第13話 カンボジア(殺されそうになった話)

 僕はカンボジアのポイペトという街で斧を持った男に追われていた。


 街中の路地を右へ左へと逃げ回るのだが、男はジェイソンのように一定の距離を保ってどこまでも追いかけてくる。


 季節は夏。


 暑いはずなのに、冷や汗が止まらない。背中に背負った大きなバックパックが邪魔で、幾度となく放り出そうと思った。その場にへたり込みそうになる気持ちに鞭を打ち、ぎこちない姿勢で必死に走り続ける。


 頼むからもう追いかけて来ないでくれ、こっちに来ないでくれ!


 これは僕がこれまでに経験した死ぬかと思ったエピソードでもベスト3に入るお話。


 ポイペトはタイと国境を接している街で、治安は良くないとされている。このとき、僕はタイから陸路で国境を越えて徒歩でカンボジアへと入国していた。行く先はアンコールワット遺跡で有名なシェンムリアップだ。


 タイからシェンムリアップに行くには飛行機を使う、またはバンコク発のツアーに参加するのが一般的と言われている。当時まだ10代だった僕は、あえてチャレンジングなルートを選んでの一人旅を好んでいた。今ではこんなことは絶対にしないのだが、若かりし頃の僕は怖いもの知らず、というか簡単に言うと馬鹿だったのだ。


 ポイペトからシェンムリアップまでは4時間くらい未舗装の山道を走る。当時この道はゲリラ出没エリアとしても有名で、何人もの外国人が行方不明になっているといういわくつきのルートだった。そんな危険な旅路を僕はヒッチハイクでもしながら行ってやろうと気楽に考えていた。


 国境審査でカンボジア側の職員に賄賂を要求されたりと、ひと悶着はあったものの、なんとかイミグレーションを通過した僕は無事カンボジアへの初入国を果たす。


 国境を抜けてすぐのこと、そこには驚きの光景が待ち受けていた。


 薄汚れた格好をした物乞いたち。皆一様に片脚がない。中には両脚とも失っている人もいて、そんな彼らがお恵みを求めては地を這うように近づいて来るのだ。


 カンボジアは地獄のような内戦が長きにわたって続いたという不幸な歴史を持った国である。地雷で足を吹き飛ばされた人たちが数多くいるとは聞いていた。しかし、実際にそれを目の当たりにした時の衝撃たるや凄まじいものがあった。


 話を戻そう。


 ポイペトの街は一見して治安が悪そうだった。聞いていた以上に殺伐としていて、僕の直感が長居は無用と告げている。外国人観光客など一人も見かけなかったし、明らかに僕の存在は浮いていた。何度かヒッチハイクを試みたが全くの無駄だった。まず第一に言葉が通じない。英語が通じないのは当然のこととして、カンボジアの公用語はクメール語である。これがさっぱり理解できない。加えて、文字の読み書きができない人が多いのでアルファベットで筆談を試みても意味がないのだ。


 ふと路肩を見ると、数台のピックアップトラックが停まっていて、荷台にはたくさんのカンボジア人が肩を並べて座っていた。

  

 ああ、これが話に聞いていたカンボジアのピックアップトラックか。


 現地人が利用する低価格の乗り合いバスみたいなものと聞いていた。早速ドライバーと交渉を試みる。幸いにも彼はカタコトの英語を喋ったので、シェンムリアップまでの条件で格安で合意に至ることができた。料金を支払い、荷台に乗り込み出発を待つ。


 ところが、待てど暮らせどトラックが発車しない。明らかに定員オーバーの荷台にぎゅうぎゅう詰めにされたまま何十分も待たされた。


 その時、遠くからガラの悪そうな男が僕の乗るトラックへ近づいて来た。


 男は英語を喋った。


「これは俺のトラックだ。乗るなら金を払え」


 法外な料金を請求してくる男。


 明らかに嘘だと思ったが、念のためドライバーに確認を取る。こんな奴は知らないとの返答。コイツに金を払う必要など一切ないわけだ。当然のごとく要求を突っぱねる。だが男はしつこく食い下がる。


「お前が金を払うまでこのトラックは出発しない」


 事実、この押し問答は30分以上続いた。途中から荷台に同席している現地人たちがざわつき始める。これは推測だが、恐らく出発予定時間が過ぎていたのであろう。そんな状況の中、僕の隣に座っていた二十歳くらいの青年が男に文句を言った。クメール語なので内容は定かではないが、「どっか行け」というニュアンスのようなことではなかったか。


 次の瞬間。


 男は青年を荷台から引きずり下ろすと、ボコボコに殴り始めた。うずくまる青年に罵声を浴びせかけながら、なおも蹴りを見舞い続ける。


 さすがにまずいと思った僕は荷台を降りて仲裁に入ろうとした。格闘技をやっていたし、殴り合いになっても負けないという自信もあった。

 

 男は荷台から降りた僕に一瞥をくれると、自らの背後、腰のあたりに手をまわした。そして一歩ずつ僕へ向かって近づきながら、腰のベルトに隠し持っていたものを取り出した。


 男が手にしていたもの。それは……手斧だった。


「金を払わなければ殺す」


 男の目は血走っていて、とても冗談を言っているようには見えなかった。


 僕は後ずさりしながら、荷台に積んであったバックパックを手に取り、そして走って逃げた。


 バックパックのせいで思うように走れない。それでも力を振り絞って全力で走った。何度も何度も後ろを振り返る。が、男は一定の距離を保ってどこまでもついて来た。街中に警官の姿を探したが、それらしき人物は見当たらない。


 どのくらい走ったのか。5分、いや実際は3分くらいだったのかもしれない。僕にとっては永遠とも思える長さだったが、さすがに疲れてペースが落ちてくる。蛇のようにしつこい男は、相変わらず僕を遠巻きに眺めるほどの距離を保って早足でついて来る。だが、相手も疲れているに違いない。


 だんだんと僕の頭も冷静になってきた。レストランに逃げ込むか、いやホテルの方がいいか。しかし、逃げ場のない場所で男と再び顔を合わせることは避けたい。でも、このまま追いつかれたらどうしよう。最悪はバックパックを下ろして戦うしかないのか。


 そんことを考えながら角を曲がった時だった。前方に今にも発車しそうなピックアップトラックが目に入った。


 これだ!


 僕は全速力でドライバーの元へ駆け寄り、相場の何倍もの金を握らせた。そして、シェンムリアップまですぐに出発してくれと念押しし、すし詰め状態の荷台に飛び乗った。


「ゴー! ゴー!」


 ドライバーに向かって叫ぶ。まわりの人たちは不思議そうな顔で僕を見つめていたが、そんなことを気にしている場合ではない。僕の気持ちが通じたのか、それとも多額のチップが効いたのか、幸いにもトラックはすぐに出発した。


 なんとか逃げ切れた……。


 見ると、遠くで男がこちらを見つめている。その顔は無表情だった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 こうしてなんとか危機を乗り越えた僕ですが、今思い返してみても、死んでもおかしくない出来事だったと思います。


 だけど、この話はこれで終わりじゃないんです。


 次回、カンボジア編の第二話「死んだと思った話」に続きます。

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