終章:東京逃避行編

ep27/36「斯くて東京ミッドナイト・アサルト」

 JR中央線、飯田橋駅近くの高架橋下。頭上を過ぎ行く電車の轟音は、ところどころ朽ちた鉄筋コンクリートを無遠慮に震わせる。高速で駆動する車輪が擦れる度、古い線路は軋むようにぱらぱらと埃を振り落としていった。


 音も無く注いだ埃は、巨人の肩にうっすらと降り積もる。

 紛うことなき〈御霊みたま〉の機影だ。

 全身を漆黒の鎧に固めた槐兵は今、高架橋下の暗がりに跪いていた。顔布の奥に秘めた視線の先では、電車から漏れ出た灯りがサーチライトのように次々と闇を斬りつけて行く。


「さすがにここまで来れば撒けたか」

「ぱぱ、またおひっこしですか? どこにいくのですか?」


 眠そうに瞼をこすりながら、かなえが緑の瞳でこちらを見上げて来る。逃亡に次ぐ逃亡がすっかり日常となってしまったせいか、特に驚いている様子もない。

 次はどこなの? という眼を向けて来る。それだけだった。

 今夜はまたセーフハウスを1つ失ってしまった。

 公安の残存戦力に追われるがままに槐兵へ乗り込み、渋谷区を経て、なんとかここまでやって来たのだ。


 ――――一か月か。


 季節は秋。水鏡みかがみ幻也げんやが公安警察を裏切ってから、一ヶ月の夜が更けようとしていた。帰るべき場所などとうに無い。

 だから、なのかも知れなかった。

 去り行く電車をつい目で追ってしまう。仕事帰りの人々を満載した電車は、定刻通りにいつものように東京の街を巡るのだ。帰るべき場所を持つ人々を乗せて。

 自分ともかなえとも、違う。


「かなえは引っ越しが嫌いか?」

「ううん、ぱぱがいればいいです。かなえはまんぞくで……あっ、でも、できればおひさまがよくみえるばしょがいいです。じめじめはいやです」

「了解。窓は南向き、換気性良好の部屋か……探せるだけ探してみるよ」


 緩やかにフットペダルを踏み込めば、機体は高架橋下の暗がりから抜け出して行く。夜道を行き交う人々に気付かれることも無く、機体は歩き始めた。

 槐兵が見下ろすのは、平穏な下町だった。

 木製の装甲越しに聞こえて来るのは、じじじ、と微かに唸る街灯の音。無音駆動中の人工筋繊維が押し出す脚部は、まばらな人影を避けてアスファルトを踏み締める。

 中には、私服警官と思しき姿も混じっていた。


 ――――こんな所にまで。


 ふと、幻也ゲンヤは胸元に重みを感じていた。

 意味も無くふふっと笑ってみせたかなえが、背を預けて来たのだ。頭を飾るシロツメクサは、無精ひげが目立ち始めて来た顎の辺りをくすぐって行く。


「くすぐったいな。やめてくれないか」

「ふん、いやです」


 自分から目を離したからだ、と言わんばかりにかなえは身体を預けて来る。こういう時は、降参だ、というまで止めてくれない。

 最近はかなえが少しわがままを言ってくれるようになった。

 それがどうしようもなく、胸の底を温かくさせる。


 幻也ゲンヤは思わず顔を綻ばせると、ほとんど無意識の裡に押し込みかけていた操縦桿を引き戻す。〈御霊みたま〉は印を結んだ指先を降ろすと、先ほどまで見つめていた私服警官から目を離していた。

 跳躍。見逃した男を背に、黒い槐兵は住宅街の上空へと飛び立つ。


「でもね、かなえはね、ぱぱとべつのまちにもいってみたいのです」


 風切り音だけが支配する静寂の中。

 かなえの口から、ほんのささやかな願いが零れ出る。


「そうか……でも、今日は新しい家に帰ろうか」

「はい、ですっ」


 銅鏡とリンクした幻也ゲンヤの眼には、遥か地平をボゥっと照らす森林地帯が映り込んでいた。それはつい一か月前まで存在しなかった古代森林、つまりは今も〈森羅しんら〉が稼働を停止している汚染地帯に他ならない。


 あの一件以来、〈神籬社ひもろぎしゃ〉の動きはさらに活発化していた。

 当然だった。公安霊装という対抗勢力が壊滅させられた今、教団を止められる者などいるはずもない。東京という地に根付くあらゆる権力は、今や自覚の有る無しにかかわらず、教団の支配下にあると言っても良かった。

 かなえを狙う敵は、東京の全てだ。

 手段を選んではいられない。


 ――――かなえは、俺がこの手で守る。


 二度、三度と跳躍を繰り返した後、〈御霊みたま〉は街外れの一軒家に降り立っていた。

 数日前から目を付けていた空き家だった。辺りには既に人除けの呪いを張り巡らせており、機体から降り立つ幻也ゲンヤとかなえの姿を見る者はいない。

 懐からそっと式神を放った幻也ゲンヤは、まだ追っ手が及んでいないことを確かめると、さも当然のように開錠した扉を潜る。中には誰もいない。


「今日はここにしよう」

「おやすみなさいです、ぱぱ」


 押し入れから引っ張り出した布団に、早速かなえが潜り込む。その傍らに寄り添うようにして、幻也ゲンヤもまた身を横たえていた。 

 眠ることなど出来ない。

 幾度となく繰り返して来た夜の光景だ。規則的な寝息を耳にしながら、幻也ゲンヤは音も無く立ち上がっていた。


 ――――今夜も襲われたらどうするか、と思ったが。


 洗面所で水を口にする。すると少しは頭も冷えて来る。

 視線を上げてみれば、ひび割れた鏡にはどこか空虚な男の顔が映り込んでいた。戦いと殺し以外に何も知らない、そういう類の空っぽさだった。


「こんな事ばかりでごめんな。かなえはこれで満足なのか……?」


 この手で助け出すと決めたかなえに、こんな生活しかさせてやれない。奪うことばかり成して来た自分が何かを与えられるなどと、そう思ってしまったのが間違いなのかもしれなかった。

 自分に何が出来るのか。

 かなえに何を与えるべきなのか。

 分からなかった。あるいは初めから知らなかった。

 粘つく焦りと後悔の中で、二人の夜は明けて行った。



 * * *



 昼下がり、日当たりのいい居間に二人の姿はあった。

 むむむ、と険しく眉根を寄せるかなえは、手にしたクレヨンを画用紙の上に走らせて行く。そんな様子を見守る幻也ゲンヤは、白い画用紙の上でのたうち回る三次元曲線を見つめていた。

 やがてかなえの表情がパッと弾けると、晴れやかな声が上がる。


「ぱぱ!」

「よくできたな、偉いよ」

「へへ……っ、かなえのおなまえです。ぱぱがくれました」


 幻也ゲンヤはつられて口元を緩ませると、無邪気に笑い掛けて来るかなえの頭を撫でた。もう一方の手で取り上げた画用紙の上には、紛れもなく『かなえ』という三文字が記されている。

 ただし、平仮名でもカタカナでも無い。

 日本に漢字という文字体系が伝わる以前から在ったとされる文字――――いわゆる神代文字かみよもじの一つ、阿比留草文字あひるくさもじだ。


 呪符に記される呪言の多くは、この古き神代文字によって記される。

 そして〈御霊みたま〉のOSたる文字列も、この文字によって組み上げられている。それほどに古神道呪術との関りが深い、長い国内史の中で最適化されてきたプロトコルの一つだった。


「ぱぱ、これでかなえもつかえるようになるのですか?」

「何を使うって?」

「じゅじゅちゅ……じじゅつ……じゅじゅ……」


 かなえが何かを言おうとして、見事に噛んでいる。

 何度も愛らしく言葉を詰まらせている様を見れば、幻也ゲンヤも思わず噴き出してしまう。頬を膨らませたかなえにぽかぽかと殴り付けられるがまま、幻也ゲンヤは「降参だ」と畳の上に寝転がっていた。

 ふん、と明後日の方向を向いたかなえは、背を向けたままだ。


「かなえが言いたかったのは呪術じゅじゅつか」

「そうです」

「悪かったよかなえ。でも、パパがかなえにこの文字を教えたのは、呪術が使えるようになって欲しいからじゃない」


 幻也ゲンヤは懐から人形札を取り出すと、ふっと宙に放つ。ひらひらと舞った札はかなえの肩に降り立って、悪戯好きの小人よろしく頬をつつき始めた。

 無論、ほんの戯れだ。

 だが、これとてごく軽度の呪いには違いない。へそを曲げたかなえにもう一度振り向いてもらうくらいの効力はあったが。


「言葉や文字はそれ自体に意味があって、力がある。だから文字で何かを表すということは、文字の持つ意味合いで相手を縛るという事なんだよ。これが呪いとか呪術と呼ばれているんだ」

「じゃあじゃあ、かなえはぱぱにのろわれた・・・・・のですか?」


 腑に落ちない表情を浮かべながらも、かなえは先ほど書いた画用紙を見つめている。そこに記された名は、確かに幻也ゲンヤが与えたものだった。

 子供というのは時に恐ろしい、彼は改めて思い知っていた。


「そうだな……広い意味ではそうなる。実は昔々の偉い人も『名前とは最も短い呪だ』と言ったことがあるらしい。だから本当なら呪いっていうのは特別なものじゃないんだ。人が物事を認識する延長線上にある、生きて行く上ではごく自然な技術体系で――――」

「かなえ、よくわかりません」

「そうだな、ごめんな」


 名付ける事とは、すなわち呪う事だ。

 幻也ゲンヤはこちらを見つめて来る緑の瞳に、改めて奇妙な因果を感じずにはいられなかった。かなえの魂を持った彼女を『かなえ』と呼んだその瞬間に、かなえは『かなえ』と成ったのだ。

 名付けによって縛った存在は、今やこうしてぱぱと呼び慕ってくれるかなえそのものと成っている。


「パパはかなえには呪術なんて知って欲しくない……でも無闇に使わないためには知っていなくちゃならない。知らないのと使わないのでは違うんだ。これだけは覚えておいてもらえるかな」

「わかりました」

「でも、使わなければならない時には使って欲しい」

「むずかしいです」


 使うべき時だけに使え、などと言って通じるのは訓練された者だけだ。年端も行かない彼女に無理難題を押し付けているのかも知れなかった。

 正解など分からない。いつか必ずやって来るであろうその日を、今はただ来てくれるなと願うより他に無かった。心の底から。


「……かなえはもうつかれました!」

「おっと」


 ぽすん、とかなえが勢いよく幻也ゲンヤの懐に飛び込んで来る。かなえの髪から漂う淡い花の香りは、束の間、幻也ゲンヤの鼻孔を満たして不思議と心を安らがせていった。

 まるで猫のように丸まったかなえは、銀に艶めく髪をしげしげと見つめて弄ぶ。そして何故か嬉しそうに目を細めると、幻也ゲンヤの髪を指差していた。

 度重なる呪詛の影響ですっかり退色した白髪を、だ。


「かなえとぱぱのかみ、おなじいろです」

「いや違うよ、パパのこれは」

「ううん。おなじです、だから……だから、ね」


 かなえはもごもごと口を動かしながら、抗えぬ睡魔に呑まれて瞼を閉じて行った。穏やかな寝息を立て始めた彼女の頭を、幻也ゲンヤの手が愛おしそうに撫でる。

 何度見たとも知れぬ天使の寝顔。その整った横顔を縁取る銀髪は、日に当たった箇所から徐々に色付いて行った。まるで照らされた箇所だけに春がやって来るかのように、芝桜のような花が咲き始めているのだ。


 ――――花畑で昼寝するお姫様、か。


 小さな花に囲まれて眠り続けるかなえの姿は、おとぎ話の一節から抜け出て来たと言われても違和感が無いほど画になっている。喩えるべきは眠り姫なのかも知れなかった。

 かなえはよく眠る。

 この一か月間、生活を共にしてみて分かった事だった。平均して日に12時間を睡眠に費やし、活動量を抑える為か日当たりのよい場所を好む。それが彼女にとっての平常であるらしく夜は大抵起きていない。


「かなえが起きるのは明日の6時くらい……いや、千代田区ここだともう少し早いか」


 平均して・・・・日に12時間。

 かなえが眠りに就く時間の長さは、場所によっても大きく変動するのだ。幻也げんやはかなえと共に都内を逃げ回っている内に、その事実が意味するところを既に悟っていた。

 都心から離れれば離れるほどに、かなえの眠りは長くなる。

 言い方を変えれば、聖地御木ミケから離れるほどに彼女の眠りは深くなる。


 ――――そして、東京を出れば目覚めなくなる。


 一度だけ東京から逃れようとした時、かなえはとうとう目覚めなくなった。

 だから今もこうしてこの街を逃げている。数日に亘って眠り続けていた彼女を起こす為には、再びこの魔都に戻って来るしかなかったのだ。

 幻也げんやには分からなかった。

 かなえがこの街で再び目を覚ました瞬間、胸を押し潰した想いの正体は何だったのだろうか。安堵だったのか、あるいはそれ以上の。


「もう、俺は、あんなことは……」


 幻也げんやは我知らず握り締めていた拳を、ゆっくりと解いて行く。

 穏やかな眠りに就いた彼女の周りには、いつだって色とりどりの草花が芽吹き出す。それは無意識の呪術が溢れ出している証であり、彼女自身が『槐の呪い』に極めて近しい性質を帯びている証でもあった。

 つまりは、槐神霊装〈森羅しんら〉に近い存在だ。


 それがもしも御木ミケから離れられない事と関係しているのだとしたら、彼女は同種の存在――――旧き神木と繋がる事で生き長らえているのかも知れなかった。

 見えざる根で魔都に繋がれた命。

 どうしてそんな呪いの運命をかなえに伝える事が出来ようか。


 この街で殺され、この街で変わり果て、この街で出逢って、そしてただ自分の傍にいられる事を喜んでくれるたった一人の娘に。

 彼女の未来を呪うような真似だけは出来なかった。


「……っ!」


 幻也ゲンヤは咄嗟に胸を抑えていた。まるで背中から刀を突き立てられたかのような激痛に、のたうち回る心臓が悲鳴を上げる。

 くらり、と揺らぐ意識に抗いながらも、幻也ゲンヤは咄嗟に呪言を唱え始める。心臓を刺すような痛みはおよそ一分ほどで退いて行った。


「つまり、時間切れかよ」


 荒い吐息が響く静寂の中、皮肉な笑みに口元は歪む。

 来るべきものがやって来たのだった。自ら撃ち抜いた心臓を魂呼ばいで動かしたとて、呪術が永遠に効き続ける訳ではない。一度は死した心臓が、あと何回鼓動してくれるのかなど分からなかった。


 この心臓が止まるまでに何が出来るのか。

 かなえに何を遺してやれるのか。

 幻也ゲンヤは答えの分からぬ問いに胸を詰まらせながら、辛うじて起こさずに済んだらしいかなえを見下ろす。ぱくぱくと彼女の小さな口元が動いた。


「ぱぱ……ずっと一緒、です……」


 今この瞬間に一体何の夢を見ているのか、かなえの頬は楽しげに緩んでいる。明日もずっとこんな日が続いていくと信じているような、無条件に未来を信じられる者の寝顔だった。

 その銀に艶めく髪を撫で、そのひんやりとした肌に触れ、気が付けば幻也ゲンヤの指先は強張ってそれ以上動かなくなっていた。

 我知らず、指が震えていた。





 ――――まだ死にたくない。

 きっと初めてそう願った。





 ――――俺にそんなことを思う資格は、ない。

 かなえを一人にはしたくなかった。





 明日も、明日の明日も、その先も共に生きてみたかった。

 幻也ゲンヤは己の中に湧き出して来た願いに、今度こそ自嘲の笑みを浮かべるしかない。人を呪わば穴二つ、一度でも人を呪い殺した者には真っ当な死など訪れないのだ。それが当然の報いだったとしても、願わずにはいられない自分がいた。


「俺には何が出来る……?」


 たった一人の家族に遺せるものは何か。

 幻也ゲンヤはかなえの重みを膝で感じている内に、自ずとその答えが浮かんで来るような気がした。起こさぬようにそっとかなえの身体を退け、去り際に布団を掛ける。

 おもむろに立ち上がった幻也ゲンヤは、すっかりくたびれた外套を着込む。手にするのは馴染みの煙草に拳銃一挺。他に持つべきものなどなかった。


「行ってくるよ」


 屋内に呪符をセットし終えた後に、幻也ゲンヤは音も無く扉の外へと抜け出す。すっかり日は暮れて辺りは夜。黒ずくめの男は何処かへと去って行った。


 部屋には、かなえの他に誰もいない。


 幻也ゲンヤが断りも無く去ってしまえば、後に残されるのは強固な結界に護られたかなえのみ。そうとは知らずに眠り続けるかなえは、安穏と過ぎて行く夜に身を任せていた。

 およそ数時間後、そうして一人残された彼女に朝がやって来る。

 カーテンの隙間から差し込む朝日に目元をくすぐられ、かなえは掛けられていた布団からもぞもぞと抜け出し始めた。


「……んー、あさです?」


 眠気に曇った眼が、ボーっと辺りを見渡す。

 いつもならすぐ傍に佇んでいる人影を、すぐに「おはよう」と返って来る挨拶を待っていたかなえは、それから数秒と経たずに沈黙の意味を理解していた。


「ぱぱ……?」


 幻也ゲンヤがいない。かなえはすっと顔を青ざめさせると、布団を放り出して部屋中を駆け回って行った。


「ぱぱ!」


 いない。


「ねぇ、ぱぱっ!」


 どこにもいない。

 遂に朝まで帰らなかった幻也ゲンヤの姿を求めて、彼女は決して広くない部屋に目を通し終える。それでも見つからない姿を求め、目元に涙を浮かべるかなえはふらふらと玄関扉へと手を伸ばしていた。


「ひとりは、いやです。おいていかないで……」


 そして、ドアノブが音も無く回る。

 かなえが触れるよりも先に開け放たれた扉からは、黒い人影が滑り込んで来る。咄嗟に身を強張らせた彼女の前で、"それ"は呻き声を上げて玄関に倒れ込んでいた。

 どこか焦げ臭い香りを放つぼろぼろの男。それが幻也ゲンヤだと理解した途端に、かなえは腰が抜けたのかぺたんと座り込んでいた。

 幻也ゲンヤは、そんな彼女にぎこちなく微笑みかける。


「……ただいま、かなえ」

「ぱぱ、どうしたのですか!」

「ちょっとな」


 血だらけの幻也ゲンヤは小さな呻き声を漏らすと、胸の辺りを抑えていた。胸を突き刺すような激痛、不規則な鼓動を始めた心臓は断末魔の悲鳴を上げている。

 目を潤ませたかなえが、おろおろと慌てている様子が見えた。

 幻也ゲンヤは魂呼ばいの呪言を唱えながらも、かなえの頭をそっと撫でてやる。これ以上心配させたくはなかった。


「もう大丈夫だ。ごめんな」

「……っ!」


 言い切る間もなく、かなえが力の限りに抱き付いて来る。

 顔を埋めて外套を濡らす彼女は、それでも必死に泣くまいとして感情を堪えているようだった。かなえに本当に悪い事をしてしまったと、幻也ゲンヤの胸には敵を殺めるよりもなお重い罪悪感が去来していた。


「もうどこにもいかないでって……っ! やくそく、してください」

「パパは必ず帰って来るよ。大丈夫だって約束しただろ、な?」

「うん……」


 幻也ゲンヤは、もはやこうするしかない我が身を呪った。

 かなえから数え切れないものを受け取って来た自分に、遺してやれるものは何なのか。考えてみても結局分からなかった。奪うことしか出来ないのなら、せめてかなえが生きる明日を作る為に命を使いたかった。

 たとえかなえが歩む未来に、自分がいないとしても。


「これからはずっと一緒だからな、かなえ」


 幻也ゲンヤはただ一つ残された願いを胸に、決して叶わぬゆめを吐いた。本当にそうなればいいとも願っていた。





 その晩、〈御霊みたま〉は再び何処かへと飛び立って行った。

 次の晩も、その次の晩も、毎夜のように古びた一軒家から飛び出す槐兵は、魔都を目指して丑三つ時の闇夜に身を浸すようになっていた。

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