動けない

「動けない?」

「そういうんです」雄太郎君のお母さんが不安げに頷いた。椅子の上の雄太郎君は背中をお母さんに支えられていて、ぼんやりした目で前方やや下を見ていた。「最初は遊んでるのかと思ったんですけど、一日経ってもやめないもので」

「今まではこういうことは?」

「いえ全く。何だか判らなくって」訴えるようお母さんはいった。「強張る感じが最初はしてたんですけど、私が抱き起こすと今度はぐったりしてしまって。話は普通に出来て私にも主人にも色々いうんですけど、とにかく自分じゃ動けないと。嘘にしてはと思って、私も主人もすっかり困ってしまって。こちらを知るまで一日かかりまして、昨日は休診日でしたし」

「もう四日も動けない?」

「何か病気になるんでしょうか」

 軽く触診してみたがおよそ健康に見えた。体の不調から来る倦怠感というわけでもなさそうだった。「会話はいつも通りに?」

「ええ」息子を支えながらお母さんは片手でコートを持ち直した。「話は出来るんです」

「こんにちは雄太郎君」私は雄太郎君に話しかけた。「先生の声聞こえる?」

「うん」返事があり、一呼吸おいて視線も合った。体はぐったりしていたが反射はあり、何か麻痺でもないようだった。お母さんのいう通りただ動けないということらしかった。

「先生の手を握れる。力一杯握ってみて」

「動けないんだ」

「力が入らないのかな。それとも誰かに押さえつけられてる感じ?」

「判んない」「いいよありがとう。来る時はどうしたんですか?」

「ねこに載せてきました」

「帰りは車椅子を貸しましょう。転んだり頭を打ったりしませんでしたか?」

「来る時ですか?」

「四日前に」「知る限りではないと思います」

「雄太郎君。四日くらい前どこか痛くしなかった? 動けないの何でか自分で判る?」

 雄太郎君は私を見ていった。

「僕は元々動けないの」

「元々?」

 私は笑顔で聞き返した。「ずっと今みたいだったってこと?」

「ううん」

「先生に教えてくれる?」

「生まれた時からなの。体自分で動かせないの。今までずっと僕の代わりに黒いおじさんが動かしてたから」

「黒いおじさん?」私は聞き返しお母さんの方を見たが、お母さんも狐につままれた顔だった。「そのおじさんが雄太郎君を動かすの?」

「うん」

「操り人形みたいに?」訊いたが雄太郎君は操り人形を知らなかった。「雄太郎君が走ろうって思ったらどうなるの」

「黒いおじさんが動かすんだ、右手左手、右足左足って」

「雄太郎君が泣いたり笑ったりする時は黒いおじさんが悲しんでるの?」

「判らない。悲しいと、おじさんが泣くよう動かすの。僕を」

「そうなんだ。おじさんはどこにいるの」

「判んない。体の中。白い狭い部屋みたいな所に、黒いおじさんがいるの」

「今もおじさんはいる?」

「いなくなっちゃった」雄太郎君はいった。「だからもう動けない」

「どうしていなくなったの?」

「喧嘩して、出てけっていったらいなくなっちゃった」

「黒いおじさんは怖い?」

「判んない。したくないこと時々するから嫌」

「いなくなったのは四日前?」「判んない」

「どういうことなんでしょう」

 息子が写真を撮りに行っている間お母さんが訊ねてきた。私は顎髭を触って考えた。

「例えば自分のした悪いことを、違う何かのせいと思ってるのかも知れませんね。悪いのは自分じゃない、黒いおじさんにさせられたんだと。自分は今まで何もしてない、だって本当は動けないからと。四日前に、何かありませんでしたか、何か、強く後悔するような」

「そういえばクラスの」お母さんが言葉を探した。「今年から飼育係をしてるんです、兎と鶏がいて。高学年の子たちと一緒に世話をしているそうなんですが。同じ三年二組の片手間雌子ちゃんという子がいるんですが、この子が右目を怪我してしまって。息子が鶏を持ってその子の顔に近づけたんです。鶏が目を深く突いて、大騒ぎになったとかで」

「それが四日前?」「確か四日か五日か前です、私も主人も先方に謝りに」

「それが原因かも知れないですね、深く後悔してるのでしょう、体が竦んで動けぬほどに。取れない責任を受け止めかねてしまったんでしょう、自分が鶏を持っていたように、誰かが自分をそうさせたのだと、やってしまったことも今動けないのも、そういう誰かが原因と考えたのでしょう」「なるほど」神妙にお母さんは頷いて見せた。

 助手に連れられ撮影から帰ってきた雄太郎君は帰らぬ過去に今も動きかねているようだった。椅子にはお母さんが座らせていたが、彼だって大きくならざるを得ないのだった。

「黒いおじさんはまだ帰らない?」私は訊いた。「どこに行ったのかな」

「ふわっと飛んでた、赤ちゃんを探してるんだ。中に入って動かすために」

「おじさんは子供を動かすの?」

「大人もそうだと思う。生まれた時からみんなおじさんに動かされてるんだと思う」

「みんな悪さする?」「判んない。すると思うけど、おじさんにも性格があると思う」

「雄太郎君はこのままずっと動かない?」

「おじさんはしちゃいけないことをするんだ。いうこと聞いてくれることあるけど、したくないことしたりするんだ。僕もだし、みんな傷つける」

「ねえ雄太郎君」私は雄太郎君の動かない手を握った。ちゃんと温かかった。「その黒いおじさんを責めちゃいけないよ。君を動かすのは君自身と君のいうことをきかないその黒いおじさんだけなんだ。先生はそう思うよ。他の誰かは君を動かせないんだ。君も友達を動かせないだろ。誰も人のためには動けない。本当だよ、誰かのためにはどの先生も動けないんだ。

 君が君じゃない誰かのことだけ本当に考える昨日や今日全く身動きが取れなくなってしまったように、他の人にしたってそれはやはりどうしても出来ないことなんだ。自分のためしかいつでも動けないし、何かを思わず傷つけるんだ。生きてればみんなそうなんだよ。

 黒いおじさんと喧嘩してもいいけれど、追い出してしまってはいけないと思う。いなくなったならもう一度呼び戻すべきだ。誰も傷つかない練習を今度はしよう。黒いおじさんが君を動かしているように、君も少しずつおじさんに働きかけるんだ」

「判んない」雄太郎君はおどおどとした。「でも、やってみる」

「いい子だね」約束だよといって私は小指を出した。「先生も手伝うから」

 雄太郎君はゆっくり手を伸ばし、小指を結んで指切りをした。その日はそれが限界だったが、いつでもいいよと電話番号を渡し、次会う約束をしてから別れた。

 二週間後来院した雄太郎君は自分の手でドアを開け歩いて部屋の中へ入ってきた。もとより時間が解決すると思われたが、実際にとても順調であるようだった。

「おじさんは今も中の方にいる?」

 判んないと雄太郎君はいった。「今いるの別のおじさんなんだ」

「別のおじさん?」「前のおじさんは出てって戻らないんだ。今は白いおじさんがいる」「そっか。白いおじさんは優しい?」「判んない。あまり話さないから」

「結局なんだったんでしょう」雄太郎君とお母さんを見送った後店終いしつつ助手が訊いてきた。「動けないのは治ったようですが」

「確かなことが一つ、今は小学生も携帯持ってる」貰ったアドレスを私は手打ちで登録した。「子もいる。彼のが得意そうだもんな」

「掛かってきますか」

「来たっていいじゃない」

 電話が掛かってきたのは二日後の深夜だった。番号は雄太郎君のお母さんだった。

「助けてくれっ」声は別人だった。

「もしもし」時計を見ると零時半だった。「どちらの」

「妻の電話だっ」割れた声で男が叫んだ。「妻が殺されたっ」

「何ですか」

「首が千切れてるんだっ血がすごい出てるっ、肉も出てる! のにまだ動いてる!」

「もしもし」

「私は動けない足がどっかに、先生あの子はどうしたんですか!」電話が切れた。私が慌ててかけ直そうとすると雄太郎君から着信があった。「もしもし雄太郎君!」

「先生助けて!」マイク至近雄太郎君の悲鳴が響いた。「お母さんが死んだ!」

「何あったの!」

「白いおじさんが勝手に動くんだお母さん叩いてお父さん刺した手が勝手に! 足が勝手に動く! 白いおじさんが動かすんだ! 右手左手右足左ずっと笑ってる! 先生助けて!」

「雄太郎君!」私はネグリジェで外へ飛び出した。「今どこにいるっ」

「踏切だよ!」涙混じりの声で雄太郎君は笑っていた。「白いおじさんがここまで連れて来たんだ! これが好きなんだおじさんは! しちゃ駄目だっていったのに!」

「電車はまだあるか!」

「知らない!」踏切の真ん中だよおと雄太郎君は泣き叫んだ。「あ! 音がする! 光ってる! 電車が来たよ! 逃げれない!」

「逃げるんだ」

「動けない! 動けない! 動けない! 動けない!」

 電話はその後すぐ切れた。私は暫く動けなかった。

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