第四章:公安庁舎攻略編
ep18/36「黑き常世の姫」
陽光の差し込まない室内に、幾重もの祝詞が木霊となって反響する。
数十人の盲いた出家信者による詠唱。黙々と呪言を唱える彼らの姿は闇に紛れ、ぼんやりとしか見通せない暗室の広さを物語っている。
そして、暗室の中央には一本の木柱が立てられていた。
舞台劇よろしくスポットライトに照らし出されたそれは、ひたひたと歩み寄って来た白装束の少女を出迎える。
「カクイブキハナチテハネノクニソコノクニニマスハヤサスラヒメトイフ――――」
詠唱が一段と熱を帯びる中、少女は用意されていた桶を頭上に捧げ持つ。
桶からはとくとくと清め水が溢れ出し、腰まで届こうかという黒髪はやがて濡れ羽色の艶を帯びていった。未だ成熟には至らない膨らみを描くのは、およそ17才相当の肉付き。
華奢な肩から腰へ、そして僅かに震える脚のラインをなぞるように、肌を透かしていた白装束はべちゃりと床に打ち捨てられる。
「カミモチサスラヒウシナヒテムケフヨリハジメテツミトイフツミハアラジト――――」
やがて音も無く歩み寄って来た出家信者たちによって、一糸まとわぬ少女の身体は木柱に縛り付けられた。ささやかな影を落とす膨らみは荒縄に締め上げられ、いっそ痛々しく窪んだ柔肌は身を捩る度に形を変えていった。
もはや、逃れられることは叶わない。
時を同じくして運び込まれた神輿は、縛られた爪先の下に安置される。慎重に開け放たれた神輿の中からは、座禅を組んだまま干からびたミイラが現れていた。
磔にされた贄、待ち受けるかのように身を置くミイラ。
時は満ちたとばかりに熱狂して行く詠唱の中で、ぎゅっと目を閉じた少女の首筋には滴が伝って行った。それは汗か、あるいは恐れ故の涙だったか。
「キョウノユウヒノクダチノオオハラヘニハラヘタマヒキヨメタマフコトヲモロモ――――!!」
「……うっ」
何重にも重なる詠唱がピークに達した頃、少女はのけ反るように身を捩り始めていた。
突き出された胸には脂汗が浮かび、ぎりりと食いしばった歯の隙間からは苦悶の声が漏れ出す。つぅ、と肌に描かれる赤い筋は重力に引き延ばされ、少女の背に鋭い棘が突き刺さる度に支流を増やして行く。
丸太はいつしか、棘が生え立つ茨と化していた。
ある種の搾血機とでも呼ぶべきそれは、神木製の呪具。縛り付けられた少女は文字通りの人柱だ。
そしてある意味では、黄泉から戻ったイザナギの如くに穢れを払う禊の模倣でもあった。
全身に汗を滲ませる少女の裸身は、揺らめく炎に照らされててらてらと闇に浮かび上がり、壊れた操り人形が如くにもがくのを止めない。
堪え切れない声は何重にも木霊し、絶叫となって祝詞に混じっていた。
「ぁぁああああッ!」
やがてささやかに膨らんだ胸の間から、脇腹から、二の腕から、新芽よろしく伸びた枝がその先端を覗かせていた。
その頃には既に、辺りは静まり返っていた。
どくどくと流れる血は赤い河となって滑らかな柔肌を伝い、やがてだらりと下がった爪先から滴り落ちて行く。
歴史上初の禊を終え、黄泉での穢れを祓ったイザナギの身体からは三柱の神が生まれ落ちたという。黄泉へ踏み行った者は、不浄の穢れから神を産み出したのだ。
ならば、今はどうか。
生贄たる少女の肌を濡らす血液は、みるも凄惨に、しかしある種の模倣呪術的な意義を以て足元のミイラに注いでいった。
「ぁ……レら……にッ!」
数秒後、貪欲に血を吸い上げたミイラの口が軋みながら開き始める。
生贄から絞り出されたのは穢れた血液。すなわち神産みの穢れを浴びることで、自ら高位の神を降ろさんとする降霊儀式が発動しようとしているのだ。
実際、老婆は蘇りつつあった。
みるみるうちに膨らむ肌は皺を形作り、ミイラは老婆の姿をとって絶叫し始める。
『我らガふるさとへカエる為に、奇蹟に縋りて杜を成さん。森羅の木々を統べし王が調伏に……我……ら、は』
幾本もの枝に貫かれて力なく弛緩した少女、その下で血を浴びて喋り出した老婆。そんな光景もすぐに静けさを取り戻し、口を閉ざした死体は元のミイラへと戻る。
生贄を捧げてまで執り行われた儀式は、かくも滑稽な光景と共に終わりを告げようとしていた。
少なくとも、その一部始終を見つめていた男にとっては喜劇そのものだった。いかにも鬱陶しそうに張り上げた彼の一声が、無遠慮に辺りの沈黙を破る。
「教祖の説法はもういいだろう。終わりだ終わり」
冷ややかな視線は生贄へと向けられ、次いで既に沈黙したミイラに注がれる。再び神輿に収められつつある死体を見やると、男は口元を歪ませていた。
「我らが教祖様も世間ではまだ生きている事になっているかねぇ、こんな場所では警察も役所も踏み込んで来ない。死体が見つからないのでは永遠に行方不明だ」
ぴし、と閉じられた扇子が真っ直ぐに神輿を指す。
一部の隙も無く和装を着こなした男、その名を知らぬ者はここには居ない。他ならぬ教団幹部として出席している事実を証明するように、腰掛ける椅子はちょうど三つだけ設けられた特等席だった。
彼こそは〈
他に二つ用意されている幹部席を舐めて行った視線は、ちょうど斜め前方で止まる。
「〈
「口を慎め、サカキ」
「お前は干からびた教祖に忠誠を尽くすのか? おっと……アラトよ、お前が仕えるのは一人だけだったな」
第一位幹部たるサカキ、そして第三位幹部たるアラト。両者の視線はこの時果たして交錯していたのどうか、片方の目元が仮面に覆われているのでは窺い知ることも出来ない。
ここは高度450m、かつてのスカイツリー展望回廊。
呪いで木質化したスカイツリーは聖地ミケであると同時に、今や鬱蒼と緑が生い茂る社と化していた。東京で勢力を拡大した〈
〈
しかし、巨大な三本鳥居を中心に並ぶ三つの幹部席は、今や一つが空席。イチイの後に残された幹部が二人だけともなれば、何のための合議制かも分からない。
悠々と扇子を仰ぐサカキは、アラトに視線をやっていた。
「まあいい、今回の招集目的は何だ」
「イチイが死んだ」
「そうか、道理であの教祖蘇生に執心していた老いぼれが来ない訳だ。術に失敗して喰われたか」
「いや、槐兵に乗っている時に殺られたんだ。我々がそう促したとはいえ、公安の呪操槐兵がほぼ独力で〈
ほう、とサカキの声音に興味が滲む。
「奴に呪術戦で勝つとは……〈
「公安は呪術を無力化する神呪兵装を実用化し、あの槐兵に実装していたらしい。犬山という呪術師が関わっているようだ」
「優秀な奴がいたもんだ。うちの中にもそんなやり手はいない、放っておけば脅威になるのは間違いないな?」
少しばかり眉を吊り上げたサカキが何を言わんとしているのか、アラトは既に理解していた。誰にも分からぬほどに小さく、彼の口角はつり上がる。
全ては早期に公安を叩き潰す為。サカキを動かす為のお膳立てとして、公安側唯一の呪操槐兵を裏切らせるような真似もしたのだ。
――――やはりサカキも食い付いたな。
かねてより呪術研究を深めていた公安の脅威は、遂にイチイの犠牲を以て現実となった。
裏取り引きの内容を知らない者からみれば、これは一大事だ。教団の最右翼であった第二位幹部を失ったとあれば、広がる動揺も決して小さくはない。
「だから今、公安霊装の庁舎を再度襲撃する。教団の戦力を以てすれば今度こそ公安を叩き潰せるはずだ」
「いいや、せっかくの機会だ。それなら私はアレを使わせてもらうとしよう」
「まさか」
「あの老いぼれには感謝しなければなぁ。今こそ私が、あの幻の呪操槐兵を復活させる」
小気味よく閉じられた扇子が、磔にされた少女の更に奥を指す。
本殿の天井付近には、二千年以上前に描かれたとされる大壁画が掲げられていた。推定年代にして西暦一世紀以降、日本創世記の一幕を表したとされるそれは〈
日本書紀には記されず、
古事記からも抜け落ち、
いつしか日本創生神話から消え去った或る伝説。
既に喪われたとされる記紀神話の伝承を描いた壁画には、山をも越える巨人の姿が荒々しく描き込まれている。
ある古文書曰く、それは見えざる災厄。
ある古文書曰く、それは歩く神樹ミケ。
教団に伝わるまたの名を、呪操槐兵〈
古神道系呪術体系の根源とも言える存在は、決して空想の産物ではない。我らが待ち望んだ伝承の通りじゃないか、とサカキは社に飾られた古き壁画に微笑みかける。
「イチイが大規模な召喚術式を発動させてくれたおかげで、アレが埋まっていた場所も特定できた。封印が解けた天皇陵、大仙古墳で大規模な地盤崩落が確認されている。間違いなくあそこに埋まっている証だ」
「我々が何の為にイチイに不利になるよう計らったのか、忘れたのか」
「あの老いぼれには過ぎた玩具だったというだけのこと。そして私には森羅を扱える、それだけだ」
大仙古墳、それは明治時代よりいかなる発掘調査をも許して来なかった不可侵の地。
どの天皇が埋葬されたのかも長らく不明、鍵穴のような墳墓の高さは500m近い国内最大級の古墳――――そして極めて強固な結界が組まれており、長らく地下探査を拒んで来た古き聖域でもあった。
しかし、その封印は遂に解けてしまった。
アラトは自らの見通しの甘さに心中で毒づく。この二千年に亘って誰も手を出せなかった結界内部にアクセスしたイチイが有能に過ぎたのだ。
――――イチイめ。
10年前の戦争で首都抗争に勝利を収めてからというのも、今や教団が水面下で発揮する権力は計り知れない。
各所に浸透した教団構成員があらゆる法令・慣習を握り潰し、発掘は既に開始されているに違いなかった。森羅が再び日の目を浴びるまで、そう時間は無い。
「随分と対応が早いな。イチイに監視用の蟲を仕込んでいたか」
「まさか。あの老いぼれにそんな小細工が通用するものかよ。ともあれ、お前に褒めてもらえるとは光栄だ」
アラトは完璧な無表情を貫きながらも、僅かに拳を強張らせる。
もしも〈森羅〉が復活するような事があれば、教団の粛清に名を借りてイチイを排除した意味は無い。これでは何のためのお膳立てだったか分からない。
サカキの方が一枚上手だったのだと、認めざるを得なかった。
「……忘れるな、〈森羅〉を操れるのはあなたではない」
「その通りだ。アレは普通の人間が乗れば死ぬ」
にやりと笑んだサカキは、何処とも知れない虚空に向かって「そろそろ良いだろう」と呼び掛けていた。
血まみれの少女の裸身を舐め回すような視線は、決して女に向けるそれではなく、むしろ実験動物に向ける期待がこもっている。
ずるり、と柱に縛り付けられていた少女が滑り落ちる。
徐々に棘を引っ込め始めた柱は、貫いたばかりの身体を支えることを放棄したのだ。重力に逆らうこともせずに樹皮を擦って行く身体は、すり切れた縄が千切れた時に及んで、遂に自由落下し始めていた。
だが、床に叩き付けられることは無い。
咄嗟に席を立ったアラトは、真っ白な袈裟が赤く染まって行くのも構わずに少女を抱き止めていた。その腕の中で、彼女は小さく呻き声を上げて身を捩る。
生きていた。
無慈悲に急所を貫かれたはずの少女は、当たり前のように生きていた。肌に開いていたはずの穴はみるみる内に塞がり、小さな池となるほどの血を流しながらも瞼はうっすらと開いて行く。
乱れた黒髪の奥に潜む瞳は、紅かった。
「ご気分はいかがでしょう、シロヒメ様」
「……黙っててよ、アラト」
「貴女をお守りすることこそが我が役目です」
「あたしが逃げないように監視する、の間違いでしょ。この首輪だって」
シロヒメは自嘲するような表情を浮かべると、首を縛める拘束具に触れていた。自らの尾を噛んだ蛇は、呪縛の首輪と化して硬く巻き付いている。
蛇が巻き付いている限り、逃げられない。
そのことはよく分かっているとでも言いたげに、笑みを消したシロヒメは鋭くアラトの手を払っていた。肩に被せられた衣を羽織り、誰の手を借りるでもなくふらりと立ち上がる。
「下がってなさい」
「はっ」
濡れた黒髪を払う少女を見上げるように、アラトはその場で黙して跪く。足元にまで広がって来た血池は、ひやりと膝を濡らしていった。
目の前で惨たらしく串刺しにされるのを眺めていて、守るなどと。滑稽なことを言ったものだという自覚だけはあったから、一切の反論はしない。
くくく、と堪え切れない笑い声と共に去ろうとするサカキの背を、黒き少女と白き青年は揃って見送っていた。
「死ねない呪いというのも便利なもんじゃないか。いちいち身元不明の生贄を使い捨てにせずに済む。経済的なのは良いことだ」
実質的に教団を治める和装の男――――第一位幹部サカキを見つめるシロヒメの背は、例の如く屈辱と怯えに震えていた。
サカキの背を睨みつける瞳は反抗心に揺れ、しかし、決して逆らえぬという諦めの色を湛えてもいる。あまりに脆い少女の怒りは行き場を失い、指先から滴り落ちた。
「遂に成った森羅の復活……お前にも存分に働いてもらうぞ、不死の娘よ」
「はい、サカキ様の仰せのままに」
肩に被せられた衣をぎゅっと握り締め、シロヒメは自らが流した血池を歩いて行く。その後を追うアラトがどんな表情を浮かべているのかは、仮面を見通せぬ彼女には分からない事だった。
ただ、抱き止めてくれた腕の温度だけは、肌に張り付いて離れようとしない。何を言いたいのか自分も分からぬままに開いた口は、すぐに閉ざされた。
「アラト、あんたは――――いや、いい」
「次の戦いでは確実に公安を潰して参ります、シロヒメ様」
次なる戦場は、公安霊装庁舎ビルが在る目黒区。
教団の公安襲撃に乗じて、イチイを葬ってから行方の知れない
ここに再び、総力戦が始まろうとしていた。
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