二ゴーの檻
目が覚めると午前の二十時だった。窓から差し込む朝の手首は、植物のように細かった。
チャコは被ったままだった帽子を脱ぐと頭と顔を水道で洗った。寝起きしているのは風呂場だった。
顔を拭うとタオルは真っ白になった。
ふと天井を見上げると、南隅の辺りに、真っ黒い大きな蝉が一羽張り付いていた。嵌め殺しの窓のどこから入ったのだろうとチャコは思った。蝉は生きてるのかも判らなかった。しばらくその蝉を眺めてから、チャコは帽子を被って木戸の鍵を捻って開けた。
外は雪が降っていた。
急の雪のせいで虫には大事のようだった。芝生を埋めるほどのとんぼの死骸を踏みしめながらチャコは歩いた。しょこりしょこりと、雪ととんぼが靴で軋んだ。
目指す小学校は三階建ての鉄製だった。
二十年前に立って三年前に学校でなくなるまで、一度も授業の無かった小学校だった。校舎に入ると強い朝顔の匂いがした。
ホールから斜めに伸びる、鉄の廊下の先には痩せた男が立っていた。学生証を見せると男は番号を記録してどうぞといった。扉の無い入り口をくぐるとそこはニゴーの檻だった。
檻は三つで、ニゴーも三頭だった。どれも大きな耳をしていた。独特のカレーの匂いがした。
持ち主のクシチカが椅子から立ち上がった。
チャコは帽子を外した。帽子から雪がぱらりと落ちた。
窓の前の棚の中には、電動ソーが置いてあった。ニゴー用だとチャコは思った。咄嗟に右手は帽子を落として、ズボンのポケットから布切れを取り出していた。取り出した布切れをチャコはクシチカに掴ませた。クシチカはチャコの手ごと布を掴んだ。チャコは手を抜き、帽子を拾って一歩下がった。
クシチカは布切れを広げて、中の紙幣を取り出した。紙幣は全部で六枚あった。真ん中の折り目でほつれた一枚をクシチカは掴むと、そのまま二枚にちぎった。これで七枚、とクシチカは笑った。破ける時びっと、穴の裂けるような音がした。クシチカは金をしまうと、代わりにカードキーを取り出した。
三頭のニゴーは、檻から出されて自由になった。
これが小さな幸せ、と去り際クシチカはいった。おれは金を得てあなたはニゴーを得て、ニゴーは生涯初めて檻から出た。明日になったら、どれも残っていないだろうけれど、今日はみんな少しずつ幸せだった、ともいった。
空になった檻だけは明日も残っているだろうなとチャコは思った。二日後も、一週間後でも、あるいは空のままでいられるかもしれない、とも思った。
雪はやんでいないのに、午後の日が差していた。
小学校を出ると、チャコは帽子を被り直して、行きの自分の足跡を、静かに辿って戻っていった。
三頭のニゴーもチャコの影を辿った。途中何度か立ち止まっては、とんぼの死骸を咥えて齧った。チャコが促すと顔を上げて、とんぼを踏み散らし側へと添った。しょこりと音がした。
部屋に戻るとチャコの教師が火を炊いていた。チャコと三頭のニゴーを見ると、何もいわずに視線を落として、枯れた花を火にくべる作業に戻った。
チャコも何もいえずにニゴーを自分の部屋に上げた。
いつものことだった。
チャコは鍵を掛けるとそのまま木戸にもたれて、滑るようにゆっくりと床に落ちた。三頭のニゴーは狭い浴室で身動きも苦労するようだった。ニゴーのまだ白い尻が三つ、チャコの鼻先で軽く揺れていた。それを見ながら、チャコは帽子も外さなかった。
自分がなかなか泣けないので、チャコはいつまでもそうしていた。泣いてから作業を始めることに決めていた。後で泣くとやめる潮時が判らないからだ。だがそうすると今度は泣いたら最後と思えて、どうも凡てが難しかった。
ニゴーの一頭が二頭を押し退けチャコの方へと振り返った。ニゴーの青い二つの目がチャコの鼻を覗き込んだ。ようやくチャコは鼻が痛く熱くなってきた。目玉が腫れて飛び出しそうだった。
気付くともう夕暮れだった。
泣き終えたチャコは風呂桶に浸けておいた鋸を掴むと、自分を見上げるニゴーの首に歯を当て、ゆっくりゆっくりそれを落とした。一頭が済むと後の二頭も順番に屠った。凡て終わった頃にも、三つの顔と三つの体は、どれももぞもぞ動いていたが、部屋が夜空に沈む頃には、ようやく静かに眠りに就いた。
チャコは浴槽の湯を抜き、洗わずに新しい湯をそこに張ると、真っ赤な服ごと肩まで浸かった。濡らさぬように帽子は被ったままだった。溢れたお湯に運ばれて、ニゴーの首が三つとも少し浮いた。
風呂桶の中から左腕を伸ばして、チャコは壁のスイッチを探した。
見つけたそれを、かちりと押すと、チャコの部屋は眩しく広がった。
そして、幾数十羽はいるであろう、夜空のように黒い大きな蝉たちが、天井一面に重なり合って、何百の星のような小さな目で、黙って自分たちを見下ろしていたことに、その時ようやくチャコは気付いた。
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