目を押さえる生徒に話しかける。

「ねえあんたどうしたの。声あげて、大きな音立てて。顔なんか押さえて。泣いてるね。気持ち悪い。涙なんか流して。何か辛いの。どうしたの。何が辛いの。泣くほどのことなの。我慢できないの。気持ち悪いねあんた。あんただけじゃない。みんな気持ち悪い。この教室のみんな気持ち悪い。正気なのそれで。何やってんのあんたら馬鹿じゃねえのみんな俺も含めてみんな」

 左隅でずっとうずくまっていた生徒はもう耐え切れなくなって、腹から来た波のままに中身を戻してしまった。歯を食いしばってなんとか口の中で堰き止めていたが量が尋常でなかったせいか結局押し切られる形で自分の太ももの上に丸ごと吐き出して、そのあとはひたすらげえげえとえづき続けた。

 胃酸の香りが狭い教室を包む。

 パック入りの豆乳を飲みながら物音に振り返った生徒は、下半身が吐瀉物まみれの生徒を見てむせ返り、続いてまさに二度目の吐瀉の瞬間を目撃し、温かい臭いを鼻に受けて、自分ももらってしまった。教室を出ようと立ち上がったところで喉を熱がせり上がり口から流れ出た。十秒前に嚥下した豆乳がパックの中ヘ戻っていく。

 隣の生徒が吐き出した米粒交じりのカレーパンを頭にかぶって、熟睡していた生徒ははっと跳ね起きた。それから「お兄ちゃん!」と叫んで立ち上がり駆け出そうとして、床の豆乳に滑って尻餅をついた。その痛みで目は覚めた。

 洟をかんでいた生徒は鼻が詰まっていたせいで臭いの被害には遭わなかったが鼻腔の皮膚が傷んだせいで鼻血が出てしまった。止血しようと思ったがティッシュがもう看板だった。とっさに手元のプリントを鼻に当てた。

「なにあいつ気持ち悪い」二人組みの片方が教師を睨んで呟く。「教師なのに。教師のくせに」

「でも、一理あるよ」もう片方が呟く。「お前は気持ち悪いよ」

「えっ?」

「どうしたの大声出して」

「なんていったの今」

「何もいってないよ」

「いったよいったじゃない」

「そう。なんていった?」

 二人組みの片方は黙り込んだ。

「あ、外見て雨だ。いやに寒いと思ったら雨が降ってるよ」

 片方はそれでも変わらず黙り込んだままだった。

 返事がないので、もう片方も黙った。

 この授業が始まってから初めて二人は沈黙した。

 そうして、教室は静まり返った。誰も何も喋らなかった。雨音が小さく聴こえた。

 

 どこか遠くでチャイムが鳴った。

 チャイムだ、授業が終わったのだ、と、教室の全員が思った。

 それから「よかった」と、これも全員が思った。

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