第5話 インド(思い出の食べ物②)

 まず最初にインドの長距離列車について説明を。思い出に残る食べ物の二つ目は列車の中で口にしたものなのです。


 インドでは列車の座席・等級がかなり細かく分かれており、たしか一等から八等くらいまであったと記憶しています。チケットの値段の差は二十倍近くにもなり、等級(車両)によって乗客のランクがはっきりと区別されます。悪い言い方をすれば、貧困層が差別されているってことです。よく言われるのは、外国人が快適に旅をするには二等か三等が良いということ。このクラスはインド人の中でも中流階級以上が利用するので、インドの雰囲気を味わいつつ安全に移動ができるとされています。旅行者であえて下の等級に乗車するチャレンジャーもいますが、大抵は後悔するようです。蒸し風呂状態のなかをすし詰めにされて荷物を盗まれたなんて話も聞きます。特に女性は絶対に乗らない方がいいでしょう。


 では本編へ進みます。


 僕はヒンズー教の聖地とされるバラナシという街へ向かうため、長距離列車の二等級の席に乗車していました。二十時間超の長旅です。最初はひたすら寝ていたのですが、二十時間ともなると寝続けるのは無理。外の連結部分でタバコを吸ったり、チャイ売りのおじさんからチャイを買って飲んだりと気を紛らわせていました。ご存知だとは思いますが、チャイとはインド版ミルクティー。シナモンなんかのスパイスが入っていて結構美味いです。一杯十円とかそんな値段です。列車で購入するチャイはなぜか小さな土器のコップに入っていました。最初はなんで土器に入っているのか不思議だったのですが、あとから納得。インド人、飲んだあとのコップを外に投げ捨てます。パリンと小気味良い音を立てて割れるコップ。土に返るし別にいいや。そういうことなのかもしれません。インド人がそこまで環境に気をつかうか疑問なので、違うかもしれませんが。


 さて、到着まではまだまだ時間があります。お腹もすいてきました。途中、駅に停車するたびに物売りの人々がお弁当のようなものを持って車内へと押し寄せてくるのですが、あまり美味しそうには見えず購入を見送っていました。まあ、チャイも飲めるし一日くらいなにも食べなくても大丈夫だろうということで、早々に食事はあきらめていました。そんなことより問題だったのは暇を持て余していたこと。特にやることもない僕は代り映えのしない景色をぼーっと車窓から眺めていました。


 そんな時、小学校低学年くらいの男の子が近くにやってきました。その子はなにをするでもなく、じいっと僕の顔を見つめてきます。それこそ穴があくほどにひたすら見つめてくるのです。外国人が珍しいのでしょうか。そしていなくなったと思ったらまたやってきては顔を見つめます。僕はバッグからノートとペンを取り出して、その子に向かって手招きしてみました。恐る恐るといった様子で近づいてくる男の子。ノートのページをちぎり、アルファベットと漢字で名前を書いて「マイネーム」といって渡してみました。恥ずかしそうにしながらもにっこりと笑って受け取ります。子供だけは世界中どこにいっても同じです。暇だったのでその子に日本語を教えたり、折り紙を折ってプレゼントしてみました。こういう時の折り紙は鉄板。海外では受けること間違いなし。鶴の一つでも折ってみせると、魔法を目にしたかのような反応を返してくれます。そうやって男の子と遊ぶことしばし。サリーを身にまとった女性が姿を現しました。お母さんの登場です。


 僕はこの時はじめてインドの女性と会話しました。インドは男尊女卑の激しい国なので、女性は外で見知らぬ男性と言葉を交わすことなどめったにないそうです。アメリカでもインド人夫婦をよく目にしますが、夫が荷物を持つ姿など目にしたことがありません。そんな文化の中で生活しているであろうお母さんは「これからご飯を食べるから、よかったらあなたもどう?」と食事に誘ってくれたのです。もちろん僕の答えはイエス。


 案内されるがままにあとをついていくと、パリッとしたシャツを着こなした紳士然たるお父さんと、男の子より二つ三つ年上であろうお姉ちゃんがいます。一目僕を見るなり、こいつは一体誰なんだと戸惑いの表情を浮かべるお姉ちゃん。僕はお父さんに食事に招いて頂いた御礼を伝え、遠慮なく同席させてもらいました。


「……どこから来たんですか?」


 と、お父さん。


「日本から来ました。旅をしていましてバラナシへ向かう途中なんです」


「……そうですか」


 しばしの沈黙。


「日本に来られたことはありませんか?」


「……ないですね」


 お父さんめっちゃ無口。インドのお父さんはこんな感じなんでしょうか。それとも僕が招かざる客だったのか。インドでは身分(カースト)が違う者は同じテーブルで食事を取らないという話を聞いたことがあります。もしかして、僕の聞き間違いで最初から食事になど誘われてなかったのでは……。このあと変な日本人を連れて来てしまったお母さんはあとからお父さんに滅茶苦茶に怒られるんじゃないだろうか……。正直かなりドキドキしていました。


 ぽつりぽつりとお父さんと会話を続ける間にてきぱきと食事の準備を進めるお母さん。バッグから小分けにされた料理を取り出し、大きなお皿に盛りつけます。玉ねぎのアチャール(ピクルス)、豆料理、野菜(多分ほうれん草)のカレー、それに薄べったいパンみたいなチャパティーを盛り付けて完成。そして各自に取り皿が手渡されました。


 さあ食事のスタートです。当然ですが、みんな右手を使って手づかみで料理を取ります。チャパティーはカレーにつけて。ぎこちない手つきで僕も参戦。間違っても左手は使わないように気をつけます。


 ああ……お母さん。このカレーめっちゃうまいです! ほどよいコクと旨味、香ばしい香り。そして、絶妙な辛さがあとをひきます。でも辛いという感じじゃないんですよね。香り高いというのか。きっとスパイスの調合がポイントなんでしょう。うまいうまいと調子にのってパクつく僕。


 しかし。しかしです。それにしても、誰も一言もしゃべらない。沈黙の食卓。明らかに気まずい雰囲気が場を支配しています。百歩譲ってお姉ちゃんはいいです。だけど弟よ。さっきまであんなに仲良くしてたじゃないか! 頼むから……頼むから何かしゃべってくれ! そんな願いも虚しく、弟は僕とは目も合わせずもくもくと食べ続けています。お父さんの様子をちらり。目が死んでいました。お母さんの方もちらり。こちらの目も死んでいました。疑いは確信へ。なんてことだ。恐らく俺は食事になど招待されてない。あの時、お母さんは息子を食事に呼びに来ただけだったんだ……。 


 後悔してもはじまりません。僕はすでに食事どころの騒ぎではなく、どうやってこの悲劇を打開するかだけを必死に考えていました。このままではお母さんは後で滅茶苦茶に怒られてしまうかもしれない。それだけはなんとしても避けたい。お母さんに話かけるのは愚策と言えました。インド人の気質的にお父さんは赤の他人である僕が妻となれなれしく話すのを良しとしないでしょう。やはり話すべき相手はお父さんです。


「あ、あの、お父さん。僕、こんな美味しいカレーは初めて食べました」


「……そうですか」


「本当です! インドに来てたくさんカレーを食べましたが、奥さんのカレーが一番美味しい。こんな美味しい料理を食べれるなんて、お父さんは幸せ者ですね!」

 

 ふっ……とお父さんの口元がほころんだのを見逃しませんでした。


 いける!


「インドに来てからずっと一人で旅を続けてきました。一人ぼっちで寂しかったんですよ。まさかこんなに美味しいカレーをご馳走になれるなんて思っていませんでした。親切にして頂いて、本当にありがとうございます!」


「ハハハ、そうですか。ならたくさん召し上がってください。おかわりはいくらでもある」


 ついにお父さんが笑顔を見せてくれました。良かった……ほっと胸を撫でおろします。それからは会話も弾み、楽しい時間が過ぎていきます。ひとしきり食べ終わると、お父さんがカメラを取り出しました。記念に一緒に写真を撮りましょうということになり、思い出の一枚をパチリ。せっかくなので僕のカメラでも一枚。あらためてご馳走になった御礼をのべて、僕は席へと戻ったのです。


 いやあ、一時はどうなるかと思ったけど良かった良かった。お腹も膨れたし、貴重な経験をさせてもらうことができました。そして、おもむろに先ほどみんなで取った写真をチェックします。にっこり笑顔のお父さんと息子。お姉ちゃんは恥ずかしそうに笑っています。そんななかお母さんだけが無表情。その目は死んだ魚のようです。ごめんなさい、お母さん。あとでお父さんに怒られていなければいいのですが。




 次回はちょっと趣向を変えて、海外で死にかけたエピソードをまとめてみたいと思います。それでは!

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