ep19/36「癒えぬ傷を身に刻み」

 夕暮れの目黒区中町目黒通り。ほんのりと赤い街に流れる人波をすり抜けつつ、黒ずくめの男はそれとなく歩調を早める。

 羽織っているのは厚手の黒コート。しかし、そんな季節外れの格好を見咎める者は誰も居ない。彼は人々の流れに逆らわぬまま、眼帯で覆われていない方の眼を辺りに向けていた。


 ――――三人、それ以上か。


 人除けの呪いも効かない相手が一般人であるはずはない。

 男は歩きながら煙草に火を点ける。条例違反は承知の上。口から吐き出したばかりの紫煙は、背後から浴びせられる敵意の視線に揉まれてか、ゆらりゆらりと身を捩っていた。

 この通りに入ってからこちらを追って来ているのは少なくとも三人。公安か教団かは分からないが仕掛けてくるなら、今だ。

 煙を断ち切るように指先が鋭く空を切った。


「退いてくれ」


 直後、まるで示し合わせたかのように人波がぱっくりと割れる。

 男は無自覚に道を開けさせられた人々の傍を駆け抜け、その身を人気のない路地へと滑り込ませていた。


 一方、通りから男の姿が消えたと見るや、尾行者たちの歩調はにわかに早まっていた。だが、全ては後の祭りに過ぎない。

 路地を曲がった彼らが目にしたモノは、路面にぽとりと置き去りにされた数輪の彼岸花。尾行者から対象ロストの報告がなされたのは、その直後の事だった。

 手配犯、水鏡みかがみ幻也げんやの確保に失敗、と。


「区内だけでも教団の車が三十台以上、奴らも本気か」


 空になったばかりのペットボトルが、投げ捨てられた勢いのままに足元を跳ねる。今日だけで10L以上もの水を飲み干し、夏に似合わぬ黒装束の男――――幻也ゲンヤは、無造作に口元を拭った。

 彼の隻眼が見下ろしているのは、赤く染まった目黒区の街並み。既に〈御霊みたま〉は地上から離れ、幻也ゲンヤを乗せたままビル風を受け止めている。

 無論、誰も空を見上げるような事はしないし、仮に見上げたとしても決して黒い呪操槐兵には気付けない。逃げおおせているのは呪操槐兵のおかげだ。


 〈御霊みたま〉と共に逃亡を始めてから早一週間。

 幻也ゲンヤは機会を窺っていた。そしてこの一週間という短期間の内に、絶好の機会は早くも訪れようとしているのだ。

 昨晩、公安庁舎の包囲を始めたらしい教団戦力は、およそ一昼夜をかけてこの目黒区一帯に展開を終えていた。一般車両を装った人員輸送車の数々が、数百人規模の歩兵部隊をこの地に送り込んでいるのだ。


 ――――この戦いには必ず〈影光ようこう〉も出て来る。


 幻也ゲンヤは胸に燻る確信を確かめつつ、フットペダルを半ばまで踏み込んでいた。すると、木質の人工筋繊維は音も無く収縮し、柔軟に屈した膝関節がわずか1tにも満たない機体の着地を受け止める。

 目指すは、古巣たる公安霊装の庁舎ビル。

 数km先にまで迫ったビルを睨むと、黒い人型は腰布をはためかせながら跳躍を果たす。しかし、その鈍い風切り音に異音が混じっていた。


「なんだ」


 木製装甲を透かして、足元の方からひゅぅと甲高い音が響き始める。

 誰にも気付かれぬままに宙を翔ける〈御霊みたま〉は、思わず幻也ゲンヤがそうしたように眼下へと首を巡らせていた。銅鏡とリンクした視界は、異音の正体を突き止めんと眼下の景色を舐めて行く。

 ものの数秒と経たずに、自ずと正体は判明した。


「始まったな」


 〈御霊みたま〉の足元に広がる市街地から、次々に弓なりの白煙が伸びて行く。

 夕暮れの空を噴煙で汚していくのは、即席の迫撃砲ともいえる簡易ロケット弾頭の数々。およそ百発近い弾頭は鏑矢じみた鳴き声を上げて飛翔し、そして四散した。霊障を受けた結果、信管が早期起爆を引き起こしたのだ。

 公安側の呪術によって無力化された破片は、街に弱弱しく降り注ぐ。攻略戦は、教団側の先制砲撃で幕を開けていた。


「悪いが利用させてもらう」


 腰布に風を孕ませる〈御霊みたま〉は、一般人が入り込まぬようにと張り巡らせた結界の内へと降り立っていた。

 余波で土煙を立ち昇らせる、既に放棄された工場の敷地内。長年の雨風で脆くなっていた天井に向けて、全高10mもの巨人は躊躇いなく手を突き入れる。

 舞い上がる粉塵の中から引き揚げられた掌には、機体全高にも匹敵するライフルが握られていた。


 電柱さながらの太さを誇る銃身の下には、銃剣のように一本の杖が取り付けられてもいる。それは神呪兵装〈御木之卯杖ミケノウヅエ〉だった。

 仇から奪い取った杖を取り付けた得物は、今や口径90mm対呪物バヨネット・ライフルとでも呼ぶべき規格外の呪装砲。未だ対イチイ戦で受けた損傷を隠し切れない〈御霊みたま〉は、応急処置の痕を晒しながら立ち上がる。

 機体は決して万全の状態ではない。

 乗り込む幻也ゲンヤとてそんな事は百も承知だった。


 ――――この機を逃す訳にはいかないからな。


 墨田区にて大規模なガス漏れ事故があったとして、一帯に外出禁止令が発せられた夜から一週間。かなえを取り戻すためにこの機を待っていたのだ。

 癒えない傷を身に刻んだのは、術者とて同じこと。

 幻也ゲンヤもまた、自らの身体に彫り込んだ入れ墨をなぞっていた。

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