地下から
地下から声がするようになったのは姉を埋めてから六日後のことだった。
「砂男」ドアが開き、母が顔を覗かせた。「帰ってたの」
「何?」
「また声がするの」口をあまり開けずに母は喋った。「あんたを呼んでる」
「今度は何て」「判らない。聞き取れないの」
「行ってくる」褞袍を着込んで自分の部屋を出、母の横を通って階段を下りた。
雨戸の下りたままの一階は暗く、床に溢れるごみ入りのビニール袋をよけて台所に入った。床のごみを押し退けてから撥水のマットをめくり、床下収納の正方形の扉を掘り出した。
収納の、細長い臍に指を差し込むと金属が半回転して弓の形の取っ手が現れる。冷えた地下から指を引き抜き、重めの扉を引っ張り上げた。酒瓶くらいはしまえる深さのプラスチックの収納ボックスは今は取り外してあり、扉の向こうはぽっかりと黒い穴になっていた。
「お姉ちゃん」隙間風に向け話しかけてみた。「呼んだ?」
「砂男?」返事があった。顔を入れて覗くと視界は一面暗闇になった。収納の扉から二メートルほど離れた柱と柱の間、ちょうど居間のテーブルがある辺りに、六つ上の姉が足を畳んで埋められている筈だった。
「今日は何曜」
「火曜だよ」
「ラジオが入らないの」
「本当。駄目だった」電波が地下までは届かないようだったので、少し考えていった。「コンポのさ、スピーカーだけ引っ張ってみるよ。明日ヨドバシ行ってコード探してくるから」
「ありがと」姉は軽くいった。「お母さんどう?」
「別に普通」携帯ラジオを回収してから収納の扉を下ろした。「じゃあね」
立てて置いたのが一人で倒れたらしく、起こしておいたアンテナが下りて角度が変わっていた。折りたたんで表面の白い砂を払うと、電源を切って防災バッグにラジオを戻した。
姉を家族で埋めたのが二週間前、声がするようになったのは今から八日前のことだった。ただの建て売りの我が家に地下室はなく、家屋を無理に壊して家人の死体を隠匿したのだった。当初は収納も元通りにし米やら梅干しやらも普通にしまっておいたのだが、こうして開閉するようになってからは綺麗に取っ払ってここを地下への入り口としていた。
姉は世間的には行方不明となっていて、捜索願いも届け済みだった。二週間前の火曜の帰宅後ラフな感じで玄関を出てセブンまでの間のどこかで蒸発したらしい姉は、実際には家で母に刺され救急車を呼ぶ前に失血死したのだった。刺したのは母で救急車を敬遠したのが父だということは聞いていたが、どういう案配に物事が進んだ結果一時間もテレビの前に怪我人を放置して死なせるに至ったのかはその場に居合わせなかったため判らなかった。もしかしたら説明自体全く嘘ということもあるだろうし、本人らの説明よりもう少し積極的に両親は姉を殺せしめたのだと考えた方が幾分納得が行くと個人的には考えていた。ナイーブな話題なので持ち出しにくく、本人らに真偽を問う風には切り出せずにいたが、大事なことほど半身で躱すようなそのスタイルは、不和というでもなく、ある種の家風だった。
例えば休日の午前中エンジンの掛からぬ内にワックス掛けやタイヤの交換に付き合わされるような感じで、二週間前部活から帰った後姉の埋葬に駆り出されたのだった。唐突であったが本人らの必死さに呑まれ口や頭よりは手を動かして、結果まとまった説明があったのは夜明けも近い四時頃全てを終えてからだった。出血に関しては敷き放しのカーペットが大体吸い込んでいて、凶器は今も水切りに立てかけてある。順序が逆のまま色んな応急処置が済んでしまって、是非はともかくひとまず片付いてしまったと、恐らく三人共が思っていたのだったが、殺しなどというものには予想外の事態が付きものなのか、神経休まらぬ事後六日目に地下から馴染みの声が突然に聞こえてきたのだった。
誰かと呼ぶ声を聞いて三人が三人とも驚いたが、埋めた姉が蘇生したのだとは当然誰も考えなかった。息を吹き返すには劇症だったし浅いながらも土に埋めたのも確かだった。はるか床下から声帯の振動が届いてきたというよりは、幻聴に苛まれているのだと三人共が思ったが、簡単な検証で実際に声がしていると確かめられたし、しまいにはアイフォンのアプリまでもが声に反応して見せた。コミュニケーションを求める死人の声はあたらしかとするに忍びなく、仕方なし床の蓋を上げ、簡単な現状を語って聞かせたのだった。
現状を追認した死人の口ぶりに、生前とそう違いは見られなかった。変化があったのは生きてる側で、母は滅多に地階を使わず多くの時間を二階で過ごすようになったし、父に至っては家自体に極力帰らないようにしている節があった。結果ほどほどに片付いていた一階は打ち汚れ、声を塞ぐよう散乱したごみ袋の下で姉が時々声を発している。姉に出来るのは発話とリスニングだけらしく、その他の全ては一応姉から失われているらしかった。例えば再び土を掘り起こし腐敗と虫食いの姉を暴けば幾らか手足を動かしうるのか、光に晒せば物も見えるのか、香水でも流せば鼻は利くのか、確かめたいとは思わなかったし、出てきた白骨と別に声がすることが判ったりでもしたら、それも怖いので実行は出来なかった。
地下の姉の死後の生活について。あるらしい意識でひとまずは刺激を求め、家族との会話を定期的に欲したし、例えば友達と会いたいなどと口にした。人を呼ぶには障りのあるため例えばラジオ、またテレビなども与えられた。副音声でテレビを楽しむ姉の姿(見えない)を見ていると、昔平成009(テレ東系)を砂嵐視聴したり、都市部に泊まってホテル視聴したりしていたことなどをふと思い出した。ある種の介護と割り切って便宜を図ってやる内に、姉は本当に死んだのだなということが少しずつ体に浸透していくような気がした。
「すなおお」
部屋でだれていると呼ばれたので、下りて床下を覗くと姉が爆笑していた。
「きっ聞いて」横隔膜でも動いているのかひいひいと姉はブレス混じりにつぼっていた。「ブ、ブータンの首都っティンプー!」
「何?」
「いっいひひひひひっ! ブッブータン!」かかっているラジオではニュースのような、地理歴史系の授業のような番組がやっていた。「ぶ、ブータン国王がほ、訪問したんって、ブータン国王夫妻ひひっひひひ!」おかしくなった感じだったが恐らくブータンなる響きがつぼに入っているのだと思われた。「ブータン人、ブータン政府、イッインドブータン条約!」ふごっと姉が豚鼻した。「ブータンとネパール! ブフータンとネパールッ! ネパール!」
「あほじゃない」ネパールパール真珠フォー豚とそこまで判ったのでとりあえず感想を伝えた。原理の謎さを浮き彫りにしていつまでも姉は上戸に笑い続けた。
何もない冷えた暗闇に姉によく似た笑い声だけが響き渡っていて、唾で咽せる感じや過呼吸のぜひぜひする感じが、ちゃんと音に乗っているので、少しだけぞっとした。
「ねえ、お姉ちゃん、お姉ちゃんは一体今どこにいるの?」
「ぶっブータン」不謹慎かも微妙なねたで姉はげらり続けた。
しょうもないことで笑えているなら幸せと呼べもするかも知れない。他に何がなくともあるもので人が喜べるのなら、不遇こそあれ、姉もその一員だったように思う。
いつまでも続くとも考えていなかったが、終わりは起りと同じくらい唐突にやってきた。ある日部活から変えると居間に父母と確か警察の人間が向かい合っていて、いわゆる続きは署でとなる恐らく直前の場面だった。父母としても現在の家は相当居心地が悪かったらしく、ややこしいことは一つ精算しようという風に考えを改めたらしかった。
「あの子は痛がり声を上げ泣いていました。私はそれを見ていたんです」
「手当てしなかったの」
「なにもしませんでした。助けを私に求めていたのに。助けて、痛いよお母さんって」
いうと母は顔を覆って泣いた。父も何か喋ろうとしてそのまま泣いて詰まった。
「それで、どこに?」
「地下です」顔を拭って父が答えた。「ちょうど、この真下に」
あーあーと母が大声で泣き出した。刑事の一人が立ち上がったので、床下の扉を口頭で教えた。刑事が地下を覗いたので、防災バッグから出した懐中電灯を貸した。
「あの子のね、声が聞こえるんです」父の涙声が刑事に語った。「地下からあの子が話しかけるんです。信じてもらえないかも知れませんが。それが、私は耐え難くて」
刑事は感情を顔に乗せなかった。「助けてと?」
「いいえ、笑ってるんです」
地下の刑事が這って進み、埋めた辺りに着いたようだった。
埋めた後には二畳ほどの広さに防音材が敷かれてあり、その上に一回り小さな使い古しのランチシート、その上にスピーカー、ラジオ、テレビ、アロマオイルの瓶、置くタイプの殺虫グッズの数々、お供えのご飯、神社のお札などが散乱していて、振り返った刑事の人と目が合ったが、鳥のよう冷たい眼差しだった。
刑事の出入りし、父と母が泣いて名を呼ぶ間、姉は何故か一言も話さず、まるでその場にいないようだった。
埋葬その他渡世の面倒事が済んだ後も、地下から姉の声が聞こえることは二度となかった。荼毘に出されて骨は代々の墓に入れられた。墓参りにも何度か行ったが、墓の下から姉が話しかけてくることはなかった。
時折収納の冷たい金属に指を入れてみるが、開けても冷たい空気が暗闇から上ってくるだけで、泣き声のような隙間風の他、地下からは何も聞こえてこない。
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