第15話 カンボジア(リンとの思い出)

 アンコール遺跡群。


 シェンムリアップ周辺に存在する数多くの遺跡を総称してこう呼ぶ。実際に行ったことのある方は知っていると思うが、実はここにはとんでもない数の遺跡が点在している。建立された時期も9世紀から13世紀にかけてと幅広く、アンコールワットというのはその中の代表的な遺跡の一つに過ぎないのだ。ちなみに全てをくまなく見て回ろうと思ったら、丸一週間はかかると言われている。


 これらの遺跡は19世紀にフランス人の学者に発見されるまで、ジャングルの奥深く、密林の中にその姿をひっそりと隠し続けてきた。発見された当時はそれはそれは大騒ぎだったらしい。そりゃそうだろう、これだけの規模の遺跡群、きっとジョーンズ博士もびっくりの大発見だったに違いない。


 アンコールワット、バイヨン、プノンバケン、タプローム。


 僕は代表的な遺跡は一通り見て回ったのだが、一押しはタプローム。巨木に侵食されるように半壊した遺跡で、はるか昔に忘れ去られた古代文明の跡、といった趣がある。ひとたび散策すれば、自分自身がまるで冒険家になったような気分が味わえること請け合いだ。実際、タプロームはアンジェリーナ・〇ョリー主演のトゥー〇レイダーという映画の舞台にもなっている。タプロームが気になる方はここで一旦読み進めるのをやめて、是非ネットで検索してみて欲しい。きっと5秒で画像が出てくるはずだ。


 さて、前置きが長くなってしまったが、今回僕が書きたいのは遺跡についてではない。バイクタクシーのドライバーであるリンとの思い出だ。


 リンは二十歳を少し過ぎたばかりの青年で、当時の僕より一つ二つ上。彼は英語と片言の日本語を喋った。なぜ彼が外国語を習得していたかというと、日本人ボランティアが建てた学校に通っていたからだ。リンとの出会いをきっかけに、僕は様々な人たちと出会うことになるのだが、このあたりの話はまた別の機会とさせて頂くことにする。


 バイクタクシーはカンボジアではメジャーな移動手段。僕がリンと出会ったのも偶然で、たまたまタクシーがわりに拾ったバイクを運転していたのがリンだったという訳だ。彼は僕がシェンムリアップに長期滞在して遺跡巡りをするつもりであることを知ると、一週間の専属ドライバーを申し出た。提示された料金は悪くなかったし、実直そうな人柄だったので試しに契約してみることにしたのだ。


 専属ドライバー初日の朝、リンは約束の時間ぴったりにゲストハウスへと僕を迎えに来てくれた。僕が遺跡を巡っている間は、待ち合わせの場所と時間をあらかじめ決めておく。すると、5分前には必ず指定の場所で僕を待っていてくれるのだ。「喉は乾いてないか? トイレは大丈夫か?」などと、事あるごとに僕を気遣ってくれる本当に優しい青年だった。帰りがけにチップを渡そうとすると「約束した以上のお金は受け取れないよ」と言って受け取りを断る。正直僕は感動していた。一人旅をする中でこんなタクシードライバーに会ったのは初めての経験だったのだ。「それならせめて夕食でもご馳走させてくれないか?」という申し出に対しても、「ありがとう。でも弟たちが家で待ってるんだ、今日は帰らないと」と断られてしまった。「ならせめて明日のお昼でも」と食い下がると、リンはにっこり笑って「それなら喜んで。楽しみにしてるよ。じゃあまた明日」と言ってバイクにまたがり走り去っていった。


 僕がリンと友達になるまでに時間はかからなかった。庶民的なカンボジアの食堂に連れて行ってもらったり、牛の脳みそが入った鍋も一緒に食べた。遺跡以外にも地雷博物館や動物園といったディープなスポットもたくさん案内してもらった。日本人の仲間内での、地元の名産品であるドリアンを食べるパーティーにも参加してもらい、臭い臭いといいながらみんなで笑って食べた。


 リンは僕にとって兄貴みたいな存在になっていった。


 ある時こんなことがあった。


 リンの背中につかまってバイクで移動している時のこと。短パンをはいていた僕は、ついうっかり右のふくらはぎを熱されたマフラー(排気管)に触れさせてしまった。


「熱っ!」


 異変に気付いたリンがすぐにバイクを止める。


「ミト、どうした?」


 見ると結構ひどい火傷で、患部が赤く腫れあがっている。


「ひどいな。でも大丈夫だ、俺がすぐに薬を持ってきてやるから待ってろ」


 そう言ってリンは近くの民家へと走っていった。


 戻ってきたとき、彼の手には歯磨き粉のチューブが握られていた。


「火傷にはこれだ」


 僕の頭の中にはクエスチョンマークが浮かんでいたが、あまりにも真剣な眼差しで患部に歯磨き粉を塗りたくるので、黙っておいた。


「どうだ? スースーするだろ? 良くなってきたんじゃないか?」


 確かにスースーはした。言われてみればヒリヒリも少し収まってきたような……。


 こんなちょっとしたハプニングはあったものの、僕とリンは一日中一緒に過ごすような関係になった。リンにはなんでも話せたし、なによりお互い一緒にいて楽しかった。


 それでも別れの日はやってくる。


 僕がシェンムリアップを去る前の晩、僕たちは二人で夕食を共にしていた。ひとりしきり食事を楽しんだあと、リンはこう切り出した。


「なあ、ミト。お前は本当にいい奴だよ。俺はバイクタクシーのドライバーとして色んな客を乗せてきた。日本人だってたくさんいた。それでもこんなに仲良くなったのはミトが初めてだ。それで……こんな話は誰にもしたことがないんだが、お前には聞いてもらいたいんだ」


 神妙な面持ちでリンが続ける。


「俺はな、ミトがうらやましい。日本の大学生なんだろ? これからどんな仕事にだってつける。俺はきっと死ぬまでバイクタクシーのドライバーだ。学校で勉強はしたけど、きっとこの街から出ることもない。俺の前の道は一本だけなんだ。でも、ミトの前にはたくさんの道がある。違うか?」


 僕は何も言い返せなかった。


「ミトはこれから色んな国を旅して世界を見るって言ってたよな? だったら約束してくれ。俺の分も見てきてくれ。俺だって色んな国へ行ってみたい、でもできないんだ。だから俺の分はお前に託すよ。ミトはいい奴だから。最後に俺からのお願いだ」


 僕はリンと連絡先を交換して別れた。


 リンとはしばらくの間メールのやり取りが続いていた。彼はいつだって僕の旅の話を喜んで聞いてくれたし、どんなことがあったのか知りたがった。それでもある時を境に連絡が取れなくなってしまった。


 僕の右ふくらはぎにはまだうっすらと火傷の痕が残っている。これを見るたびに僕は今でもリンのことを思い出す。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 書き終えてから調べてみたのですが、火傷には歯磨き粉が効くそうです。あの時のリンは適切な処置をしてくれていたんだなあ。

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