健康都市

 夢でだけ行ける町があります。オレンジの明かり駅を出て本屋、長い商店街、バスは山へ出て宅地に着きまた駅へ引き返します。バス停に人がいるのは雨か何か降っているからで、本屋の棚には読まずに済ましたSFなどがあり本を探すのが辛い時の気持ちになります。本屋は雨でしけっており、オレンジなのも雨のせいです。夢の駅へはバスでも電車でも自転車でも来れて、地元の駅とはよく似ています。似ているのはがわでなく降りた駅の感覚で、ここで降りる自分は帰り路といつも思えるので、何かしらどんづまりがその場所なんだという風に感じます。

病気で悲しい時取り返しのつかん夢を見ます。小さい頃は青い血の夢を見ていました。今もまだ見る夢はありますが、見なくなった夢の話です。


 夢町の夢を見ていた太郎はがなる電話のベルで目覚めた。空っぽの部屋は暗く色落ちしていた。電話の音は世界一有名な映像の音声を抜いたもので、受話器に触れると指が滑った。「はい新聞太郎です」

「すぐ出ろよ」窓の外は面白い雨だった。「終わったの準備」

 声は友達の権化太郎だった。友達ではないかもしれなかった。権化の声は怒ったそれで、壁に目をこらすとぼんやり十二時だった。

「ごめん寝てて」「出来たの準備」「何となく間に合いそう」「あと二日と判っているの」

「そんな焦らなくとも」片付け自体はおおよそ終わっていた。「荷物も少ないし平気でしょう」

「お前昨日大学にいたろ」権化の背後を誰かが通った。外なのかなと太郎は思った。

「行ってないよ」

「売店で雑誌読んでたろおれ見つけると逃げただろ」責める口調はトマトの棘の手触りだった。「授業もさぼって準備もしないで、見てないとこで怠けるやつとは思ってたが」

「知らないよ昨日は荷造りしたまま寝ちゃって」

「自分が目瞑った自分が人にも見えんと思っているなよ」

 切れた電話を見て太郎が首を捻ると気泡がはじけて鳴った。ヘリコプターの音が聞こえた。誠意の悪さは実際そうだが一日篭っていたのも本当で、庇の外では点々の雨がガラスの裏面を移動していた。

 しばらく見ていると何か食べようという気になった。

「食べて何するか考えよう」

 半端に残っていた麺を茹で沼ほどドレッシングを掛けて食べた。パスタの上を流れる素材は粉雪の舞う玩具に似ていた。部屋の片付けはあらかただったが外で済ます用事が幾つも手つかずで放ってあった。そんな準備で、外は雨だった。

 食後砂糖をなめていると電気のように元気が出てきた。使い切ったドレッシングにはお湯を入れた。外出できる気分になったところで便箋を剥がし、水性のペンで計画を立てた。





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           午後89辺り ―

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                                   (滴)

                                   


 一本電話をかけている内に雲間から日の出る感がした。外に出て蝸牛のような太陽を見つつ太郎は濡れる階段を下りた。目覚めて十時間が経過していた。


 太郎の住処の住宅街は土地の小高い坂町だった。お椀の形に傾く道路を重力に任せ駅へと向かった。逆さのピラミッドのような柿の木が生えていた。

 寂れる町の変化は速く昨日の店が今日ないこともしばしばで、途中にあった字塾と目医者が看板を消してなくなっていた。時々辿り着けない円筒車庫の豪邸が宙にせり出すように建っていた。迂回するよう道を辿り、蜂の出る果物畑の横を抜け自殺電柱を過ぎると急に道が傾きを増し、ついつい走る内いつの間にかロータリーの自販機に手をついているのだった。重力任せで駅に着くので入り組んだ家と坂道の全容を太郎は今も把握していなかった。

 足の甲が痛むのでゆっくり歩道を渡った。陽の渦巻きを背負って逆光だった。駅の階段の日陰の中をカチューシャをした牛が上がっていった。

 昼間の電車は古い車両だった。電車の中は古い考え方で満ちていた。差す日と影と地面の音だけ脳に届くようだった。緩いカーブで肩身がずれた。電車の全員が傾くのを見てこういう暮らしが出来ればいいと思った。

 「お兄さんこんにちは」 向かいに座る若い男性が太郎に声をかけてきた。判らなかったが、呼ばれたようだった。                 「僕ですか」

「お兄さんかっこいいですね、爽やか」男性はいって笑った。「お時間ないですか流星の見える日、花の模様の丼の渦に興味が強いですか。僕たち集めてます、運転して行くのが出来た絵が覚え方がすぐですか? 心配です、健康すぐでしたか? 今日も大丈夫です。健康ですね。興味あります、大全巨大大全巨大の服は黒い伊藤さんも明日です。具体的次第です。お兄さんのお姉さん赤そうなことですが、具体的には人間が完全でした? あ? 興味した具体的に僕のお兄さんが一時間前のお兄さかっこいかっこよ兄さん、一度見てみませんか。この先の軍制橋で順番にやってます見に来てくれませんか。お茶とお菓子とお化けも出ますよ僕と一緒に、伊藤さんも明日です」

「ごめんなさい」太郎はちらしだけもらった。          「こんにちは」

 乗り込んできたお婆さんが太郎を見て微笑んだ。「どこ行くんですか」

                  少し戸惑って太郎は挨拶を返した。「はい」

        「判ります?」自分を指してお婆さんが聞いたが太郎には覚えがなかった。最近それほど出かけてないのでだいぶ前に会った人かも知れなかった。「先週この電車で、インコ。あっ時はありがとうございました、今日も高校ですか?」

「ごめんなさい多分人違いです」太郎は握られる手に笑顔で謝った。「席どうぞ」

「ドリンク飲んでますか」車両を移動した太郎に窓際の女性が話しかけてきた。

「何ですかごめんなさい」

「茸と痰のドリンクです飲んでないんですか毎日飲むのが大事と」

「すいませんどこかで」

「薬局の娘です一昨日うちに来ましたよね」女性は太郎を見た。「勘違いですか」

 目的地に電車が着くまで都合二十人近くに太郎は話しかけられた。老若男女と手広く、全員と面識がなかった。謝るだけでずいぶん消耗し、電車を降りるとくたくただった。           「変わった日だな」

 改札を抜け人込みを歩き、駅ビルを出ると高い空が見えた。過ぎる電車の音が響いた。高架の広場がビル間を繋ぎ、眼前に広告都市が広がっていた。

 視界の八分が三本の広告ビルで、空の青でビルも青かった。倒れたような近い高さに雲と反射が暗く映った。奥行きに向け、水草のように建物の角が続いていた。

 ビルは文字で出来ていた。漢字が多いがひらがなもあった。大きなひらがなは細くなく丸くなく、線でなく小さくなく、巨大さで近くから読めず、遠くでは読めて、手書きの機微から遠ざかりすぎて記号とも違う装置に見えた。家より大きい建造物が右手と仲よくしているさまが、大きいビルには表情に見えた。

 広告文字は排泄をしていて、最終画の終筆位置に設けられた開口部から時折消化物を吐き出した。肛門には覆うように乾燥したふんが付着していた。便は通常黒色で、これは同時に排泄される尿の色だった。日常冊子体などで目にするサイズの文字はアメーバや平板動物のように明確な消化器を持たないが広告文字の設計にあたりその巨体の維持のため発達した内部構造が必要になったのだった。

 している市は人口十七万の広告都市で、街が人なら一等長生きの部類だった。町のすべてが印刷物で、指定で全てが広告だった。重機の描いた都市風景に広告会社が言葉を乗せて、それで誰かに届くのだった。

 広場の下ロータリーは糞便だらけで、待機タクシーはバケツで水を掛け合っていた。デッキは行き来の人で溢れていた。行き来の人に用ある人が、端々に立って呼びかけていた。

「血が不足しています、お時間のある方ご協力下さい、若く健康な人間の生き血」

 プラカードを通り過ぎながら太郎は自分の身を省みた。肌は汚く触ると指がてかった。背中は膿んででこぼこで、皮も瘡蓋も潰すせいでシャツがよく血だらけだった。爪は切り忘れ関節周りは掻き壊してあり、雑菌だらけで献血は無理そうだった。ふけもひどく痒さが続いて、髪も最近よく抜けていた。歯茎が下がり歯が傾いたのは少し怖かった。生活態度が出ているのは明らかな気がしたが、臭いは自分で判らなかった。

「元気なところは鼻毛くらいだ」健康の度合いとして以前はもう少しましだった気もしたが考えてみるといつでもこんな風だった気もした。調子のいい場所悪い箇所が入れ替わるので、変化した気になるんだろうと思った。

 駅からは駐輪場が一番近かったがそちらは帰りに寄ることにして、まずは広告を出してしまうことにした。


 「いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませ」

 広告代理店は駅前にあり、店舗は朝顔の中に構えられていた。知った援助の顔を見つけると太郎は小さく右手を振った。

 旧知の援助太郎はそれを見ると顔を顰めた。客の少ない時間なのか待つことなく太郎はブースに案内された。

 「お前どうした酷いぞ顔」

「そうか」いわれるとばさばさの肌が恥ずかしい気もした。「こんなもんだけど」

「昨日はもっとましだったのに、何したの」

「お前も昨日おれを見たのか」

 広告を出したい旨を伝えると援助は注文用紙を取り出した。

「種類は」

「個人に宛てて出したいんだ」

「サイズと枚数」

「四枚で葉書サイズがいい」

「制作はどうする依頼」

「や、書くよ手で」

 この場で書けるかを訊かれとりあえず太郎は頷いた。「丁寧に書けよお前の字読めん」出来たら呼ぶようにいうと援助は席を離れ、店の奥らっぱの終わり部分にある機械にデータを打ち込み始めた。あごを使うのがやはり上手だった。しばらくぼんやりしてから四枚の原稿用紙を見下ろし、ペンを手に取った。

「昨日のお前嫌そうだったな」短い手で機械を操作しつつ援助はいった。「嫌そうにサッカーしてたよ。お前の運動久し振り見た」

「サッカー」太郎は呟いた。「もう何年もしてない」

「逃げれそうなら逃げる逃げれないから工夫してただけで、逃げれそうなら逃げる、でないから力んだだけで、逃げれるのに話かけるような気持ちはない威張るやつが馬鹿に見え、そういう頭、ぽんぽこ平和主義でもういいと思う」

「手も足もないけれど、どうなの。サッカーしてんの前」

「工夫してるだけで手があるのにサッカーしてるやつは馬鹿と思うよおれは」四肢なし援助はそういい足があって車椅子は確かにやだなと太郎も思った。

 朝顔は大きく一面にテレビが映る。聞きやすい声は勘違う。

 ラッカセイの殻があふれる。ティッシュが足りない(コーヒーが甘い)。

 している市で使うスーパーについて、通りを離れ銀行の脇にある(本当にある)。本屋の下にもある。どちらも地上のため文字の糞害が酷く、洗濯を出す者は付近にはいない。自分だけのスーパーはない。レジの人も自分だけのものではないが、よくしてくれる人はいる。優しい人は食品売り場のレジさんで、岩から覗く鉱石だった。

「判らないか」いってレジさんは笑った。

「昨日は何も買わなかったよ。また明日来ますていってたじゃない」

「顔はそう似てるんですか? 言葉が似てるんですか?」太郎は財布を開いた。小銭は三百四十円あり入れやすいテトリスだった。「おれを見たと聞きます、何を同じと思われるのか考えるだに嬉しいです。自分がどこを見られているか聞かせてもらえませんか? おれを見るとどこがおれに見えるんですか?」

      「自分は」「自分はね、いくらですか?」「待って」「自分は六十周した場所は大体です。昔は二周くらい今がそんくらし」「ばかじゃねえの」スーパーで買った物はラッカセイとコーヒーの詰め替え、米、小麦粉(薄力粉)、黒糖、ベーキングパウダー、油、卵、胡麻、いつもある好きな花林糖、0.4の水性ペン、簡単なお菓子、強力な物はスーパーにはなくだから例えばスーパーにある雑誌だけで一生戦えといわれてそれで負けたくないということを昨日君はいってたよ、とレジさんは太郎にいった。  「それで負けたくない相手はいる、それはいいことと思うって」

 鉱石はレジ台から放射状に生えていて、昔土星に大きな岩盤があり、鑿を入れると鉱石とレジスターが中から現れたため今はスーパーで働いているらしかった。カードも精算し、夜は眠る。「ねえ顔色は昨日はよかったよ。肌も赤くなかった。目がきらきらしてた。服はいつも一緒だね」

「随分と健康なドッペルゲンガーだな」太郎はいった。

「健康なドッペルゲンガーは歌を歌ってたよ」

「歌ですか」太郎は笑った。「人前で歌わないです」

「二千二百二十円ね」

「なくなってしまったことがあって、歌だからだと思うんです」太郎は二百二十円と万札を出した。ほんのちょっとの一万円だった。「さようなら。何かあればいいんですけど」

「ありがとうまたね」レジさんはいった。鉱石は笑わない。スーパーに強力な物はなく、だから最後は優しさに見える。


 買い物袋が歩幅に揺れてざあざあ同じリズムで鳴った。足音で影が見えなくなった。ビルとビルとの隙間の路地で、日のない辺りは夜にも思えた。

 ビニールテープで保護したような暗がりの中に小屋はあり、格子に入った屋外灯に羽虫と蛾とがネオンをしていた。駐輪場は三階建てで、左右は会社とアパートだった。

 管理人は象だった。三頭の象が太郎を迎えた。

     太郎は無言で会釈をした。                    

「」「」「」象らも無言で会釈を返した。一頭は奥で自転車を整えていた。嵐のような尻の脇を通り太郎は二階への階段を上がった。巨大な糞臭がした。

 ライトに大きな蝶がいた。


 夜の自転車は黒めに濡れて、左目の下に青丸が見えた。かごの交差一つ一つに星が見えた。自転車の影は切絵ぽく地面に貼りつき、抜いた黒紙が視界だった。

 青いコンクリートにブラクラした自転車たちが並んでいた。太郎は無数の並びを眺め、三連単で自車を見つけた。

 空中庭園を黒雲が覆った。星座のように羽虫が浮かんだ。

 ブレーキを握りスロープを下ると象三頭が太郎を迎えた。作業帽は脱いでいた。

「今日でここを使うのやめます」太郎は一番知った象に告げた。「手続きをお願いできますか、勉強はもうしません、諦めました。サイトは続けて、そこまで下がろうと思って」

 小屋の奥、年配の象が手帳を捲り太郎の用紙を見つけマジックで赤い線を引いた。丁度更新の月なので払い戻しはなかった。

 太郎は頭を下げた。象たちも会釈を返した。           「」「」「」


 商店街は電線だらけで人の歩きが言葉に見えた。言葉に見えれば心も判り太郎は縫うようちゃりを進めた。徐行にブレーキし脇を振り段差を落ち、癖も勝手も前と変わらぬ安い動きで、知っていることはもう見失わないことのようで、縫うようで、言葉に見えた。

 石畳があり数える模様があり、陽が差し自転車はことこと揺れた。例えば麻薬があり、会うと楽しい人がいて、カラフルだといいのであれば、自転車もその調子だった。その調子と太郎も思った。

 石畳み道も広告で溢れていた。街路樹と電柱が黄金比で立ち並び広告の工事があり、新しい建物が上から徐々に出来始めていた。死ぬほど通った道を反復すると昔自分の書いた広告が幾つも見つかり、同じこの道を数年間も通い続けたなと思った。

 書いたことを忘れた広告も見つかった。探せばあり、見つかれば頼もしかった。読み返せば意味があり意味が判れば言葉に見え、自分用に書かれた広告はどこまで行こうと誰ない頼りだった。それが共感で、頼りに敷かれた石畳だった。

 そういうことが誰にでもあるとして、見返す広告はやはり面白く、いつだって自分しか見てこなかったという実感が粉と煙に一等近いものに思えた。自転車は楽しいという話で、信号待ちの太郎は昼の日を仰いだ。

 大根の形だった。


 大きな木陰で出来た道路は合掌している手のひらに見えた。雨の後で、濡れた殺気がした。バスがあり、水音がして、子供が歩くと芝居に見えた。

 人のいる気配と落ちていく感覚がした。塗り忘れの家が木からのぞいた。空間の広いもののつくりで、一つ一つの色が大きかった。

 花林糖の大学は今日は試験の日で、冷えた廊下と熱い部屋の編み物だった。通い詰めた怖い廊下を歩き、階段は足に合いづらかった。

 建物を三階あがると先生たちのおうちがあった。コピー機と絨毯の匂いがした。

 花林糖の大学の先生は巣作り虫で、白アリに近い体をしていた。木の繊維を唾液で固めたものに糞便を混ぜ、袋状の巣を作りその中で大学をしていた。コップの形の立ち巣が並び、大学の中に大学のある構造だった。

 買い物袋を提げた太郎は自分の先生の研究室へ向かいノックして扉を引いた。在室になっていなかったが先生は部屋にいた。

 巣作り中の学生たちの奥に先生は座っていた。熱気がこもり、糞の匂いが充満していた。鳥に似た学生はマフィンを食べていて、横顔に太郎ははっとした。

 部屋の隅には権化も立っていた。紙束を抱える権化は太郎をみると怖い顔をした。太郎も怖かったがまず先生に挨拶をした。「こんにちは、ご無沙汰しています」

「ううああ、うああ」先生はいった。先生は違う生き物なので先生の言葉は太郎には判らない。「てあてあ」

「どうしたのって。驚いたって」権化が太郎に通訳をした。そういう仕事がある。「座れと」

  「失礼します突然すいません。近く来たから挨拶をと」

 「ああめああめ、けってけって」

    「お前の広告今朝届いたって。どうもねって」

           「もう届いたんですか」広告を出してもうそんなになるのかと太郎は思った。既に一日か経っているらしかった。「のんびり来たから」

     「こんにちは」ゼミ生が太郎にいった。挨拶らしかった。一人は長いスカートで、もう一人は皸の手だった。もちろん知らず太郎は挨拶した。

 「一度お会いしましたね」

「そうですか」ドッペルゲンガーと太郎は思った。二人の下級生は笑顔で、自分を知らないと太郎は思った。それでいいことはあるとも思った。

「調子はどうかって先生が」機械になって権化が伝えた(視線は太郎を小鬢に入れていた)。「今何してんのかって」

    「調子は判らないです。健康じゃない気もするけれどひところより色んなことが随分楽になりました」太郎はお土産にした簡単なお菓子を先生の机に置いた。それで先生が傷ついたりはすまいと思っていた。「例えばのんびりしていれば、健康もゆっくりしてくと思うんです。引っ張ったパチンコが怖いんです。健康になりたいなと思って、ここになければないと思うんです。これ以上元気にはならんでしょう。やなこといってるかもしれませんこれが叩かれたらと思って喋って、ぶたれたらいえないことだけいっておきたいんです。

 一年間くらい下水のことを考えてたんですけど書いてみるとあれって感じでした。次の一年は何も考えてませんでした。次の年から何があったのか今も今一判ってなくて、今は引っ越さずのんびりしています。こゆうことがしたくてできてんだからいいじゃんと、でも調子はやっぱいいです。今より健康はならないでしょう。

 読んで判るものってありますか。よく判ってなかったんです。自分で何か書いてみたら何て書いてるかすげえよく判ってだからそんなの嬉しかったです。そういうもんと思うんですけど先生はどうでしたか。権化はどう、そこのあなたもそうじゃあないのでしょうか」太郎は下級生にも話を振った。「自分宛ての広告って誰でもやられちゃうんじゃないでしょうか。もっと優しいの? 自分がずっきゅん来る広告を、考えてみたら欲しかったんです」

                     「そう思っただけじゃないのか。そういうことにしたいだけじゃ。でなくとも、気付いたら出来ないことはどこにでもあるんじゃないの。自分の束に興味があるのは、良し悪しともかく怯んだだけでしょ。健康について考える時、健康な人というのもCMくらいにしか見えないと偉い人が考えてくれたとする。健康都市の宣言、これから健康になる町で文字が糞をひるとして自分が書いた物を覚えてるか。手紙も字書きも不健康だ、健康な町は広告だけある。広告しかないのが、苦しければ抱きつくのかい」

   「じゃあもう少し何かあったんでしょうか。今より健康がないとして、自分より健康なドッペルゲンガーが歩いてるんです。もう少し何かあったんでしょうか」

          「訊かれたってなの判りあせ」先生は笑っていった。海の蛸にも色恋はある。


 研究室を出ると花林糖を作るため、太郎は別棟の教室へ行った。あかぎれのゼミ生も作るそうで入れてもらった。権化はこちらを見ず、太郎も近づかないでおいた。

「ジョンソン太郎といいます」皸の子は名乗り太郎も名乗った。スカートの子の名前も聞いた。ジョンソン太郎は屋根みたいな髪型だった。細い目だった。

 花林糖の作り方を書くと、ふるいにかけ卵を入れる、耳たぶくらいのまとまりにして、薄くのばして付箋ほどの短冊にする、包丁は洗う、後はもうどうしたら上手く行くか判らないので祈って油に放り込む。詳しくはネットで調べるとたくさん出てくる。全部自分で食べるのが好ましいが出来てみると意外と家族も興味を示す。蜜がくっつかぬよう冷やしつつ転がすが、くっついたらくっついたで楽しい。

「四年通ってこんなだ」

「おいしいかりんとう作ろうって思うんですけど」皸の子は笑った。「考えたらかりんとうって全然うまそうじゃなくて。やべって」

 花林糖を冷ます間に太郎たちは将棋をした。皸の子は将棋指しだそうだった。木が駄目で将棋を指すと手が荒れてしまうらしかった。

「荒れるからってやめませんよね」皸の子は笑った。「健康つうのもショックなもんです」

「君は引っ越すの」「越します。先生は残るそうです。権化さん残らんから困る的なこといってました」さすが強い将棋指しは太郎を五分で二局詰ませた。

 研究室に戻るとスカートの子は先生の枕になっていた。すやすや眠る先生を皆で撫で、太郎は大学を後にした。将棋もやめてしまったなと思った。


 帰りは電車を使わず、線路沿いを自転車で帰った。信号と月の連続だった。どんどん深くなる夜を見ながらすぐに疲れた足でペダルを踏み続けた。何度も魔界を通り魔女の気配を感じた。不思議な言葉が願いを叶えぬ場所だった。

「はっ」スーパーを六個銀行の出張所を二個、ファーストフードを十八個、「はっ」

 している市も今は遠く光以外は暗闇ばかりで、高架の向こうの北東の空には于由船の船底が暗く浮いているのが見えた。宇宙船のうち屋根のないものを于由船と呼び幾日か前の新聞広告に乗車率が七割を越えたと書いてあったように記憶していた。用向きも残り一つだった。

 何駅ぶんも自転車で走り自分の家の町まで帰った。家から一番近い役所に立ち寄り、職員用の駐輪場に自転車を止めた。役所には何度か来ていたが、何度探しても土地が暗過ぎて、来客用のスペースを見つけられていなかった。

 市役所の外観は工事中で、大きな布で張子のように覆われていた。患者のような見た目の中からガラスの入口を見つけ出し、太郎は静かに中へと入った。時間は遅かったが、時間外で受付が開いている筈だった。

 暗い市役所には覆面の人たちが働いており、うち一人の窓口に座る黒服の人に太郎は話しかけた。「乗船の手続きをお願いしたいんですが」

「はい。何名でしょう」

「一人です」

「今日は印鑑や身分証明になる物はお持ちになっていますか」

「はい。保険証でいいですか」

「ええお借りしますね。では明日の便でよろしいですね」

「はい」

「こちらお願いします。枠の中にお書きいただいて」

「枠、はい」

「手続きをされるのは乗船するご本人ですか」

「はい」

「ですとこちらを塗っていただいて」

「はい」

「はい」

「  」

「  」






「ええ、よろしいですか」

「お願いします」

「性別はどちらでしょうか」

「ケーキです」

「判子よろしいでしょうか」

「あっ、はい」「れです」

「こちらどうもありがとうございます」

 「」

「」

「ではこちら、于由船「午後」明日十五時二十二分の便でお取りいたします。こちら最後の便ですので遅れてしまうと次の便ということがお出し出来ませんのでどうぞお気をつけください。乗船には券が必要です。こちらなくさずお持ちいただいて係員にご提示ください。ではありがとうございました。何かご質問等ございますか」

「あの、屋根がなくて雨が降ったらどうするんですか」

「当日雨の予報でして離陸時に広告を降らせることが予定されています。運航に差しさわりないよう船員一同努めますのでどうぞご心配なさらずお越しください」

「怖かったりしませんか」

「怖かったらお申しつけください」

「本を」太郎は訊いた。「本を持っていってもいいですか。トイレは中にあるんでしょうか。ケーキとコークでは乗客どちらが多いんでしょうか。手荷物は持てるんでしょうか」

「構いませんのでどうぞお持ち下さい」黒服の人はいった。覆面は紙袋だった。

「どうか心配なさらずに」

「はい」

「時間だけ遅れないようお気を付け下さい。ではよろしくお願いします」

「ありがとうございます」切符を持って太郎は役所を出た。外は真っ暗だった。


 出てくる時にあった電柱がなくなり、果物畑は潰れて新しい家が建っていた。吠える犬がいなくなり、アスファルトが塗り替えられていた。道の位置が変わり、カーブミラーには新しい花が供えてあった。

 さんざ迷って家に帰ると太郎は湯を張って風呂に入った。出ると電話が鳴っていた。

「はい新聞太郎です」

「出ろよすぐに」顔が突っ張り痛かった。「今帰ったの」

「ちょっと前さっき、風呂にいて」

「準備出来たの」権化の質問に太郎はうんと答えた。「何時ので行くの」

「最後って」太郎はこめかみを押さえた。「三、時二十二分」

「おれその一つ前」声が離れて権化のくしゃみが聞こえた。「きっちゃうから起こせないから。自分でちゃんと起きろよ」「うん」

 先生の話をすると今後は筆談をするらしいと権化は答えた。あまり話せなかったことちゃんと挨拶して出てこなかったことを太郎は伝えた。「あまりいい学生でなかったがまあいいや」「何かあったらと先生いってた」「本当」嬉しいなと太郎は思った。「嬉しいな」

「準備いいんだな。すること全部終わったのな」

「もう物はないよ」太郎は電話にいった。「花林糖だけ」

「そうか」権化はもう一度くしゃみをした。

「調子悪いのお前」機嫌もそれかと少し思った。「平気なの」

「別に」権化はいった。「なあお前本当に昨日来てないの。どう見てもお前に見えた」

「ないよ」今日会った人たちの話を太郎は権化に聞かせた。ドッペルゲンガーと聞いても権化は別に笑ったりはしなかった。

「いいんじゃねえの知り合い増えて」

「急にだと疲れるじゃない」

「去る町に出るドッペルゲンガーは本人についてくるの。それとも一人でくらしていくの」

「どうなんだろうね」

「なあドッペルが、昨日のお前と今日のお前と、二人いるとしてどちらが本体なの。家に帰るやつが本物とは限らない。お前はお前に取って代わったお前なんじゃないの」

「考えはないけれど、もしかしてそうかもね」

「お前ずっと家で寝てたんでしょ。家のあるやつが人間かなんて判らない。本物のお前が、いたとして、今も外で迷ってんじゃないのか。お前が帰る家に帰って寝てる内、そいつは路じょをさまよってるのじゃないのか」権化は電話の伝わらぬ声でいった。電話の相手は何を大事にしてるのか判りにくいと思う。「そう思うことはないか。家の外で別の自分がこっちの明かり見てたら怖いともしそうならそんなの堪らんとおれはよく思う。考えることはあるだろう。見なくなった夢が今何してるのかとても気になる、時折連絡でも取って飯でも食いながら何してんのか話してくれないかと思う。そしてそれで、出来れば元気で」

「そうね」受話器を耳に当てながら太郎は座る姿勢を変えた。ただ広い部屋には手荷物といらないものしかなかった。権化の声は電話の向こうで、話す相手が目の前に見えないことが何となしにおかしくなった。「家で寝て悪くはないでしょ。疲れてんでしょお前」

「疲れて寝られないよ」

「なんでばらばらになったんだろうな、束ねてやりたかったのにな。もういいやということでもないが、ただの本じゃなかったな」

「だから引っ越すんだろ」寝坊するなよといい権化は電話を切った。何もない床に太郎は横になった。よく自分が電話を持っていたと自分でも思った。そういう事故が山ほどあって自分がいて、事故がなければ簡単に束だったのかなと思った。


 太郎は夢を見た。夢に町がある。オレンジの駅バスと本屋が並んで見えバスは山へ行きまた引き返す。バス停の人は雨待ちしている。本屋は明るく図書館に見え、通り抜ければ変な所へ出る。嫌いな奴ばかりいる。探しても金がなく、電車に乗ると笑われて、上手く出来ないことが辛くどうしたらいいか判らずにいる。改札を通ることができない。自転車を学校に置いてきた事に気付く。見上げると月に電線が絡まっていて、しゃがんで俯くと排水溝がある。地面が五十センチ四方ほどごそりとくり抜かれて、そこへ分厚い鉄の格子が網目に嵌まっている。中を覗くと煙草の吸い殻が無数に浮いていて、吸殻の浮く水は暗がりでも黄色く見え一人二人の量ではない積み重ねが豆腐か泥のような質感で四角い穴に漂っている。

 手を繋いでもらったことがある。今はもう言葉もないが、いかんなあということはある。


 夢を見ていた太郎はやかましく鳴る電話の音で目を覚ました。外は豪雨だった。時計を見ると二時過ぎだった。完全に寝過していた。

がっかりして顔を拭ってからしばらくそのままショックに耐えた。後悔が過ぎ去ってから時計を見直し、今度はしっかり諦めてから静かに立ち上がった。

家を出ると町がまた変化していた。もう知っている道はなかった。家も残っていなかった。雨ももう止んでいた。知らない道を自転車で走りどうにか船場を目指した。事故でもいいほどペダルを踏んだ。

 通り過ぎる駅の辺りに自分が立っていた。誰かと一緒だった。一緒に駅へと上って行って、振り向く前に通り過ぎた。

 すれ違う車に自分が乗っていた。気分の悪そうな顔をしていた。窓が少し開いていて、すぐ走り去り見えなくなった。

 信号を待つ自分もいた。電柱の陰の中に立ち、ふくらはぎの辺りを押さえて、青に変わると歩き始めた。

 自転車の自分が向こうからやってきて、歩道で行き違い通り過ぎて行った。振り向くと背中が見えて、一代昔の自転車だった。

 スーパーにいる自分も見えた。大勢といる自分もいた。バスの中では何か読んでいて、その後ろでは俯いていた。体をよく掻いていた。いつも同じ恰好だった。

 いつも通る道に自分は立っていた。通らない道にいることもあった。カメラか何かを構えていて、そちらを見たが本当に何もなく、何を見ていたか本当に判らなかった。両手に山ほど本を抱えていて、二重の紙袋が抜けて困っていた。スーツを着ていることもあり、洟を垂らしていることも多く、見ていないところで汚いことをし、見られていて気にしてないこともあった。人といれば相手により態度を変え、露骨に馬鹿にして、敵わないと卑屈になった。真面目に考えているふりをして、判っていないのが見てよく判った。何か聴いていることも多く、歩く自分のすぐ側を通り過ぎると歌っている声が聞こえた。気分が悪かった。段々直視にたえず太郎も目をそらした。酷い独り言が聞こえた。

 顔色も違ったし、髪の量もだいぶ変わった。何かを見ていることもあったし、足を見ていることもあった。何を考えているかは判ることも判らないこともあった。移動の手段は変わらなかった。上手く出来ない自分もいたが、調子に乗った自分も見えた。

 全部まったく自分に見えた。どうして自分だと思ったんだろうと太郎は思った。

 こちらに気付かぬ自分が多かった。こちらを見ている自分もいた。何かをやたら話かけていたが、いっている意味は判らなかった。日本語が下手で、鼻につく感じがした。今も生きている、ルールも多かった。

「何してんの」一人がいった。「お前気付いていないの。何安心しんの。休んでる場合か。のんびりしてると気付いてないの。頑張ったのは昔のお前で、ばらけちゃったらお前何もないんだぞ。どうすんの、よかったって、そんなでどうすんの。よそ見してる場合かよ、それでいいのかよ」

 三年と太郎は思った。そんな言い草が届くかとも思った。「それじゃただの広告だ」

 自分が何かいったが判らなかった。伝える気がないのだと思う。

「ただのちらしだ一葉のそんな」太郎は構わずいった。「束ねてやれん、とじずにただいろ。一人で生きてけ、健康でいろ」

 出る船の姿すらまだ見えてこなかった。権化は無事乗ったろうかと太郎は思った。乗ったやつも残ったやつも上手くやればいいというのはそうだった。段々情けなくなってきた。

 疲れたので立ち止まり荒い息で空を見上げた。これで健康になれると思った。

「本当にそうなのか?」

 静かな町に黒い何かが降りてきた。空を落ちて近づくと今度は白く見えるそれは無数に揺れる真白い紙だった。

 紙は風に乗りゆっくりと降り注ぎ、道路や家を白く覆った。

 視界一面が白紙の広告で埋め尽くされ、町は健康になり、やがて何一つ動かなくなった。















                                   おわり

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