スローダウン

 小学三年か四年生の時、家族で自転車旅行に行ったことがある。

 日帰りの遠出で朝早くの出発だったが、帰宅の頃には日付も変わって深い真夜中になっていた。その深夜の帰り道、私達は一人の魔女を拾った。

 魔女は小学一年生くらいの子供で、腰のない黒い髪をしていて、藍色無地のブレザースカート、馬鹿でかい麦藁帽子をかぶり、サッカーみたいな膝靴下と雨用の靴を履いていた。そういう恰好で泣きながらママチャリを押していて、深夜のことなので存外目立っており、不審げに私達が通り過ぎると、泣きつつ後ろからついて来たのだった。

 子供は女の子で、私達に向け魔女だと名乗った。最初の言葉がそれだったので私などは随分鼻白んだ。泣きながら辿るつたない話では道に迷ったらしく、さまよう内目的地も現在地も判らなくなってしまったということだった。

「参って」しゃがみこんで父が訊いた。「君名前は」

「魔女のエヌです」

「どこから来たの」

「魔法の国です」

「魔法の国からはどうきたの」

「成田から入国しました」しゃくりあげながら女の子は外に出た洟を拭いまだ出ていない洟を吸った。パスポートは持っていないとのことだった。

 とうの昔に日付も変わり辺りの路地はすっかり緑色で、埒の固さと疲れもあって私達はひとまず女の子を連れて帰ることにした。鍵を開けると使っていない玄関が出迎え、私は一日ぶりに我が家へと帰って来た。

 弟のテシ雄から順に風呂に入り、女の子にもお湯を貸した。びしょびしょで出て来た女の子に私達は色々いったが、どうにも風呂を知らないようだった。

「お風呂はないの魔女に」

「まじもんは私初めて見ました」

「日本語は上手だね」「何か食べる?」

 冷蔵庫にあるものを見繕って並べると、テレビを点けてごろごろしながら私達は静かにつまみ始めた。迷子を届けることを誰もいい出さなかったのは、眠くて頭が働かなかったのかも知れなかった。

「チーズ食べる?」母が魔女の子に袋を差し出した。女の子はチーズたらを一本引き抜くと前歯で齧り、齧った後はしゃぶった。

「肉食べる、塩漬けのお肉」私も肉をフォークで刺し女の子に渡した。きょろきょろしてからフォークを受け取り女の子は肉をねぶった。「どうおいしい。塩っぱいかな」

「うまし」うましと繰り返し魔女の女の子は四角い肉を咀嚼し続けた。

「家で自分で漬けてんだよ」私はコップで麦茶を渡した。「お母さんが。地下室に冷蔵庫があって、肉買ってきて塩で包むの。そのままでも食べれるし、料理してもおいしいの」

「ふうん」エヌは私に笑いかけた。

 弟がテーブルを拭き、ビールは飲むのかいと父が訊いた。皆がその女の子エヌに、何かをしてあげたがっていた。

 くちゃくちゃ咀嚼した後、噛み切れなかった肉の最後をエヌは吐き出した。噛みきれない白くなった筋の固まりが、小さな手の中でガムのようだった。

 テレビで何かユーマをしていた。んなもんいるかと私は思った。

「誰かと一緒ではなかったの?」

「空港からは一人で来ました」魔女が答えた。今はTシャツで、肩までの髪は藍色だった。

「成田からここまで自転車で来たの」

 日も暮れるはずだと早合点したが、どうやら女の子は自転車には乗れないらしかった。

「便利かと道中自転車を買ったものの運転殊の他難しく、押し荷と相成り尚立ち行かず」

「お金はあるんだね」「どこへ行くつもりだったの」

「地図を羊に食べられたんです」しおらしい顔でその子はこぼした。「ステイ先の番号も書いてあったから、途方に暮れちゃって」

「ふうんそうなの、」

「行く当てないならうちにいるといいよ」

 全員が気だるく眠たかった中で一体誰がその提案をしたのか、今となってはもう判らない。父や母にも聞こえたし、自分の唇にも馴染むような気がした。少なくともその提案を聞いた時は全く自分も望む所であるように思えたし、不思議にいわされたような感も覚えた。ただその子に何かしてあげたいという感じが湧き上がって、どこかの口からとろりと零れたのだった。そういう意味では親切に似ていた。

 何も考えてなさそうな女の子はすごく喜んだ。そうしてエヌの居候が始まったのだった。


 居候の魔女は日中テレビで留守番をして、私や弟が学校から戻るとだいたい家の中で遊んだ。たまには外に出て公園まで行った。魔女は自転車に乗れなかったので、私はよく一緒に自転車の練習をした。エヌの乗って来た自転車はどうにもエヌの身に大き過ぎたので、練習には私のお古を貸してあげていた。

「前を見て、ペダルを踏む」

「はい」エヌは吐息でペダルを踏んだ。きりきりがらがらどこかが鳴った。

 手入れてないからなと私は思い、エヌがブレーキを掛けると身の切れるような金切音がした。私は思わず顔をしかめて、エヌは驚きバランスを崩した。

「エヌ平丈夫?」

「自転車が鳴いた」エヌはほほっと笑った。「鵺みたいな声」

「聞いたことないな」

「本当?」魔女は私を見た。「こんな感じにひんひん鳴くの」

 公園の果てでエヌはゆっくりターンし、魔女の国にも鵺はいるのかと私はぼんやり思った。補助輪の軸が8の時にぶれ、蛇行する自転車は小石を飛ばした。

「エヌって今何歳」「人間で七つ、アサ子は」「私十」「年上なんだねえ私より」ゆっくりエヌは私へ戻って来た。「ただいま」

「エヌは何で日本に来たの」

「留学なの」魔法の修行に来たのだとNはいった。「人の世界で勉強をするの」

 してるのは魔法でなく自転車じゃないかと私は思った。補助輪がないと転び始めて、藍の冬服が砂白くなった。一度大きく倒れた時に、エヌは膝を広く擦り剥いた。

「今度はズボン貸してあげるよ」

「ありがとう。自転車楽しい」

 そういったエヌは笑って膝をさすった。

 手を離すとささくれた膝の傷口が、アイロンを掛けたように綺麗になくなっていた。私は随分驚き、エヌは月のように笑った。私がエヌの使う魔法を見たのはそれが最初のことだった。

 家に帰ると母がいて、私に買い物を頼んできた。

「醤油がなくなりそうなの。買ってきて」

「醤油って?」

「日本ではよくなくなるの」私がエヌに説明した。「ねえ一緒にヨーグルト買っていい」

 私の買い物支度の間、エヌは母に醤油の概要をレクチャーされていた。エヌもスーパー一緒行こうよと私がいいかけた時、エヌの方が私を呼び止めた。

N「醤油作れるよ私」

「どうやって?」

「あのね」いうとエヌはボトルに残っていたわずかの醤油を口を付けて一気に呷った。

 わずかといっても飲むにはことな量で、私も母も大声を出した。けろりとしているエヌはしばらく思案してから胸の前で手茶碗を作った。訳も判らず私達は覗き込んだ。

「あ」

 ぷんと濃い匂いがし、手の皺と皺の合わせ目から気泡混じりの醤油が湧き出した。

 母が慌てて鍋をかざすと手指の合間から液体が溢れ、鍋の底を黒く満たした。醤油の匂いが私達を包んで、鍋を一杯にするとエヌの醤油は途切れた。

「終り」そういってエヌは笑った。スカートで拭いていたが手は跡もなくただ乾いていた。舐めた醤油は全くただの安い醤油で、私はその日ヨーグルトを買い損ねた。


 その夜隣の布団のエヌに私は訊いた。「お腹平気なの醤油飲んで」

「平左だよ」

「丈夫なんだね魔女って」布団が火照って私は動いた。「ねえ、魔法ってどうやってるの」

 エヌは少し考えた。「いろいろあるけれど、私は嬉しさで作るの」

「嬉しさ?」

 何か出してみてと頼むと、エヌは手のひらで自分の口を覆った。一分程すると口を開け覗きこむと舌の上に塩漬け肉が現れていた。私がつまんで食べてみると確かにうちの味で、あの日エヌにあげたそれだった。

「心のコップに嬉しさが溢れると力に変わって魔法になるの。嬉しい気持ちを、私は魔法のもとにしてるの」

「ふうん」

 私はエヌの手と顔に触った。柔らかい普通の肌だった。「嬉しくないと使えないの?」

「やり方色々あるんだけどね」エヌの声は白黒が反転していた。「辛さを魔法に変えたり、誰かの気持ちを魔法にする人もいるの。砂糖とコーヒーだけですごいこと出来る人だっているの。私はまだ魔法が下手だから、自分の嬉しさからしか魔法を作れないの」

「上手に見えたけどな」

「本当は下手なんだよ。だから勉強に来ているの」

 その一晩エヌは右手を私に貸していてくれた。エヌの手は舐めると塩味がした。


                 ★


 当時のことももう鮮明には覚えていないので、あとはあまり長い話にはならない。

 それを最初にエヌに頼んだのも母かも知れないし、弟や私だったかも知れない。

 一万円札を私の母から受け取った時エヌは物珍しげに眺めまわして、それから私達に笑顔で頷くと半分に折って口の中へ入れた。紙の噛まれる音が響いて私と母は固唾をのみ、エヌが右手を差し出した時手のひらから万札が数枚こぼれ落ちた。こんなたくらみが上手くいくもので、馬鹿馬鹿しくて私達は随分笑いあった。その晩はエヌの吐きだした方の一万円を使い、寿司など買ってみんなで食べた。

 それから大体数月後にはエヌは監禁をされていたように思う。場所は家の地下室で、父が大きい錠前を買ってそこに閉じ込めたのだった。地下室は天井も低く温度も低いのでそのまま冷蔵庫になっており、肉や野菜が漬かっていたり、古い梅酒が置いてあったりもした。あまり広くはないが古い机や暖房器具なども転がっていて、エヌに作らせた札束も、ダンボールに入れて積み置かれていた。

 封じた所で魔女が相手なので、魔法を使われては鍵など容易いものだった。父はエヌに手枷をはめたがその程度の束縛なら幾らでも帳尻を魔法は付けられるらしく、何度もエヌは地下室から脱走を図った。魔法を封じることが肝要となった。まずエヌの手足が取り払われ単純にアクセシビリティが下げられた。怪我は治せることは判っていたので手足が生えてこないように切断面に杉板を当て長い捩子で固定した。その後大量の塩を買って大きな水槽に流し、エヌの全身の皮を剥ぎその中に投じた。目も塩で潰した。

 塩の殺菌効果で化膿や腐敗を防ぐことでエヌは長期間の保存が可能になった。振るった暴力は魔女の致死量ではないらしく、どれが効いたのか魔法は使えないようだった。ペットにあわせて家を改造するように幾度と対症を繰り返しこの方法で安定したのだった。

 嬉しい気持ちで魔法を操るという言葉の通り例えば常に痛みに苛まれていると魔法の力は湧いて出ないらしく、監禁という面はおよそこのように成った。目的面については、塩から引き揚げてやればエヌは簡単に魔法を使って願いを叶えてくれた。いみじくも自身の言葉の通り心のコップが満ちさえすれば魔法は溢れてしまうらしく、地獄のような暮らしで摩耗したエヌの心は塩から掬われるだけですっかり感激してしまうようだった。

「今日一日は水槽から出てていいよ」母の台詞である。そのかわり何々頂戴という話の具合だった。エヌは進んでいうことを聞き動くこともままならない真っ赤な体でお金の魔法や知恵の魔法、あったことをなかったことにしたり、私達家族のままならぬ現実をつたない魔法で少しずつ変えてくれるのだった。助かった瞬間がエヌの嬉しさの絶頂で、水槽から出て塩を洗われた後は喜びはバナナのように減っていく。当面の痛みがやわらげば怒りも湧いてくるだろうし、水槽に戻される恐怖も立ち上るのだろうと思う。そうなってしまえば喜びしか力に変えられぬエヌに魔法は使えず、脱出も不可能という按配だった。

 勿論すぐにエヌは新しく面を削がれ、塩の貯蔵庫に放り直される。

 食い物みたいだった。

 私達はエヌを監禁し続けた。地下室は普段全く使われなくなり、エヌは水槽の中で塩に包まれ、それから何年間も生き続けた。

 気付けば私は中学生だった。高校受験を控えて、毎日机に向かっていた。

 小学生の頃よりはいろんなことを知ったし、つらい思いもときにするようにはなったが、エヌのことを思い起こし大抵のことは何でもないのだなと、そんな風に考える人間になっていた。本当のところなんて判りはしないが、私が志望の私立に行けるのはきっとエヌのいるからなのだと自分では思っていた。

 受験勉強で深夜机に向かっていると、地下の水槽でエヌの動く音が聞こえた。気のせいかもしれないが、そんな時エヌは何を考えているのだろうかとよく考えた。私もあの頃とは違うし、弟も小五になり少しずつ大きくなっていた。エヌが成長しているのかは判らなかった。いつまで生きられるのかも判らなかった。

「テシ雄が大学出るころまでは居てくれないとね」そう母は口にしていた。

 お金にも随分困らなくなって、私はもう一年はエヌを見ていなかった。母は時折地下室の戸を少し開けてみて、すると水槽は小さく物音を立てるのだという。

 エヌに貸した私の自転車はまだあって、地下室の片隅で冷たくなっている。私はエヌの持ってきた方の自転車に乗って、毎日高校へ通っている。

 結局と私は思う。嬉しさが力に変わるだけでは、何か手詰まりになることもあるのだ。小学生の頃の私は魔法というだけで驚いていたが、エヌのそれは言葉通り未熟だったのだろう。楽しくないと力が出ないなんて実際情けない話で、魔法であろうとなかろうとあまりに他愛なく、辛いと何も出来ないのでは、いけないことはいっぱいあるのだろう。

 エヌの作る紙幣は月日を追うごとにおかしくなっていった。紙が歪んでいたり柄がまじったり、簡単にいうと失敗作が増えていった。他の魔法も同様で、同じ頼み事でも過去より出来栄えが悪くなっていった。寿命ということかもしれなかった。

 今にして思えばエヌの魔法は一番最初のころが一番上手で、段々下手くそになっているような気がした。エヌは私達と暮らし始めて、どうも嬉しかったらしいのだ。


                  ★


 みんなで行った自転車旅行のことを思い出す。家族で川沿いのサイクリングコースを走って、隣の県の美術館まで行ったのだった。帰り道は真っ暗だった。橋から遠くにマンションが見えた。折り畳まれる外灯の連なりが見えた。曲がっていく車はライトだけだった。

 美術館は忘れてしまって、帰りに見たものばかりを覚えている。陽の落ちる痣色の道を一列になって私達は走っていた。私と父がマウンテンバイク、母が子供椅子付きのママチャリで、弟はキキララ自転車だった。母がしんがり、父が先頭で、弟がついて行けるように、ゆっくりしたペースで進んだ。

 時折風が吹くと冷たい雨みたいな洟が出た。強い風と闇の中を家族で一緒にゆっくり走った。母のライトが後ろから私を照らし、父と弟のライトを見ながらペダルを踏んだ。

 エヌに自転車を教えながら子供の頃の私は、いつかエヌに合わせて私達がスピードを落とすのだろうと考えていた。エヌと一緒に一列になり、風の中を走ったりするのだろうと思っていたのだった。


                  ★


 エヌが地下室から逃げ出したのは私が高校三年の十二月上旬のことだった。休みの日の夜遅くで、家族全員が家にいた。私は自室で勉強中で、食後のせいか少しうとうとしていて、突然大きな物音が響いたので思わず跳ね起き、自室を飛び出て階下を覗いた。

 最初は車でも突っ込んできたかと思ったが、階段を降りると地下室の扉が壊れていた。母が廊下にべたりと座って茫然としていた。私が音の主を探すと暗い廊下の向こう、居間の中心に何か黒い塊が立っていた。

 黒い生き物はテーブルに立ち、するめと銀河と空いたビールを蹴散らしこちらを斜に見ていた。影の向こうでテレビが野球をしていた。黒い毛並が輪郭に発光していた。 

 それがエヌだと気付いたのは後でだった。体は太鼓のように丸く、全身にびっしり毛が生えて、黒い毛にまぶすように塩が付着していて、動く度雹のようにばらばらテーブルに落ちた。毛の隙間から捩子の頭が見え、肩口や股のつけ根には今もぼろぼろの杉板が留められていた。塞がれ生えない筈の手足は板をよけるように全く違う場所、横腹や背や脇の下から昆虫のように生えていた。数は全部で十あり、どれも指まで毛に覆われて、長く太い爪を生やしていた。数本の腕は角材を掴んでいたり、札束を掴んでいたり、ちぎれたドアノブを掴んでいたり、地下室にあった物を武器のように体に纏っていて、うち一本の腕は私の自転車を掴んでいた。潰れた筈の目は肉が盛り上がり、少しずれた場所から真っ赤な人間の眼球が生えていた。私と一瞬目が合った気がした。

 誰か何かいうよりも早く黒のそれは居間の窓ガラスに体当たりをした。三回目でガラスは砕け冬の夜空へ生き物は飛んだ。茫然とした私達が目で追う前で、吸い込まれるように闇の夜に消えて行った。


 そうして魔女は私達の家から去っていった。塩の中に置き去りにされた数年の間に、魔法を使いエヌは姿を変えたのだろう。塩から身を守るために体を毛で覆い、肉を縒り直し、関節を増やし血管をバイパスさせ、立つ為の足を作り、逃げる為の手を生やし、地下室の扉を破ってあの日逃げ出したのだろう。

 なんのことはなく、エヌもちゃんと地獄に於いては苦痛を力に変えることが出来たのだ。塩に漬けられた八年間が喜びだけのエヌを変えたのだろう。何も変わらない方がおかしかったのだ。

 地下室の扉を破り夜に消えたエヌはなぜだかまだこの界隈に居るらしく、度々その姿を住民に目撃された。貼り巡る電線の向こう、家やアパートより高い空を自転車に乗った黒い動物が鳥のように飛んでいくのだという。電柱に止まり木していることもあり、駅前に出ることもあり、走る電車の屋根にいるのを見つけた人もいるという。人が近付くと、逃げて行くのだという。

 小さな自転車に乗った奇妙な鵺の目撃譚はその後も忘れた頃に囁かれた。姿は見えずとも鳴き声のみ聞こえることも多いという。鵺が鳴くのは、決まって夜遅くとのことだった。

 私はあれ以来エヌを見ていない。ただ明け方あるいは深夜、まどろむ内鵺の鳴き声で目を覚ますことがあった。家のすぐ近くで鳴っているらしく、ひんひんという甲高い音はしばらく続くと遠ざかって行った。カーテンを開けたことはないが、きっとすぐ近くの空、自転車に乗る鵺がブレーキを掛ける音が、何月かに一度聞こえてくるのだった。

 エヌが去り、父も母も何もいわなかった。弟とはあまり話さなくなった。家族で出かけることもなくなり、一緒に過ごす時間も減っていった。

 私は大学受験のために今は勉強をしている。振り返る日はまだ来ていない。

 エヌがいなくなり、私の気分も随分と転じた。一人深夜に勉強をしていると、判っていた筈の色んなことが、よく判らなくなっていく気がするのだった。

 自分が何となく寒い闇の中にいるみたいで、どこへ続くか判らない道に一人置いていかれてしまうような気がして、さまよう内に頭や体全ての速度が落ちて、私は立ち止ってしまうのだった。

 そんな時には決まって遠くの空から、エヌの減速する音が聞こえてくるのだった。

 暗い所からあの真っ赤な目が、無言で私を見ている気がするのだ。

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