注連縄ご飯

 校舎裏にある祠の前で、クラスの女子がクラスの女子を洗っていた。

 野洲路はボールを拾うとそのままそれを見ていた。女子(洗う方)は野洲路に気付くと、洗う手を止めホースの水も止めた。水撒きの後の澄んだ感じが野洲路の方まで漂ってきて、洗われていた手嶋窓子の俯く髪から水が垂れ落ちた。

 人数でいうと洗われていたのは手嶋一人で、洗っていた方は六人だった。六人はホースを纏めるとその場を去っていき、後には野洲路と手嶋が残った。鳥居のくすんだ赤が水に濡れ少し濃く見え、飾りの白い紙が破れて地面に張り付いていた。

 拭く物を探したが持ち合わせが軟球しかなかった。人気のない学校の隅なので借りることも出来ず、どうしたものかと考える内に座っていた手嶋が一人で立ち上がった。ホースに近寄り手と足の泥を水で洗い流すと、一人で校舎の方へ帰っていった。

「手嶋が水など掛けられてたが、あれはいじめかな」

 昼休み友人の籤太郎に見たままのことを野洲路が語ると籤太郎は難しい顔をした。あの後教室に手嶋窓子は戻っておらず、その後の様子などは判らなかった。

「それを見つけてお前が止めたの」

「見てたら止まった」

「そうか。いずれ風邪など引かねばいいが。もう十二月も終わるというのに」

「ね」使い古したスプーンのような外の景色を野洲路も見た。その日手嶋窓子は授業には戻ってこなかった。

 翌日の手嶋窓子は野洲路の三つ前の席で授業を受けていて、体を壊したりはしていない様子だった。今日は髪を編んでるなと野洲路は見ていて思い、それ以上のことは判らなかった。いじめというならいじめる側の女子ら六人も真面目に授業を受けていて、集中していないのは野洲路だけにも見えた。

 それだけ気にして生きてはいなかったので、昼を食べつつ気付いた時には手嶋や六人の姿が教室になかった。自分の食事も半分食べ終えた頃で、昼休みも半分以上が過ぎた後だった。

 訊いてみると手嶋は普段教室で昼を食べるそうだった。「いつも一人で席にいた気が」

「そうか」そうかと野洲路は答えた。昨日まで野洲路は手嶋を大して気にしていなかったので、急に色々なことが判ったような感じさえした。今日の籤太郎の昼飯はパン屋の菓子パンで、野洲路のご飯は米の弁当だった。席にいない手嶋が何を食ってるかという風に考えてみて、急に口の中のおかずの味が苦々しく変わった。

「何」

「飯じゃないもん食ってるようで」

「ふん」籤太郎は同意してツイストドーナツを齧った。「逆よりは自然だね」

 つまり何だと野洲路は思った。冬人に水を掛けられた身の覚えこそなかったが、そういうことをされてるやつがいると目で知ってみると気分は悪かった。程度でいえば微々たるもので考えてみるとご飯がまずいかもというくらいだったが、意図せず知ってしまったことの組み合わせが目の前にあるのも確かだった。今もしかして何かされてるのかと想像出来るうちはしてしまうらしく、その邪推だけで野洲路は食欲がおさまった。

 見なければよかったなというのが一番の感想で、早く仲直りすればいいのにというのが次に思うことだった。これから手嶋達が視界から消える都度に無駄な勘ぐりをするとして、毎食こんな気分で弁当を食わねばならないのかと思った。

「いいたかないが迷惑だな」

「お前の都合でしょ」籤太郎は昼食を終えた。「お前が都合で希望があるなら、お前が働きかけるのが道理では」

「そうなの?」

 自分は関係ないと野洲路は思っていたので、籤太郎の言葉は屁理屈に聞こえた。

 一人ジャージで午後の授業を受ける手嶋の頭を見ながら、籤太郎の言葉を考えてみた。

 つまりいじめならいじめですよと先生にいったり、やめなよと当人らに頼んだりするのか、仮にいじめでなかったとして、なら何なのか確認もいるだろうとも思った。考えるほど馬鹿らしく、そんなことが自分に出来るわけがないと素直に思え、そんなことをやるくらいなら飯の味など我慢出来るなと逆に結論した。やるべきことを整理するとやりたくないこともまた明らかになり、不明が消えたので納得し授業に意識を戻した。

 板書をノートに写していると、上下する視界に手嶋の垂れた髪がちらちらと映った。

 細分すると勇気がないのだろうなと思った。揉めごとに首を突っ込むような経験に乏しいせいかとても怖い気がした。怖さを踏みこむ由縁も勇気もないため、気後れするのだろうと思った。今後はどうなるのか、野洲路に構わず事態は収まりも広がりもするだろうが、見て何もしなかった自分というのが野洲路自身の手元には残る気がした。まだ発見されていなかったところの何かすべき時何も出来なかった自分というのが、このように露見するのかと思うとそれも怖かった。漫画的には明らか何かすべき瞬間でしかし自分にその手段はどうしても備わっておらず、こういう風に例えば漫画とか楽しめなくなっていくのかなと思った。自分の都合は幾つでも思いつけたが、解決するだけの勇気は残念ながら持ち合わせがなく、自分の手持ちもゼロではないだろうが、何かなすにはとても足りないという結論だった。

 教師が野洲路の名字を呼んだ。「ぼうっとしないでちゃんと前見な」

 野洲路は慌てて返事した。気付けば板書の手も止まっていた。

 家に帰れば漫画も読んだし、夕飯に関しては普通においしかった。手嶋のことなど目にしなければ忘れられたので、気分の問題なのだなとそれで確認が出来た。手嶋に限らなければこういうことはどこの学校でもあると思われ、目に付く範囲で何かに囚われるのは、道理でいっても正しくない筈だった。自分の現状維持に理屈が付いたので安心して野洲路は眠った。

 夢で手嶋が他の女子に祠前で蹴られていて、その場の鳥居に縄か何かで口や手足を縛られていた。それに割って助けるという展開で、女子六人をぼこぼこにした後野洲路は自然に目が覚めた。猿轡姿などほとんど映画で判りやすく悪者な女子らを殴るのは大変爽快だったし、激昂している自分の姿も場にふさわしい正義漢に見えた。

 その後しばらく六人と手嶋と共に消えるような場面はなかった。そのうち一週間が過ぎテストも迫って色々なことが手一杯になった。籤太郎との話題も問いの出し合いだけになって、他に何もし得ない時間が冬着のように一日を覆っていた。ちらつく雪を見ながら学校と家をただ往復し、判っていることの拡張工事に時間を掛けて自分を埋めていった。

 明日あるテストが感覚でやばいと予想出来、野洲路はその日ひたすら補填に努めていた。下を向いて教科書を暗記しながら歩いている時、視界の隅を人間の足が通った。

 校舎の裏の変な場所だったので、思わず野洲路は目を上げていた。女子が数人影へと消えて、手嶋の髪型が見えたのは気のせいかも知れなかった。

 女子らの消えたのは敷地の隅、小さい祠の他何もない方向だった。

 渡り廊下で野洲路は立ち止まった。自分が見たものが何か考え、自分の手持ちが何か改めた。手元にあるのは教科書と予感だけで、人を助けられるような持ち物がどこにも見つからなかった。見なかったことにしようと思い、それには技術が要るのだと気付かされた。知らない上級生が野洲路をちら見しよけていった。教科書の文字はもう頭に入らなかった。

 自分の腕力がゼロでないように、自分の勇気もゼロではないはずだった。勇気の数値がゼロではないなら自分は一体いつ使うのだろう? 考えたことはなかった。普段使ったこともなかった。その名で呼べる気分があるならこの場で使えば一番いい筈で、もしここで使えないせいで今後も出番が来ないとしたらと、初めて野洲路は考えてみた。

 順番が悪かった、足りる場面で使えればよかった、消えるなら勿体ない、使ってしまおうと諦め思った。勇気は金でなく振興券なんだと気付いて、せつなくもなり足も震えた。

 女子相手足を震わせて野洲路はおっかな現場へ向かった。果たして手嶋と六人がいた。いよいよ観念し俯いて近付き、どうにかこうにか練り込んだ一言目を口に出来た。変な物でも食ったように腹が痛く、口の中が万遍なく苦かった。「例えば……」

 夢で見たようには少しもいかなかったが、それでも女子六人は何もせずにその場を去っていった。勇ましさなど結局欠片もなかったが、イベントが終わって野洲路は心底安堵した。

 手嶋窓子は何もいわず去っていった。感謝を期待したことにそれで気付かされたが、やってやったという気持ちが勝った。


 晴れた気分で年末年始を野洲路は過ごした。自分は変われただろうか、否とばかりもいえないだろうと思った。結局テストは散々だったが、話の落ちとしては相応しい気もした。

 人にいう気は勿論なかった。初夢で手嶋と初詣に行き神社でご飯など食べたりもしたが、浅ましさだけで動けるのなら、それでもいいと結論をした。

 新学期登校すると手嶋は長い髪をばっさり切っていた。何か話してみたい気もしたが、話したことなど一度くらいしかなかった。

「今朝長かったんだが」体育の時籤太郎が変なことをいった。「来る途中で見たんだよ」

「ふうん?」野洲路は適当に相槌を打った。「なら人違いだろ」

「手嶋だったよ同じコート、同じマフラー、注連縄みたいなあの三つ編みもちゃんと」

「比喩」野洲路は笑った。体育が終わり着替えて戻ると昼休みで、いつも通り二人は向かい合って座った。弁当の入れてある布が解けて開いていて、持つと少し軽いような気がした。

「冬の弁当は冷たいな」籤太郎はいった。肩越しに首元涼しい手嶋窓子の食事姿が見えた。ほっとして、少なくとも、もう嫌な気分で昼を食べずに済みそうだ、と思った。

 いい気分で野洲路は自分の弁当箱を開けた。 

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