ep21/36「戦闘教義」

 駅から歩いて五分ほどの寂れた居酒屋。終電を待つばかりの客が居座る店内に、まだ二十代も半ばの水鏡みかがみ幻也ゲンヤは居た。

 紫煙で濁った店内には、相変わらず無粋な怒声が響いている。

 これではろくに話も出来ない。店内で怒鳴る酔っ払いに思わぬ眉根を寄せながらも、幻也ゲンヤは黙って聞き返す他になかった。


「犬山、お前今なんて言った? よく聞こえなかったが」

「あの怒鳴っている奴はただの酔っ払いだと思うか」

「あんなのはよくいる、気にするな」


 カウンター席の傍らには、堅苦しくネクタイを締めたままの犬山が座っている。警察学校の呪術教練過程を終えたとある週末、二人で飲んでいる時であってもその服装は崩れない。

 眼鏡の奥の瞳は、しつこく奇声を上げる男を睨んでいる。

 つられて幻也ゲンヤも視線を振り向けてみれば、口角泡を飛ばし、開きかけた瞳孔を宙に向ける男の奇行が飛び込んで来る。

 確かに言われてみれば、と思わなくもなかった。


 ――――シャブかMDMAか、そんなところか。


 証拠はない。が、店主が通報すれば済む話だった。

 それだけの話だ。奇行を繰り返す男など珍しくも無い。

 互いにまだ二十歳そこそこの若造、二人はまだ舌に馴染んでもいない日本酒を呷る。犬山は何でもなさそうな顔をしながら、かたりとコップをテーブルに置いていた。


「奴がこれから暴れ出して、傷害事件を起こす可能性はどれくらいあると思う」

「……その時は取り押さえればいいさ。警察は何かが起こってからでないと動けない、そうだろ」


 幻也ゲンヤは注意を怠らぬまま、再びグラスを傾ける。暴れるようならすぐにでも取り押さえるつもりだった。

 その横に座る犬山は、不器用な手付きで黙々と紙ナプキンを千切り始めていた。一体何を始めたのかと見守っている内に、犬山は歪に千切った紙切れを掲げてみせる。


「ほら見ろ、人形札だ」

「人型? 冗談だろ」


 歪な形に千切られた紙切れは、辛うじて人型に見えなくもない。

 犬山は手に取った札に息を吹きかけると、札をふわりと飛ばしていた。煙草ともつ煮の匂いが充満する午後十一時台の居酒屋に、出来上がったばかりの紙ナプキン製人形札が舞う。

 すっ、と犬山の指が空を切る。

 すると人形札は導かれるようにして男の背に張り付き、残ったもう一枚は犬山の手中でにわかに浮き上がっていた。


「人形札を使った類感呪術、覚えているよな」

「おい、何をする気だ」


 さすがにこれはマズい。そう断じた幻也ゲンヤが止める間もなく、犬山はふわふわと掌の上を漂う人形札に触れていた。

 いびつに千切られた足が、折り曲げられる。

 すると背後からは派手な転倒音が聞こえてきて、店内を満たしていたはずの怒号は止んでいた。気絶させただけだ、と言いつつ犬山は再びコップを手に取る。

 結露した滴が、ぽたりと空いた皿に弾けた。


「犬山……!」

水鏡みかがみ。見ろよ、奴の首筋を」

「首筋?」


 幻也ゲンヤは寄りつつ、倒れた男の首筋に目を凝らす。

 すると、無造作に伸ばされた髪の奥に一枚の札が見えた。首筋に張られた札にはカラフルな筆文字がプリントされ、じわじわと蒼白い鬼火を放っている。

 いずれ灰も残さずに燃え尽きるであろうそれは、ペーパー・アシッドの類では無い。化学的手段では決して検出できない事で知られる、安物の呪物だった。


レメディ・・・・か」

「そいつには、極めて薄い覚醒剤の溶液がしみ込ませてあるだろう」

「検出限界濃度以下にまで薄めているのに効くタイプの覚せい剤……そうだったよな。10倍に薄めた溶液をまた10倍に、そして一万倍とか十億倍とかにまで薄めていく。限りなく水に近いのに、その溶液は何故だか効く」

「ホメオパシーとかいう流行りの感染呪術もどきだと聞いた。決して検出できないから捕まらない。呪術も随分と安っぽく使われるようになった」


 幻也ゲンヤは言い知れぬ想いを抱えたまま、再びカウンター席に戻っていた。勢いよく傾けたグラスからは、先ほどよりも苦い雫が流れ込んで来る。


「そうだったとしても、あの男はまだ何もしちゃいなかった。それなのにお前は奴を派手に転ばせて気絶させた……傷害ものだぞ」

「それなら教えてくれ。誰が私の行った呪術を犯罪だと規定する、誰が証明して誰が裁くんだ。呪術を挟んだだけで私はたちまち不能犯だ」


 そう返されると分かっていたから、幻也ゲンヤは答えられなかった。

 呪術は法で規定されていない。故に裁く事も出来ない。呪術の行使と結果に因果関係が認められない以上、何をしようとも不能犯としか扱いようがなかった。

 あくまで法規上は、だったが。

 それはつまり、国内に呪術犯罪など存在しないという意味でもある。


「私は奴を殺すこともできた。呪術の初歩の初歩で証拠も残さずに、だ――――水鏡みかがみ、お前はこれをどう思う」

「現行の法体制ではたとえ呪殺しても殺人罪は成立しない。それが今の俺たちが住んでいる世界で、きっとしばらくは変わらない現実だ。ひどく矛盾してる」

「私にはな、分からない」


 犬山は珍しく乱暴に酒を呷ると、うなだれるようにカウンターへ沈み込む。既に相当の酒が回っていたらしい、と幻也ゲンヤはその時になって初めて気付いた。


「呪術というやつはどうしても嫌いだ、こんな技術体系は無くなった方がいい……現代の社会基盤を支えるシステムは呪術に対して脆弱なんだ」

「犬山、だったらお前はどうしたいんだ」

「せめてこの力は人の為に使わなければならない。最低の理想論かも知れないがそれ以上のことが私たちに言えるのか?」


 いいや、と幻也ゲンヤは犬山の言葉に頷く。

 これから公安警官として、犯罪とさえ規定できない呪術犯罪・・・・と対峙する道を歩もうとしているのだ。きっと今夜のような問いは無数に繰り返す事になって、その度に答えは見つけられないだろうという確信があった。

 だからこそ、共に同じものを見据えて歩く者が要る。


「お前は道を見失うなよ」

「同じ道を進むんだろ、俺たちは」


 寂れた居酒屋の片隅で、静かに二つのグラスが打ち合わされた。



 * * *



『来るなら来い。戦友のよしみだ、歓迎してやる』


 鉄蜘蛛の群れが庁舎の方角へと退いて行く。まさしく蜘蛛の子を散らすように消え失せた敵機は、市街地へとその身を眩ましていた。

 無論、罠だ。

 幻也ゲンヤはそうと分かっていてもなお、フットペダルを蹴り込んでいた。途端に襲い来るGが身体をシートに抑えつけ、装甲一枚を隔てた外からは猛烈な風切り音が聞こえて来る。

 猛然と無人道路を駆ける〈御霊みたま〉と〈影光ようこう〉は、鉄蜘蛛たちの巣と呼ぶべき敵地に身を晒していた。白い残像と黒い影は突風を巻き起こし、疾風の如くにゴーストタウンを吹き抜ける。


「アラト、トラップの類には気を付けろ」

『分かっている』


 疾駆する〈御霊みたま〉の足下、踏み付けたアスファルトがみしりと膨れ上がる。まるで新芽が地面を押しのけるような膨らみは、地雷が作動するほんの一瞬前の光景だった。

 炸裂。次の瞬間には噴き上がった土塊が視界を埋め、周囲の建物は撒き散らされた鉄片に穿たれて行く。

 辛うじて地雷の加害範囲から抜け出した槐兵は、端が裂けた腰布を爆風になびかせていた。


 ――――対人地雷か!


 対戦車地雷でも数百kg程度の荷重が加われば起爆する。対人地雷が敷設されていたのは、それだけでも槐兵の脚を殺すには充分だったからだ。

 黒い槐兵は、地雷原を見下ろしながらふわりと電線上に飛び移る。

 いつ吹き飛ぶかも分からない路面よりはこちらの方が安全、そう断じた〈御霊みたま〉は僅かに電線をたわませて駆け始める。白い槐兵も後に続いていた。


 だが、それは無防備な足元を晒すことに他ならない。


 足元から噴き上がって来る火線が、走る〈御霊みたま〉のすぐ後を掠めて行く。僅か一秒前にいた地点は無数の弾丸に切り裂かれ、脚を止めればどうなるかを教えてくれているようだった。

 進むのを躊躇えば、死ぬ。

 眼下には、建物の影から身を乗り出す鉄蜘蛛たちの姿が見えた。


「次から次へとキリが無い!」


 こちらを付け狙うチェーンガンの砲身は、火を噴いてはすぐにまた遮蔽物の裏へと引っ込められるのだ。執拗な波状攻撃がじわりと槐兵を追い詰め、未だ二十体近い鉄蜘蛛たちは反撃さえも許そうとしない。

 更には奇怪な鳴き声が、蜘蛛たちの跋扈する街並みに響き始めていた。


『上からも来るぞ』

「分かっている」


 見上げてみれば、飛来したカラスの群れが空を覆わんとしていた。いつしか庁舎の方角からやって来たらしい群れは、やかましい鳴き声を発しながら空を黒一色に塗り潰している。

 天を見つめる〈御霊みたま〉の頭部、顔布の奥に秘められた銅鏡はじっとその中の一羽に焦点を合わせた。同様にカラスもぎょろりと目を剥き、両者の視線は交錯する。

 つまり、この世ならざる霊獣には呪操槐兵が見えているのだった。


『あの全てが八咫烏、そういう事だな』

「ああ、イチイが呼び出した余りだ」


 三本脚を畳んで飛翔する異形の鳥は、イチイが数限りなく呼び出した霊獣の内の一部に過ぎない。〈御霊みたま〉と視線が合った途端に、八咫烏の群れはまるで空から零れ落ちるように急降下を始めていた。

 足元からの連射を避けつつも、驟雨のように降って来る八咫烏に目を凝らす。その胴体に何かが括り付けられている事に気付くと、幻也ゲンヤは一気に操縦桿を押し込んでいた。


 ――――自爆させるつもりか!


 視界の端では、白い残像と化した〈影光ようこう〉が全力でその場を離れようとしている。プラスチック爆薬を括り付けられた八咫烏の群れは、大きく二手に分かれてぐんぐんと高度を下げていた。


『なるほど……生物兵器に転用するとはな』


 それは言うなれば、対呪操槐兵用・精密誘導爆弾。

 犬山の呪術によって思考を狂わされたのか、烏たちは一心不乱に槐兵を目指して羽ばたき続ける。やがて八咫烏ホーミングによる容赦ない特攻爆撃の雨が、〈御霊みたま〉の頭上にも降り注ぎ始めた。

 爆炎に押し出されるようにして〈御霊みたま〉は電線から落下、すぐさま地面を蹴り出して超低空を滑って行く。


 ――――誘導されているな。


 実際、空からのピンポイント爆撃にも、地上からのチェーンガン掃射にも、槐兵ならば潜り抜けられるようなほんの小さな隙間が空いていた。

 だが、たとえ分かっていたところでどうする事も出来ない。

 辛うじて〈影光ようこう〉の姿も見えてはいたが、このままでは分断された上で、各個撃破の憂き目にあうのは火を見るより明らかだ。

 そして、ぎぎぃ、とわずかに機体の動きが鈍った。


「……っ!」


 しまった、と咄嗟に操縦桿を引き込んだ頃にはもう遅い。

 左右のビルから伸びていたワイヤーに引っ掛かり、〈御霊みたま〉は原始的なブービートラップを作動させてしまっていた。

 硬質な爆裂音。辺りの街路樹に仕込まれていた指向性地雷が作動し、実に数万個もの鉄球を木製巨人に浴びせ掛ける。


 硬化した神木装甲に降り注ぐ鉄球は、漆塗りの装甲を激しく削って行った。布で咄嗟に身を覆った〈御霊みたま〉は、一瞬にして蜂の巣と化した周囲の建物に目を凝らす。

 びりびりと不気味に震える壁面は崩壊を始め、雪崩のような勢いで瓦礫が左右から迫って来る。トラップに連動して爆破倒壊させられつつあるのだ。

 そして数百m先に停まっていたバスからは、獰猛な飛翔体が打ち出されていた。


 ――――槐兵相手にここまでやるのか!


 視線の先から迫って来る円筒は、ビルの谷間に白煙を曳いて行く。

 全長およそ1.6m、ロケットモーターによって瞬く間に亜音速へと達したそれは、一発の対戦車ミサイルに他ならなかった。

 米製の歩兵携行式対戦車ミサイル・ジャベリン。無人ランチャーから緩やかな放物線を描く弾道は、確かに〈御霊みたま〉への直撃軌道に乗っている。


「やらせるか」


 一瞬の判断で膝をついた〈御霊みたま〉は、雪崩から逃げようともせずに対呪物ライフル砲を構える。

 発砲。弾を込める時間も無いままに引き込んだ銃爪は、何も収められていなかったはずの砲口からゆらりと何かを撃ち出していた。


 茶色く煙る眼前に、鮮烈な爆炎が花開く。

 ヘルファイアミサイルは腹の裡に抱え込んだ炸薬を弾けさせると、〈御霊みたま〉に向けて破片を浴びせかける。いかにも恨めしそうに装甲を叩いて行く破片の数々は、もはや殺傷力を帯びた鉄片ですら無かった。

 疾走。煙を裂いて立ち上がった槐兵は、何も撃ち出さなかったはずのライフルを構えて走り出す。


「〈御木之卯杖ミケノウヅエ〉の近接防御は間に合ったか」


 〈御霊みたま〉の構えるライフルが残光を曳く。ボゥっと妖しげに輝く銃剣は、今しがた発動させた呪いの成果を誇っているようでもあった。

 ミサイルに仕込まれた近接信管の誤作動、並びに木質化の呪いによる防御。敢えて発動術式を限定することで、神呪兵装は一瞬にして起動したのだ。発射前後の隙が大きいボルトアクション式ライフルとの相性はすこぶる良い。


 崩れ行くビルから逃れた先には、二発目のミサイルが待ち構えていた。

 またもや張り巡らされていたワイヤートラップを飛び越えつつ、黒い槐兵はなおも前進する。あろうことかミサイルに向かう足取りは、サイクルを緩めるどころか瞬く間に加速してトップスピードに達していた。


 ――――まだ杖の再使用は出来ない。なら、試してやる。


 怯まず走る槐兵、霊障を受けつつも飛翔するミサイル。

 槐兵の全身には見えざるレーダー波が浴びせられていたが、全木製構造の機体はそれさえもまんまとすり抜ける。装甲表面に形成された珪化木シリコンカーバイド層が強力なステルス効果を生み、ほとんど熱を発さない木質筋繊維はIRH誘導をも欺く。

 一瞬の攻防の果てに、呪操槐兵は勝利した。

 終端誘導さえかいくぐって見せた〈御霊みたま〉は、すれ違うに瞬間に回し蹴りを叩き込む。横合いから切り裂かれたミサイルは、敢え無く四散した。


『その分だと仕留め切れなかったようだな、水鏡みかがみ

「現代のシステムは呪術に対して脆弱……そう言ったのはお前だったな、犬山」

『呪術というやつはこれだから嫌いなんだよ、私は』


 幻也ゲンヤの下にだけ届けられる犬山の声は、どこか懐かしむような響きを以てシート上の無線機から滲み出していた。

 語る言葉だけは、グラスを交わした夜と何も変わらぬままに。

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