キャラバン

 真夏の深夜日付の変わる頃家のチャイムが不意に鳴った。サッカー観戦で起きていた私が出るとドアの向こうに車が立っていた。

「お晩です岩手」低い声で車がそういった。

 車はマーチで体は男に見えた。身長百八十センチの百五十五センチまでがフォーマルな洋装で、襟首の上に頭のかわりに白い車が載っかっていた。「赤井鳩子さんですね。結婚してください」

「何ぞ」

 心当たりのない客なので私も戸惑い、騒ぐ私に家族も起き出してきた。いろいろあった結果とにかく話を聞くことになり、家に上げてお茶と水羊羹とを出した。手土産というと車は自分の後部席のドアを開け、車内から見たことのない外国の野菜を取り出した。ふさの果物が一山、玉蜀黍が幾つか、野菜を包む新聞紙が外国のもので、よく知らぬ文字がたくさん書かれていた。最後にトランクから花束を取り出し私に渡した。花は駅前のスーパーのシールだった。「結構歩きました。バスが判らなくて」

 男性車両は名をMといい、某国の皇太子という話だった。内ポケットには怪獣の詩集があり、愛読書ということだった。

「僕の国では詩は怪獣が漫画は鳥が書きます。漫画は常に風の中にあり、詩は巨人に焼かれます。この詩はポケットで護身になります。一身上銃で狙われることもあります」

「車に国家があるんですか」

「これは変装です。名と顔が出ると騒ぎになるので頭を付け替えてきました」

「メディアの寵児が何しにうちに」

「僕の部屋に鳩子さんからラブレターが届いて」

「そんなもの私」

 見せてもらったラブレターは確かに私の筆で、五年前病気の時分に甲子園の優勝エースに宛てて書いたものだった。勇気について綴った拙い筆致のもので、病室で取った写真も添えてあった。

「誤送の果て私の部屋へ届いたのでしょう。私宛でないことは判っておりました。しかし手紙を見るうち不思議に心が花咲く音がして、こうして訪ねた次第です」

「殊勝なことで」

 手紙がエースへ届いておらなんだことも病気の書き物を不意に持ち出されたことも、ラブレを勝手に見られたことも随分屈辱で私は居間八畳を転がった。手紙で育てた私を愛されても単純に不快だったし、改造車にも嫌悪感があった。

「美味しいお茶ですね。この家もいい家だ」ガソリンタンクに車はお茶を流し込んでいた。「よければ時々お邪魔させてください。未来のことなど話したいので」

 頷く由など私にはなかったが家族は比較的好意に車を迎えていた。

「いつでも来てください。この子は夜でも起きているので」

「ではまた夜に来ます。この羊羹は美味しいですね」車はボンネットに羊羹をしまった。


 Mは近くのアパートを借りて、そこからちょくちょく私の家へ通うようになった。昼は近所のスーパーの中のパン屋で働いて、終わると私にケーキを買ってきてくれた。

 夜にケーキを食う気もないし迷惑するのでやめろといったが、ケーキが刺身に替わるくらいで夜中のチャイムは何度も続いた。やがて私が蕎麦が好きなことを突き止められて、大リーグを見ながら二人蕎麦を啜る羽目になった。

「鳩子はテレビが好きなんですか」

「別に」

「そうですか。では夜が好きなんですね」

 濃いめのつゆがぷんと香って、青みがかった灰色の蕎麦が濡れていた。テーブルの上に薬味を置く時、Mが小さくくしゃみをした。

 夜のリビングのテレビの中だけ朝で、BSの画面では昨日投げた日本人のハイライトが映っていた。あの日私に配られた勇気の源は、今はどこかの二軍にいるそうだった。

「鳩子は野球は好きなんですよね」

「そんなことは全然ない」

「そうですか。ではエースが好きなんですね」Mは頷いた。

 夜は毎日来るのでMも毎日わが家へやって来た。蕎麦ばかり毎日はよせというと工夫もし始めた。打算で生きる私は結局そういうことをされる内には、小腹空いたな、薬飲まなきゃ(何か胃に入れよう)、ああでもあいつがどうせ来るな、何か買ってくるなら待ってみるかと車で溶けてまた固まったガムみたいな腹積りをするようになって、そういう意識の低いことをしているから夜変に落ち込んだりする羽目になる。とめどなくやって来る昼や夜を待ったことはなかったけれど、この夏の一瞬がずっと続けばいいのにということはあの日病室の小さなテレビの前で確かに私も望んでいた。


 寝られない日が続いた後で、どこにも行けないような雨の日があった。スーパーはとうに閉まった後で、その日チャイムは久しぶりに鳴らなかった。

 来る来ないとも連絡はなく、鳴らないチャイムには不思議と怖さを感じた。物音で寝付けない気がして部屋の窓から弾かれる道路を見ていると、いつもよりずっと遅くに傘を差したヘッドライトが歩いて来るのが見えた。

 ブラシとタオルを貸しMを風呂場に押し込んだ。テレビを見ているとやがて車が綺麗になって出てきた。その辺にあったジャージをMに押し付け、Mの礼服は構わず洗濯機にかけた。

 木がうるさい中Mとサッカーを見た。ジャージのMは思ったより太ましかった。

「サッカーのこと教えてくれませんか」

「丸いのがボール、駆けるのが人、網籠がゴール、ゴールを狙う」

「成程」成程というMはワイパーを一度動かした。

 盗難車だというMの顔の中では運転席に若い女性が助手席に恐らく男児が乗っていた。二人とも今は起きているらしくドライブインシアターのようにテレビを見ていた。

 サッカーが終わると何かアニメが始まって、血などが出ていてぐろいめだった。

「蕎麦茹でますか」Mが勝手に台所に立って、私が止めると水羊羹を持ってきた。夜の道路みたいな水面を舐めながら、テレビをはね返すMのフロントを見ていた。

 サッカーのことは私もちゃんと知らず、判らないままに今日も見ていた。

「押しかけられて迷惑だったでしょう」不意にMが呟き、あんまり当然過ぎて言葉を思いつかなかった。こんな日にもう飽きたということかもだった。

「国へ帰るの」

「夏が終わります。国で収穫が始まるんです、雪のある冬を見てみたいけど、蒸す夏も一ついい味でした」

「一応訊くけど嫌いになったの。また来られてはかなわないから」

「宿題にします」

「訊いてないこと一杯話して、訊きたいことは答えられないの」

「ねえ鳩子未来だけ決めず置かせてください。決まらぬことだけ握って夜のように生きてくんです。手紙とあなたじゃ手紙の方が愛嬌のある顔つきでした。でも写真じゃなくあなたを見れてよかったと思うよ」

「これ持ってって」私は居間にあった邪神ぽい何かの面を押しつけた。

「偽物の私なら信じてもいいよ。あんただったらまだ構わない。勝手に想像して思ってくれていいよ。本物のことは忘れてよ。私を思ったらきっとこの面を見て。顔ももう思い出さないように」

 雨の中二人バス停へ行った。夜明け前の道をMがライトで照らした。無人のベンチで始発のバスを待った。Mの服はくしゃくしゃの皺だらけだった。雨はやがて霧のようになった。定期的にワイパーが動く音が聞こえた。

 駅のホームで私はMと別れた。電車に乗る時Mはアパートの鍵をくれて、怪獣の詩集も私にくれた。

 帰った私はそのままMのアパートに寄り、殺風景なその部屋に初めて上がり込んだ。カーテンもない角部屋に家具の類はなく、テレビ一つなく、ハンガー一つなかった。

 日陰の床にいるとうとうとして、いつしか夢の中でMと砂漠を歩いていた。

 Mは人間の顔で、でも私はMだと判っていて、厚着で息苦しくて、馬的な家畜にまたがっていて、巨大な夕日が落ちるところで、隊商の列が縄のよう続いていて、Mの指差す彼方を見ると、小さく国のミニチュアが見えて、やがて辿り着いたのは野菜の国で、街に入るとたくさんの人が出迎えてくれて、Mが私に何ごとか問いかけてきて、そこで私は目が覚めてしまった。

 同じ西日が窓から射して、物のない部屋は血に染まるようだった。バイクの遠ざかる音を聞きながら、私は内ポケから詩集を取り出した。

 開いた拍子に挟まっていた私のラブレターがこぼれ落ちた。

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