踊り場の円盤

「昨日スーパーで先輩を見たよ」

 机に寝ている村子はいった。原子は村子の耳を掻いていた。

「どの先輩」

「次郎坊先輩」

 次郎坊先輩も買い物などするのかと諸子は思った。

「動かないでよ次郎坊先輩が買い物するのかあ」

「そりゃ誰だってするでしょ一度は」

「というかお前は家が近いの先輩と」

「ね初めて知ったんだけど」

「何買ってた先輩」諸子は訊いた。

「近づかなかったから判らない」半開きの口で村子は答えた。原子が村子の右の耳から大きな耳かすをサルベージすると、諸子がティッシュを差し出し耳掻きから拭い取った。

「ほら大きい」

「どれ見せて」

 諸子がティッシュを広げて見せると村子は眺めてへえといった。ボールを持った数人が教室に入ってきたので、耳掻きはそれで中止になった。

「もうチャイム鳴る」

「後五分」

「トイレ行ってくる」いい残し諸子は教室を飛び出した。

 入学間もない四月の晴れの日で、廊下には旧友を求めて同級生が溢れていた。皆死に遠い寝顔をしていた。太い制服と体とのずれが、波風のように心を隠していた。

 小走りになって髪と制服を掻き分け、足で混むトイレの前を諸子は通り過ぎた。廊下向こうの空のトイレも静かに素通りし、長い校舎の一番端、埃臭い階段の前で足を止めた。

 幾分幅の狭い階段だった。強めの勾配、影が付いて色の判らぬ壁の正面、とても届かぬ頭上の窓から尖った光が5.5本差し降りていた。埃と砂の床は上履き越しにもざらつき、冷えた空気が筆圧のように上階にいる生き物の機嫌を諸子の元まで運んでいた。瞬きの内に息を整え、起伏だけ髪を整えてから、黒剥げた赤錆の手すりに触れ諸子は階段を上った。

 踊り場には銀色の円盤が浮かんでいる。

「おはよう」小声で諸子は笑った。

 十段上った光る踊り場で諸子は立ち止まった。降り注ぐ窓の光を円盤の曲面が滑らかに反射していた。曲線だけで構成された幅一メートルほどの円盤から尾羽のような反射光が芯太く立ち咲いていて、鏡を向けられた時のような輪郭のある強い光が制服の胸元に映り込んでいた。

 諸子の背よりも幾分の高みに円盤は浮いており、諸子が静かに一足寄ると、角のない表面に滑らかに歪んだ顔が映った。円盤に映る諸子の目には、円盤の底とさらにそこに映る自分、他には直上にある今は点いていない蛍光灯とが映っていた。蛍光灯の濁るガラスの表面には円盤の上面の映す階段の踊り場の天井近くの様子と窓光、その円盤を見上げる諸子の姿が映っており、その目の中にも円盤の底と、踊り場の天井が広がっていた。墨を塗ったように天井は暗く、色を塗った白い壁は翳で灰色で、床に並べて嵌めてある木は、隙間に綿埃を一杯に湛えていた。

 諸子の立てた埃が日に晒されて輝き、円盤の陰に入ると気配を消した。

 いっぱいに腕を伸ばして円盤の下腹部に諸子は触った。手すりに似た冷たさが掌に広がった。埃臭く薄暗い踊り場で、しばらく諸子はそうしていた。

 一年生の諸子は入学三日目に校内を散策し、この薄暗い踊り場とそこに浮かぶ円盤を見つけた。担任の言ではずっと昔からこの踊り場に浮かんでいるものらしく、特に誰にも興味は持たれていないらしかった。円盤は編み笠より大きく踊り場よりは小さく、蚊柱のように浮いてはいたが僅かも動きはしなかった。下から押しても手を掛けぶら下がっても、固定されているようにその場に留まっていた。いつ来て見てもその表面は磨いたばかりのように曇り一つなく、誰も触れたことがないかのように完璧に冷え切っていた。諸子の指紋すら重力で流れ落ちてしまうようで、傷一つない銀色の姿が変わることはなかった。

 親しくなりたての村子と原子を、一度引っ張って円盤を見せてみると、二人は驚いたように凄いねといったが、その後誘っても見には来なかった。以来諸子は時々一人で、円盤に会いにこの踊り場へ通っていた。

 チャイムが鳴ったので諸子は息を吐いて背伸びをやめ、いつもの通りタオルで円盤の底を拭き、指紋と曇りを取ると階段を下りようとした。

 振り向いたところで階下に誰か立っていることに気付き、一瞬体が止まった。

「君はよくここに来るね。それを見に来ていたのか」

 立っていたのは黒の詰襟、三年生の次郎坊先輩だった。

 次郎坊先輩はこの学校の三年生で、美人で空き箱委員の委員長だった。学校中の人間の羨望と嫉妬をその一身に集めており、入学間もない一年にも、その名と姿は知れ渡っていた。

「次郎坊先輩」突然現れた学校のスターに諸子は半ば狼狽した。至近距離で本物の空き箱委員を見るのは初めてだった。

「そう、君は僕を知っているのか。君は何ていう」

「諸子です、諸星諸子」

「諸子。それが好きなのか」次郎坊先輩は諸子の背後の円盤を見た。

 諸子は咄嗟に俯き唇を噛んだ。二人の間を光る埃が流れた。

「桃の木には垂れる固い葉が付く。花に遅れてそれは育つのだと僕は祖父から聞かされている。人間ばかり約束を違えることは出来ないと知ることだ」

 そういうと次郎坊先輩は階段を上がっていった。一年の教室は一階で、三年は三階だった。

 授業は始まっていて、諸子は遅刻になった。老人教師は諸子を見つめ、学校に慣れたかと小さく訊いてきた。再開した音読が一枡ずつ机を前後に流れていって、クラスメイトは昔のワープロのように一行ずつ物語を教室に写し取っていった。

「用意する物が書かれた紙に、よし子は静かにチェックを入れていった。明日始まるパイナップル遠足の、大事な缶詰をリュックに詰め込んだ。どのように入れようと缶は上手くおさまらず、角が背中に当たってどうにも気になり、何度も揺さぶり向きを変えようとしたが、パイナップルは少しもよし子に応えなかった。」


 朝、早く来た諸子は踊り場に小走りで向かった。窓格子と円盤の影を捉え階段を上りつつ、朝日を反射する円盤が今日は逆光になっているなと思った。

 手を翳す高さにあった円盤が、顎の辺りにまで降りてきていた。

 背伸びすると上部もよく見えた。初めて見る円盤の頭頂部に映る自分の像を見つめながらまるで抱えられそうと思い、円周に沿うように腕を回してみると半ばまでが腕に収まった。諸子はしばらく近付いた円盤を撫で回した。円盤はどこから見てもつやつやと滑らかで、氷枕のように冷え切っていた。

「どうして今朝は近かったのだろう」

「判りません」村子が教師に答えていた。

「じゃあ次諸星さん」

「すみません、私も判らないです」

「聞いてなかったからね」諸子が答えると老人は悲しげにいった。「私は当てます。気をつけて下さい」

 謝った時教室の前の扉が開いて、男の生徒が数人中へ入ってきた。

「何ですか。授業中ですよ」

「失礼します黒田先生、空き箱委員会です」上級生らしき一人が名乗った。

 空き箱委員の名に教室がざわめいた。

 現れた生徒全員が空き箱委員の栄光の証である空き箱で作った腕章をしていた。

 村子が原子の脇を叩いた。「原子本物の空き箱委員」

「痛いよ」原子も驚いたようだった。「祝辞以来だ見るの」

「じゅぎょんちゅう失礼します」上級生委員が教室に向けて手を後ろに組み声を張った。「自分は私立福本小学校出身、二年三組空き箱委員会所属梅津青梅密林太郎と申します。一年二組所属諸星諸子さんはご在席でしょうか」

 呼ばれた気がして諸子は耳を疑った。「えっ」

「こっこいつです」村子と原子が同時に挙手し斜め前にいる諸子を指差した。

 全員の視線が一斉に集中し、諸子は何だか判らなかった。

「諸星さん」上級生が立礼した。「授業中済みません、委員会室まで御同行願えますか」

「あの何故」

「諸星さんの空き箱委員会への入会が推薦されています」

「馬鹿な」思わず馬鹿なと実際に口にしてしまったと諸子は思った。

「天に誓って本当のことです。説明の後御希望を伺いたいのですが、よござんすか」

「あの、本当に急で、私一体どうしたらいいか」

「お心のままに申して下さい。嫌であるなら」

「いえ是非。入りたいです」

「ではこちらへ。黒田先生お騒がせしました」

「ご苦労様です」老人教師はいった。空き箱委員会は教師より位が高いため、委員会活動が授業に優先されるのだった。

 屋上へと誘われて初めて、そこに空き箱委員の仮設棟が建っていることを諸子は知った。身も知らぬ部屋で上級生に囲まれ、足が震えたのも高さばかりのせいではないと思われた。

 活動の具体的内容の説明と共に、今度の推薦は委員長である次郎坊先輩によるものだということを聞かされた。

「次郎坊先輩が」

「胸を張って頂戴な」副委員長という麗人が机の向こうで微笑んだ。「一緒に頑張りましょう」

「喜んで」口が勝手に動き、諸子はそうして空き箱委員会に入った。

 在室の面子に自己紹介を済ませ、歓迎会の日取りが決まると諸子は解放された。暇を告げてダンボールハウスを飛び出すと居ても立っても居られず諸子は駆け出し、階段を一階まで一気に駆け下りた。

 そうして踊り場の円盤に飛びつくと、枕のごと抱き今しがたの出来事を語った。

「こんな身に余ることが起きるなんて。今頃家でも燃えてるのかしら」

 顔をうずめて興奮の熱を円盤で冷ましながら、ふと諸子は自分が円盤にかぶさっていることに気づいた。円盤の位置は今朝よりも下がっていた。

 無理と思いつつ委員会の仕事に諸子は精を出した。授業にも出た。空き箱委員会に一年生は一人で、そのため皆によくしてもらえ、多くの人と仲良くなれた。

 半年もする頃には委員会の二三年がそうであるように、同い年の感覚で誰とも会話をこなせるようになっていた。


「上級生の、それも空き箱委員とためて話せるのか」

「そういうもんなんだろうね」

 村子は原子の耳を掻きながらそういうもんかと相槌をした。

「次郎坊先輩ともどつきあってるの」

 原子が訊くので、諸子は「ううん」といった。

「へえ。え、やっぱ委員長には敬語なの?」

「違うわ」諸子はかぶりを振った。「委員長には会わないの全然」

「なんで?」

 あの朝以来諸子は一度も次郎坊先輩を見かけていなかった。同じ空き箱委員で、毎日でも顔を合わすのかと思っていたが、仮設棟の執務室には次郎坊先輩はついぞ姿を現さなかった。多忙な空き箱委員の中でも輪をかけて仕事が多いらしく、どこかの教室や空き教室を常に飛び回っているという話だった。

「へえ。けどまあいいじゃんおんなし空き箱委員なんだし」

「痛い!」

 原子が叫んだ。

「ごめん」詫びた村子は耳かきを持ち直し、より慎重に作業を進めた。

 しばらく二人ともが黙った。吐く息の静かに漏れる音だけが聞こえた。

「取れたよ」ほっと体を起こして村子がいった。耳掻きを机に敷いたティッシュに当てた。

「まだ痛い」と原子はいった。

 十月になり、昼休みの教室は過ごしやすく人気も多かった。場所取りに難儀するようになったなと二人はぼやいていた。ソフトボールを持った男子が教室に入ってきたので、村子は今耳掻き中と叫び、それで男子は再び廊下へ出て行った。日本国語大辞典で出来た二人分だけのクローズドサークルの中で、村子と原子は互いの耳掃除を行っている。

「仕事柄」寝たまま原子がいった。「上の階にも行くんでしょ」

「行くよ」諸子は答えた。

「上の階には何があるの」原子が顔を顰めた。

「何って」村子が怪訝そうに訊いた。「どう意味?」

「一階と二階の間に円盤があるけれど、二階には何が浮かんでいるの」

 村子も諸子の方を見た。

「何も」と諸子は答えた。

「何もないの」

「踊り場には姿見があるよ」

 二人はなあんだといった。「三階には」

「三階と屋上の間には何もない」

「普通なのか」

「入学した頃」村子が指で匙を拭った。「円盤を見て。こんなもんあるのか中学校と驚いたもんだったけれど、喜びも驚きもいつもあるとは限らないのね」

「ふうん」諸子は返事をした。

「耳かきの話をしているの」村子がいって二人は笑った。二人は笑っているなと諸子は思った。自分の話をしているのだとも思った。自分の話で自分は笑っていないが二人が笑って、目の前の二人は私と私の話をするために今三人でいるんだろうとも思った。なら私は何でここで私の話をしているんだろうとも思い、事実諸子は今話したいことがなかった。

 今日の耳掻きが終わった。国語辞典が自然と片付いていった。

「今何時」時計は見ずに村子は訊いた。

「十分」目を外し時計を振り返って原子は答えた。答えてから前に振り向いた。

「昼休みは長いねえ」村子はまるで嬉しそうにいったが、嬉しそうそうということなんだろうと諸子は思った。

「うん」原子はうんといった。私は相槌を止めると諸子は思った。

 止めた分間が開いた。今開いたなと三人が思った分更に開き、息を吸うために更に開き、考え始めて更に開き、そろそろまずいと思ったところで少し怖くなり、新しいことを考えようとして更に開き、もう一度息を吸って更に開き、駄目だなと思い、続きの話に戻そうと考え更に開き、そろそろ誰かないかと諸子は思う。そうして村子がハミング気味に唸った。自分の体調の話と諸子は思った。外に話すことがないから自分の体調の話になるのかと考え、開き時間の気にしないいいわけだと自分で思うことでいよいよ頭が回らないなと思う。

「窓開けようか暑くない」いって原子は席を立ち、私は相槌しないと諸子は思った。間合いを嫌って席を立った原子は窓を開けてとりあえず興味を示して、それで、仕方がないので席に戻り、自然に椅子に座った。

 私はどうするのかと諸子は考えた。そもそも今日私は割と口を開かず、聞く側だったのでこれは直に私のせいではなく、二人が楽しければ邪魔せず、二人の話聞いてられればそれでいいんだと、思ってるから焦ってないという風でいこうと考え、気が楽に私はなるんだろうと思った。

「長いといえばこの間」仕方ないように原子はそういう始め方をした。

 開けた窓から冷たい風が吹き込み、机の上に広げたティッシュを宙に舞い上げた。あっと三人が思う目の前で、耳かすは床に散らばってよく判らなくなった。

 ティッシュを拾い上げてから村子がいった。「諸子も耳掻く」

「いや、いいや」諸子はいった。


 踊り場には円盤が浮いている。

 諸子は校舎の隅からコードを引いて、踊り場で米を炊いている。

「すぐだからね」

 いいつつ諸子は絞ったモップで踊り場の掃除を始める。

 綿埃が水を吸い、玉になってモップに絡まる。

 窓とサッシも拭くと、土埃に混じって黒い蜂の死骸が付いてきた。雑巾をバケツに浸すと、羽も体もかさかさになってばらけた。濡らした窓はひどく開けづらかった。

 埃臭かった踊り場は今は水浸しになった。窓からの風でよく冷えたが、乾くのもその分早そうだった。

 避難させてあった電子ジャーが時間を鳴らしたので、諸子は鞄から味噌汁と甘く煮た肉を取り出した。皿に盛りつけて校舎の脇で摘んできた野草を添えると授業で作ったエプロンを脱ぎまだ湿っている床に座った。

 朝食を並べられても円盤は変わらず浮いていた。

「召し上がれ」諸子は箸を円盤に取ってあげると自分も食事を始めた。「いただきます」肉は輪郭もあるし味噌は溶けていなかった。炊き立ての米はとても熱くて、飲み込めずほうほうと口を開閉するたび、湯気が溢れて窓の光を反射した。水気も十分で飲み物も要らないだろうかと思えたが、お湯は沸かしておこうとも思った。

「そう、卵がね」あったことを思い出し、諸子は二階の家庭科室へ行きフライパンを掴み水を火にかけた。円盤が何派か判らないので大体の候補は鞄にあった。諸子自身は目玉焼きにケチャップでアットマークを書いた。

「あなたは何歳なのかしら」食後のお茶を入れながら諸子は呟いた。「生まれが平成ならきっと気が合うわ。そうでなくても敬語なら問題ないわ」

 円盤が残した全ての手作りの朝食をバケツに流し込み、泥水で洗った食器を雑巾で拭くと乾燥し始めた踊り場で諸子は踊りを踊り始めた。知らない踊りを踊っている自分が円盤に映った。いったいどこで覚えたのだろうと考え、幼稚園ででも習ったのだろうと結論した。

 狭い踊り場なので飛び跳ねた拍子に諸子は円盤にぶつかった。ぶつかったのは顔だった。踊り場に浮く円盤はびくともしなかった。顔を押さえて諸子は蹲った。

 音を立てて折れた歯が水拭きしたばかりの床に転がった。

 息を切らしながら鞄に手を入れ、掴んだケチャップを諸子は円盤に向けて絞った。 銀無地の表面にドアと窓枠を書き加えると、銀色の円盤は何もいわぬまま、透明の変な液にまみれたパンツ一丁の次郎坊先輩を吐き出した。

 次郎坊先輩はバケツの上に落ち、残飯と汚水と共に暗い階段を滑り落ちていった。

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