仮眠の午後

 電話のベルでハンドは目が覚めた。

 薄汚い天井が見えた。喉を絞められる感じがして、上に何か乗っているのが判った。掴んでみると自分のコートで、目を閉じたまま椅子に投げると床に落ちてボタンが音を立てた。自分の部屋でないことにそれで気が付いて、起きてみると居間のソファだった。

 足を降ろした時テーブルを蹴飛ばし、皿に食べ散らかしたサラミか何かの包みが落ちた。唸りながら枯れ葉みたいなビニールを拾って、まだ鳴っている電話を掴んだ。「もしもし」

「運輸です」聞き取れなかった。「ハンドさんのお宅ですか」

「そうですが」

「お荷物これからお届け参ります。この後ご在宅ですか」

「ええ」

「今から参ります」電話が切れた。

 時計を見ると正午を回っていた。重い頭で逆算し、五時に出ればいい筈だ、恐らくと結論した。荷物が来てから少し寝れるだろうと思い、そのままソファで荷物を待った。

 チャイムが鳴ったのは五十分後、遅いと思いながらハンドはドアを開けた。立っていたのはドライバーでなく顔見知りだった。「靴巻さんどうしたの」

「おはよう先生。手え見てくんないか」

「どしたの」差し出された靴巻の右手を見た。「何噛まれたの」

「犬だよ、叱ったら噛みやがった」「ほどほどにしなよ。先っぽはあるの」「ねえよ」「ねえことねえだろ」「食っちまったら、先生何か代わりねえの」「ああ?」腹も立ったが仕方がないので鉄線をスプリングで繋いでない指二本の代わりを作った。「馴染むまで動かすなよ」

「先生後で犬見てくれよ。癌が酷いんだ。顔見てもおれがもう判らねえし」

「ああ。いや今日は駄目だ」慌てて謝った。「夜出掛けるから」

「どこに」「ビルマへ。送別会なんだ、明日きっと行くから」「うんよろしくよ」

 階段を下りる靴巻の足音を聞きながら辺りを見回した。宅配はまだ来ていなかった。ふと気が付いてポストを開けると不在通知がとぐろを巻いていた。

「寝てたみたいで」立ったまま電話すると尿意を催した。「夜。は駄目出掛けるので。二時間後。はい。はいどうも」子機を持ったまま用を足し、そのまま上も脱いで脱衣所に流れた。風呂場に入り古い湯を抜き、無意味に喋りながらシャワーだけ浴びた。泡立たぬ髪、ぱんぱんの腹、鏡を見ると気分が顔面に段々追いついて、少し落ち窪みながらハンドは体を拭いた。チャイムが鳴ったので出ると巨大な男が立っていた。「先生下痢とげろが止まらん」

「ノロじゃねえの」汚されては叶わないのでひとまずトイレに押し込んだ。便器に座らせ話を聞いた。「いつ? 今朝から?」

「昨日の夜から」次郎は答えた。座ってようやく目線が同じで一杯縮こまって次郎は便座におさまっていた。嵌られたら敵わんと思い矢継ぎ早訊いた。どうも原因はメンタルだった。

「怒られたのか? ふられたのか?」「自分じゃ判らん」「じゃ怒られてふられたんだ。出てんの下痢じゃなく涙だよ全部。水みてえだろ覗いてみろよ」「腸薬で止まるか?」「関係ないから駄目だな。三日は続くがほっときゃ止まる。止まらなきゃまた来い」「困るよ。外科的に悲しみを止めてくれ」「ためにならんぞ」ひとまず開胸し涙腺をバイパスした。雰囲気としては消化器に染み出す潰瘍の一種で腹時計をアルファロメオから水時計に替え五分置きにスヌーズを付けることで当座の悲嘆を逃がすようにした。「飯食って過ごせ。運動よくしろ。飢餓感敵にするなよ、生きてりゃ何かは味方になる」「ありがとう先生。今日はお洒落だな」

 ドアが閉まると溜息を吐いた。便座が罅割れていたが見ない振りをした。外で大してくることだけ頭に付箋しておいて、着替えた服でソファにもたれた。要る時に服がないことに気付くのは何故なのか、切り札のつもりで買った真っ青なジャケット、綿のシャツ、ズボン(ズボン)、いつもの靴下、投げたままのコート、「ああ糞」気付くと口にしていた。

 座っているとチャイムが鳴ったが、トラックの音はしなかったので宅配ではないと思われた。げんなりしたのでハンドはそのまま無視した。チャイムは二三度繰り返された。

「眠いんだ。寝かしてくれよ」ハンドは呻いた。「昨日友達が死んだんだ」

 座って仮眠を取りながら何故昨日は上手く帰らなかったとハンドは思った。五年ぶりネットの友人狐小坊と会っていて、その最中に別の友人熊五郎が死んだと電話があったのだった。狐は熊と面識はなかったし帰る理由もなかったのでそのままハンドは居酒屋にいたが、狐と初めてする話題など十時間居て一つもなかった。海鮮居酒屋で向かい合い口から内臓が出るまでぼそぼそ話し続けて気付けば馬鹿げた休日の朝だった。体中が痒かった。楽しかったかといえば最終的に相手を殺したくなったので全く違うと自分では思うが、代わりになるような魅力的なイベントがこの先も特別あるわけでもなかった。

「パンダコパンダの話をしよう」電話から戻ると狐がホッケをほぐしていた。「家族の待つ家と動物園とどちらか一つを選べないなら動物園に出勤し家へ帰ればいい。どう思う? クレバーな解決だが動物園のパパと往来を歩くパパには仕事のオンオフがある。パパが動物園で振りまく愛と家でミミちゃんに注ぐそれとに違いがあり、だけど見えないようになっている。歌詞にままあるよう愛人が生物の人生を拡張する。パンダに要らない負担を背負う」

「愛がいけない?」「いや、ただアイドルなんだなと思った。ヒューマンワールド馴染めない系の動物君はたくさん居るが銭稼げるなら大抵の融通は利くわけで、サラリーでなければ愛売るアイドルと。文字通りの客寄せパンダだ。だがパパは元々客寄せパンダだ、檻でパンダするのと人のパパをするのとパパはどちらが大変なんだろう? アイドルしてるのはどちらなのだろう? 拡張が生活の本質なら彼が死ぬのはどちらの寝床だろう?」

「学生の頃判らないが矢鱈に眠い一頃があった。丸一日でも眠っていられたし二時間起きればまたすぐ眠れた。ある日電話が掛かってきた。ベルは判るがおれはそれが取れなかった。ある日ゼミに行くと皆が話している。どうも誰かが死んだらしい。電話の件がそれだったんだ。だが死んだのが誰かおれには判らなかった。欠けた人間が見当たらなかったんだ。泣かなかったのもおれだけだった。判るか? 教訓だよ。大事なのはよく眠ることだ。問題も意味も起きてりゃ見つかる。意味は仮眠で調節出来る。なるべくいいベッドで何もかも忘れて」

 チャイムが響いて目が覚めた。気付くとソファと毛布で寝ていた。跳ね起きて玄関に向かった。服は皺くちゃだった。

「先生」訊ねてきたのは隣のやくざAだった。「インコが死んじゃう。助けて」

「どれ」Aの持つ椅子を見てハンドは傷を確かめた。「わたが出てるな。死んでるようだ」

「生き返らせれる?」やくざAは泣きじゃくっていた。「ママが泣いてるんだ。僕がやったんだ、間違えて蹴っちゃったんだよ。お願いだよ先生。大事な家族なんだ」

「任せろ」ハンドはテープで椅子を直した。「汗を拭いてくれ、それから祈るんだ」

「先生お願い」

「おれじゃない仏様にだ、ほら治ったぞ! 息を吹き返した! おい、目を開けて見ろ!」

「本当?」「祈りが効いたんだ奇跡だハレルヤ!」「本当だ!」顔中ぐしゃぐしゃにしてやくざAは椅子を抱きしめた。「ありがとう盧舎那仏! ありがとうハンド先生!」

「当分絶対安静だぞ。散歩に連れ出すのも駄目だ。約束しろよ」

「うん」やくざAは涙を拭いて笑った。「先生大好き」

「今度は仲良くしろよ。治るまでしっかり世話しろ」

「また歩けるかな?」

「歩けるさ。立派な足がついてるじゃないか」

 ドアを閉めると吐き気がし、トイレに駆け込みそのまま吐いた。泣きながらげろをしてああ糞と思いながら立てなくなってそのまま蹲り便座に持たれた。前髪が水に浸かった。もう一つ、と思った。もう一つだけ楽になりたかった。少しだけ眠りたかった。

「おれを誰か修理してくれるか。上手くお前らと話せない。忘れてくれよ」

 ナップザックの表の糸のようなぶつ切りで不揃いな仮眠に戻ると、トラックが来てチャイムが鳴った。ナップザックを裏返し縫い目を隠すとハンドはドアを開けた。

「蟹です」ドライバーはいった。「判子下さい」

「どうも」

「怪我したの?」いわれて手を切っているのに気付いた。「大丈夫? 寂しくない?」

 蟹はでかすぎて冷蔵庫に入らず、四苦八苦して冷蔵庫を整理した。蟹の寝床を確保した分で睡眠時間はなくなってしまった。

「時間だ」ハンドは時計を見た。「いや、十分だ。十分寝よう」

 そういいハンドは仮眠した。会には間に合った。遅刻気味で皆集まっているようだった。

「久しぶり。変わってねえな」

「どうもご無沙汰を」

「最近はどうしてんの。全然知らんけど」

「日がな寝てます」

「失業者なの?」

「あ、聞きたいことがあったんです。これってどういう意味ですか。本当ですか。そうですか。判りませんか。判る人知りません。僕はどうしたらいいでしょう、え、知らない?」

「頑張ってる、えらいね」桃色の頬が笑顔になった。「お疲れ様、お休みなさい」

「あんたのんー好きだよ。体に気を付けてね」

「このあとどうするんです。帰って寝る? 独特ですね」

「お休みなさい、お疲れ様でした!」目が覚めた。真暗い天井が見えた。締め付けられるよう胸が痛んで、とても居心地が悪かった。夢で行った送別会のことをハンドは反芻した。祝われてみるとうんざりした。とても居心地が悪かった。「眠いんだ。寝かせてくれ」

「そうはいきません。歩けるようにしてもらわないと」複数人の回転がいった。

「出来るかな?」ハンドは泣いた。「ああ糞。頑張らないと。会に出るのはよすよ。少しだけ寝かせてくれ」

「お休み」友達の熊がいった。「おれを憎むなよ」

 どこかでチャイムが鳴り出す前に仮眠の水溜めに頭をねじ込んだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る