ep10/36「教団幹部討伐指令」

 福岡県三池郡と東京都墨田区を聖地と主張する、自称古神道系宗教法人。

 ――――〈神籬社ひもろぎしゃ〉、その国内最大支部。


 公安が事前調査で掴んでいた通りに、礼拝所は市民体育館とさして変わらない規模だった。ゆうに千人近くを収容できる規模だ。

 まるで吸い込まれるように、信者たちは続々と正面扉の内へ消えて行く。


「ぱぱも来るのははじめてですか?」

「ああ、パパも初めてだよ……しかし警戒が薄いな」


 視界に入っているのは五十人ほどの信者たち。入口付近での荷物検査の類は一切ない。

『人は皆、もりへ帰ろう』

もりへおかえりなさい』

 入口に掲げられた教義の数々が、入る者たちを出迎える。

 無防備といえるほどの警備体制に拍子抜けしつつ、幻也ゲンヤはシンプルな礼装を着込む出家信者のすぐ傍を過ぎた。


 ――――まさか公安を警戒していないのか?


 教団が公安を襲撃してきたのはつい一週間前。

 公安の動きを警戒していないはずがない。ならば何故、と胸騒ぎを抑え切れない。限りなく確信に近い直感が、これは良からぬ事態だと告げている。

 しかし、それでも飛び込まねばならない。

 エンジュの葉を象ったマーク、〈神籬社ひもろぎしゃ〉の紋章に飾られた屋根を見上げつつ、幻也ゲンヤもまた人波に紛れて行った。  


「かなえ、大丈夫か」

「せまーいーでーすー……っと!」


 人波に呑まれかけているかなえは饅頭のようにもみくちゃにされている。見かねた幻也ゲンヤが抱き上げてやると、重さとてないかなえは嬉しそうに手を回して来た。

 こうしてやるのは、いつぶりだっただろう。

 ふいに懐かしさを覚えた幻也ゲンヤは、十年の時を経て蘇る後悔にじわりと胸を焼かれていた。


 ――――そうだ、こうしてやりたかった。あの日からずっと。


「ぱぱ? なんだか苦しそうです」

「……気にしなくて良いよ」


 心配そうに覗き込むかなえに微笑みかけながら、人波に流される。

 周りからはひそひそと囁き声が聞こえて来る。しかし、それは決して幻也ゲンヤの独り言を訝しむ声ではない。


 こうして幻に話しかける行為さえ、周りでは珍しくも無いくらいだった。

 礼拝所に詰め掛けているのは、ぶつぶつと独り言を囁いては虚ろな眼を宙に向ける者たちばかり。布教、金、薬、カルトの手合いにはよくある事情を悟り、幻也ゲンヤはかなえの目をそっと手で覆った。


 ――――出家信者以外は、どいつもこいつも薬漬けか。


 流されるままに構内へと辿り着けば、床に整然と並べられた座布団と熱気が幻也ゲンヤたちを迎えた。

 既に五百人は下らない者たちが、この礼拝所には詰め込まれている。夏の夜だというのに空調は停止しており、むせ返るほどの湿気がこの密室空間を支配しているのだ。


 幻也ゲンヤが座り込んだ途端に、かなえはちょこんと膝の上に乗って来た。重さは無い。幻だから一緒にいられるのだと、心の何処かで静かに安堵する。

 数百人もの人間が蒸し風呂に集まり、一心に祈りの時を待つ。

 ここはまさしく、正気と狂気の狭間のような場所。作戦が予定通りに進んでいれば、今頃は幻也ゲンヤと同じような部隊員が紛れ込んでいるはずだった。


「皆さん、をどうぞ」


 十分も経った頃になって、出家信者たちは礼拝所に集った信者へと声を掛け始めていた。それぞれが手にした籠からは、ザザ、ザザッ、と米粒を掬い上げるような音が聞こえて来る。

 幻也ゲンヤはそれを見つめるにつれ、人知れず緊張を高めていった。周りの信者たちが半ば奪い取るようにして受け取るそれは、礼拝への潜入にあたって事前に警告されていたクスリの正体だ。

 不快環境における投薬、マインドコントロールの典型例の一つだった。


 ――――あれが教団の違法薬物か。


 あなたも、さあ。

 そう告げるように差し出された種子の一粒を、決して緊張を気取られないように受け取る。恭しく頭を下げて出家信者の背を見送ると、かなえは興味津々な様子で種を観察し始めていた。


「この種、トゲがいっぱいです……痛そうです」


 指で突っつこうとするかなえが指摘する通りだった。

 渡された種子は大豆ほどの大きさ。しかし、ウニのように張り出した外皮は固く、幻也ゲンヤの指先にうっすらと血を滲ませている程だ。

 特筆すべきは、そのアルカロイド成分。

 経口摂取した際の効果は、中毒性の高い精神高揚・幻覚作用。しかし、信者たちが礼拝の度に摂取しているとなれば、これを呑み込まなければ偽装している意味がない。


「ぱぱ、これは植えると何に育つのですか」

「そうだな、何に育つんだろうな」


 流石にそこまでは資料にも書いていなかった。

 子供の好奇心というやつは。思わず苦笑した幻也ゲンヤは、緊張がほぐれた口内へと一気に種を放り込む。

 途端に口内をくすぐる違和感、舌下へトゲが突き刺さった痛みだった。しかし、彼は違和感を堪え、固い外皮が唾液でふやけるのをじっと待つ。


 そうしなければ、死ぬ・・


 間違っても歯で傷つけたり、噛み砕いてはならない。

 胃酸で化学反応を起こさなければ、種に含まれた神経毒が回って死ぬからだ。

 幻也ゲンヤは緊張に苛まれつつ、やがてトゲが柔らかくなって来た辺りでようやくそれを飲み下した。すると、ほんの一分ほどで全身の汗腺が開き出し、トゲに裂かれたばかりの喉奥からは苦いものが込み上げて来る。


 ――――あの劇物を打っておけば平気なんじゃなかったのか? 犬山の奴め。


 副作用を抑える為の劇物を投与してもなお、強烈な吐き気と発汗作用が全身を駆け巡って行く。周りでのたうち回る信者たちを見るに、本来の効果は更に酷いらしいと察しが付く。

 かなえの幻は、その間も背をさすってくれているらしかった。


「ぱぱ……だいじょうぶですか?」

「大丈夫だよ。心配しなくていいからな」


 更には、礼拝所のどこかから苦悶の叫びが聞こえてくる。恐らく誰かが誤って種を噛んだのだろう。いっ、と痙攣性の悲鳴が響くとやがて叫びは消え去った。

 そろそろ標的がやって来てもおかしくない。

 やや大げさに身を震わせる幻也ゲンヤは、礼拝所に設けられたステージの上に視線を向け続けた。


 ――――まだなのか、奴は。


 そして周りにすっかり幻覚作用が広まった頃、ようやく壇上に動きが現れた。


「……やっとお出ましか」


 壇上に登って行くのは、ひどく猫背の老人が一人。

 高位の信者にのみ許された紫の礼装を纏う、ぎょろりと見開いた目が奇怪な男だ。老人のつく杖が、カンっと床を打つ度に辺りは沈黙に包まれて行く。

 幻也ゲンヤはその正体を脳裏に呼び起こしていた。


 ――――教団の第二位幹部、狂信者イチイ。


 今宵の儀式を主導的に執り行っていたのは、やはり教団の幹部クラス。幻也ゲンヤはちかちかと瞬く幻覚に目を細めつつ、標的たる男の姿を見定める。

 専門家として研ぎ澄まされた思考が、頭蓋の内側を一気に氷点下まで冷やして行く。ちかちかと極彩色の幻覚が浮かぶ視界にあっても、さしたる支障はない。


 これから、奴を殺すのだ。

 壇上から教義を語り掛けるイチイの声は、亡者のような呻き声が聞こえる礼拝堂にあってもなおクリアに聞こえて来た。


「皆さんは、生きている意味について考えた事はありますか?」


 イチイは、集った信者たちをぐるりと見渡して問いかける。ひどく頼りない体躯からは想像できないほどの豊かな声が、心地よい低音で以て人々の脳髄を痺れさせて行く。

 思わず、幻也ゲンヤの全身にも鳥肌が立った。


 ――――こいつ、呪いまじないを混ぜ込んでいるのか。


 言葉とは、最も根源的な呪いの形態だ。

 たとえ理論化された呪術に非ずとも、言葉は時に人を殺す。それを証明するように、古来より群衆を動かして来た説法/演説には必ずと言っていいほど、心の深淵に入り込む類のまじないが用いられて来た。イチイもまた、その術を解する者である可能性は捨て切れない。


もりに帰りましょう。もりは全てを受け容れて下さいます」


 いや、間違いなくそうなのだ。

 イチイは今この瞬間にも、呪術を行使している。幻也ゲンヤは確信した。

 素人には分からぬほど巧妙に仕組まれた音が、匂いが、照明が、この説法そのものを数百人規模の魂を縛る呪術と変えているのだ。

 一度囚われてしまえば数十年に亘って縛られ続ける呪いの言葉。頭ではそうと分かっているはずなのに、脳へ滑り込んで来るような声に抗い切れない。


もりには全てがあります。春に息づく芽があり、夏を謳歌する葉があり、燃える紅葉を経て、その生命は生けとし生ける者たちの礎となってもりとなって行くのです。人も同じです、あなた達は何のために生きていますか?」


 何の為に生きているのか。イチイが穏やかに放った言葉は、気付かぬ間に自問へとすり替わる。

 分からなかった。

 十年前から何の為に生きてきたのか、理由など幻也ゲンヤ自身にも分からない。拭えぬ後悔と殺しだけが、この十年という歳月の全てだった。


 かなえの幻と手を繋ごうとも、悪夢にまで見た後悔は決して消えてくれない。

 それどころか、あの日で止まってしまった記憶を上塗りしていくかのような痛みが、幻と言葉を交わす度に胸を抉じ開けていく。

 そして気付いた。

 傍に見えるのに触れられない、それ自体が責め苦に他ならないのだと。幻也ゲンヤの顔には、意識するともなく嘲るような笑みが浮かんでいた。


 ――――まるで、俺が俺自身を罰しているみたいじゃないか。


「私たちは還り方を知っています。人の魂も行き付く先は杜なのですから、いずれ木となり、朽ちて行きます。そしてまた土に還って芽吹くのです。この世に受けた生が絶対ではありません、生きることは移り行くことなのです」


 生きることは移り行くこと。

 老い、壊れ、死に行くこと。

 その事実は、戦闘の中で飽きるほど感じて来た。

 銃爪を引けば、銃口の先で否応なしに人が壊れて行った。それはまるで、死体へと移り行く事で初めて、生きていた事を実証していくかのような光景だ。


 そして今夜も、そんな光景を見ることになる。


 途端に懐の煙草が、ずしりと重さを増したように感じた。

 次いで、銃爪を引き込む感触が指先に蘇って来るにつれ、幻也ゲンヤは自分が何の為にここへ来たのかを思い出していく。

 事前に投与した劇物のおかげだった。

 早めに幻覚剤の作用が切れて来たことで、薬理学的にイチイのまじないから抜け出しつつあるのだ。それでも数秒前まで術中に囚われていたことを思えば、身体は自ずと冷えて行く。


「聖なるミケ・・のお導きに従って還りましょう、さあ」


 一通りの説法を終えたらしいイチイは、ゾッとするくらいに心地よい声音で信者たちに呼びかける。既にある種のトランス状態に陥っている信者たちは、恍惚とした表情を浮かべながら、あるいは涙を流しながら、一斉に祈祷を始めていた。

 数百人もの信者たちが見つめる先にあるのは、礼拝所の窓によって丸く切り取られた大樹のシルエットだった。


 十年前まで、東京天空樹スカイツリーと呼ばれていた構造物。今や教団の最重要拠点に指定されている、全高600m超の世界最大樹ミケ・・

 名称の由来は未だに不明。

 真夜中の墨田区にそびえ立つ大樹は、生い茂らせた葉をボゥっと輝かせている。槐の呪いによって木質化したかつての電波塔は、崇拝の対象だ。


はらえ給い、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え」


 一心不乱に唱え言葉を口にする者たちに倣い、幻也ゲンヤもまた同じ方角を向いて手を合わせる。

 幻覚剤の作用が切れかけていてもなお、かなえは膝上に座っていた。その肌ざわりさえ感じられない身体をすり抜けた両手は、いつしか冷たい汗で湿っている。

 それは、じきにかなえが消え去ると分かっているからか。こうして繋いだ小さな手が解けてしまった時、もう一度別れを迎えると悟っているからか。

 そう、あの夜を繰り返すように。


「かなえもやりま――――」

「いいんだ、かなえはやらなくて」

 

 かなえが真似ようとするのは、見ていられずに止めさせた。

 幾重にも重なる祈祷の言葉。信者たちが息を吐き出すたびに、蒸し風呂と化している礼拝所は更に湿度を上げていく。

 いよいよ、礼拝の儀式はピークに達しようとしているのだ。

 幻也ゲンヤが注意深く辺りを見渡した矢先、ふらりと一人の男が立ち上がった。その周りからは、称えるように拍手の輪が広がり始める。


 ――――天啓を受けた者は壇上へ向かう。事前調査の通りか。


 ミケがもたらす天啓を聞くことは、教徒にとって最大級の栄誉とされている。壇上へ向かおうとする信者はまさに、その奇蹟を成し遂げた聖人そのものなのだ。

 ステージの上に立つイチイも、彼を待ち受けるように両手を広げている。


「おぉ……今宵も遂に現れました。どうかこちらへ」


 壇上に登った男は、おぼつかない足取りでイチイの下へ辿り着いていた。固唾を飲んで見守るとはまさにこの事か、礼拝所はしばし異様な期待で静まり返っている。

 これから何が起こるのか。

 あの男はどうなるのか。

 幻也ゲンヤもまた、男と何やら会話を交わしているらしいイチイの一挙手一投足から目を逸らせない。


 直後、男の首がこちらへ飛んで来た。


 文字通りの意味だった。イチイがひょいと振り下ろした腕の軌跡に沿って、男はすっぱりと首を刎ねられたのだ。

 勢い余って数十mもの距離を飛翔した首は、幻也ゲンヤの数列後ろの床へと叩き付けられる。バウンドする度に聞こえて来るべき衝突音は、やがて熱狂的な拍手の中でかき消されて行った。


「ぱぱ、今の音……?」


 かなえの角度からでは、今の光景がよく見えていなかったらしい。きょろきょろと辺りを見渡そうとするかなえは、何が起こったのかも分かっていない。

 その間にも、壇上からはパキパキキという音が聞こえ始めていた。

 首から上を喪った男の身体は、瞬く間に内側から突き破られて行く。えんじゅの呪いを受けた身体は木と化し、すっかり原型を留めていなかった。


「槐兵だ」


 そこに呪操槐兵がいる。ステージ上で何が起こったのかを理解した途端、幻也ゲンヤの顎からは冷たい汗が滴り落ちて行った。

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