ep24/36「約束」
迷宮のように連なった地下空間。庁舎地下の戦場を見渡してみると、通路の先は傷だらけの黒い腕に塞がれていた。
〈
「屋内専用の鉄蜘蛛か、だがな……ッ!」
神木製装甲は、降り注ぎ始めた5.56mm弾頭をも弾く。
通路の先から上がる悲鳴。突風を伴う衝撃の後に、道が開ける。
「ヨノマモリヒノマモリオオイナルカナケンナルカナイナリヒモ――――」
道の先には、いくら走っても近付けないかなえの幻が見える。今にも決壊しそうな感情で歪むかなえの表情は、悲痛な声と共に心を締め上げる。
『ぱぱ、もういいのです。来ないで』
銃弾を身に浴びて走る。
『いたそうです。だからもう……もういいよ、ぱぱ』
ずるりと血まみれの手を引き抜いた途端に、
だが、男は止まらない。
膝から下が吹き飛んだ脚をかばいながら、代わりに生えて来た根で体重を支える。走る。すかさず応射して敵を撃ち殺す。
『かなえが……っ、かなえがいるからぱぱはいつもいたそうなの? かなえはもう、くるしそうなぱぱなんてみたくない……!』
とうに退き返せないほどに木質化が進んだ身体を引き摺り、
「人間でいたいなんて端から思っちゃいなかった……どうでもいいんだよ、そんなことは! 俺は変わったっていい」
十年前と変わらずパパと呼んで貰える、ならばどんなに堕ちて行こうとも恐れる事など無い。
戦場を行き交うのは、自らの人の道を外れつつある一人の男、そして黄泉を踏み越えた死人たち。
飛び交う5.56mm弾頭を物ともせずに突進する死体は、視界に入るだけでも10体は下らない。
起爆。自らの周囲に固めた肉壁で爆発を凌ぎながら、
「道を、開けろ!」
敵の手札である死体と、
肉塊と肉塊が粘着質に絡み合い、原型を失っていく地獄を横目に
鉄蜘蛛もまた、死体などには脇目も振らずに迫って来る。
「パパはな、ずっと逃げていたんだ」
『にげていた……ぱぱが、ですか?』
「パパは弱いから、だからずっと大事なことを聞けなかったんだ。それで全部が無駄だったと分かるのが怖くて、聞けなかった」
かなえが何処かに一人で取り残されているというのなら、救ってやりたい。
そんな想いを抱いている限りは、あの夜に見た異形の少女はかなえであって、それを助けたいと願う自分は
本当の娘ではない事くらい、もう分かり切っている。
それでも
「たとえ全部が嘘だって良いんだよ、かなえ」
植え付けられた記憶の中で、親子だったと信じ込まされていた。たとえそれが真実だったとしても、かなえとの再会を望む自分は確かにここに居る。
もはやそれだけが、唯一確かな真実だった。
弾けるようなかなえの笑顔、笑い掛けてくれたあの記憶が偽りで無いのなら、それ以外は全てが嘘だろうと構わなかった。
だから、かなえが泣いている事だけが、今は辛い。
「だからかなえ、そんな顔はしないでくれ。パパはかなえに救われて来た、きっとここまで来ることだって出来なかった。だからな……だから、聞かせてくれ」
たった一言、言ってくれさえすればいい。
その一言さえあればもう何も恐れることは無い。
赤く、黒く、もう二度とあの夜には戻れぬほどに醜く汚れ切った手を、殺意の雨に逆らうように差し出す。
「また、パパと手を繋いでくれるか?」
『かなえは……かなえは、ぱぱと一緒に――――!』
「分かった。もう手を離したりしないよ」
それだけで十分だった。
もう一人になんてさせるものか、そう決意出来たならもう恐れるものなど何も無い。生霊となってまで会いに来てくれたかなえを、今度は迎えに行く番だった。
「約束だ」
木質化した身体といえども、もう敵を止めることは出来そうになかった。
通路のあちこちから小型の鉄蜘蛛が溢れ出し、もはや逃げることも進むことも叶わない。包囲網が完成し切った地下迷宮の只中で、
戦っても勝ち目はない、と彼は理解する。
そして懐から抜いた拳銃には、たった一発の弾が装填されていた。
「もう、これ以上待たせたりしない」
たとえ心臓が鼓動を止めようとも。
* * *
大規模な電算システムが整備された地下フロアに、犬山はたった一人で佇んでいた。
壁面にびっしりと張り付けられた呪符により、結界化された閉鎖空間。モニターの薄明りが支配する大部屋の只中にあって、その視線は一点に注がれる。
「今、動いたのか」
犬山が見つめるモニターには、呪物を封じる凍結槽の映像が映し出されていた。まるで眠るように瞼を閉じた少女の姿は、リアルタイムの監視映像に他ならない。
零下198度まで冷却された超低温の棺。
液体窒素に漬け込まれた少女型の呪物は、今や意識さえ保てていないはず。だというのに、先ほど僅かに口元が動いたような気がしたのだ。
――――気のせいだ。
犬山は一旦外した眼鏡をかけ直し、息を吐く。
部屋の外から聞こえて来る戦闘音もすっかり静まり返り、今はサーバーの冷却音以外に何も聞こえてこない。
じきに状況も分かる。犬山は形容しがたい想いに駆られるままに席を立っていた。
「裏切り者には死を、か。お前も呆気なかったな」
そして、後頭部に冷たい違和感を覚えた。
犬山はそれだけで全てを察すると、ゆっくりと両手を上げて行った。暗転したモニターには黒い人影が映り込み、既に背後で拳銃を突き付けられているらしいと分かる。
「
「先に裏切ったのは俺か、それともお前なのか」
「今さらどうでも良い事だ。だが、一体どうやってここまで来た」
鼻孔を刺激する血臭は、犬山もようやく感じられるようになっていた。自分が術中に嵌められていたのだ、と今さらながらに理解が及ぶも既に遅い。
そして、
白髪と化した
「参ったな。
「ここの鉄蜘蛛たちが標的にしていたのは、俺の心臓の鼓動だったからな。だから自分で止めて感知を潜り抜けた」
「そして死んだ心臓に呪いをかけて、自分でまた動かしているという事か。魂呼ばいをそんな事に使う奴は初めて聞いたよ」
魂呼ばいを使えば、死体を再び駆動させることが出来る。一度死んだ心臓だけを動かすことも、確かに理論上は可能なはずだった。
常世の一線を越える事で、
後頭部に突き付けられた銃口が、静かに押し込まれる。
「鉄蜘蛛を止めろ」
「無理だ、私が死なない限り止まらない術式を組んである」
「……止めてみせろ」
「悪いがテロリストの要求には答えられない。そういう仕事だからな」
両手を上げる犬山、銃を突きつける
懐から拳銃を抜こうとした犬山は、しかし、間に合わずにその場で倒れる。撃たれた四肢からは徐々に新芽が吹き出し、骨をも砕いて肉体を侵して行く。
「ぐ……ッ」
「
「拷問のつもりか……随分と悪趣味な手を使う」
「早く楽になりたかったら質問に応えろ」
槐の呪いに神経を侵される激痛は、末端から四肢を切り刻まれて行く痛みにも等しい。額に脂汗を浮かべる犬山は、既に
裏切りの友が死ぬまでに、そう時間は無い。
それでも
「さっきはどうして撃とうとした、間に合わないと分かっていただろう」
「……そうだったな。警察学校に行っていた時だって、拳銃の実射訓練では一度もお前に勝てなかった。懐かしいよ」
「だったら、何故……!」
「お前はもう槐兵の
もう何年も前に交わした誓いが、
せめてこの力は人の為に使わなければならない、と。犬山が口にした言葉はようやく理解の及ぶ想いとなって、微かに銃口を震わせた。
「憶えているか、私は呪術というやつが嫌いなんだ」
「ああ、憶えているとも」
「〈神薙〉は呪術を否定する為のシステムだった、その為に〈
同じ道を進むはずだった男と、いつしか道を違えてしまった。何故だという問いにもはや意味がないことは、
方や呪術を否定する為に呪術を用い、方や心臓を動かす為に呪術を用いる。そんな皮肉が起こり得る魔都に、あるいは二人とも呪われていたのかも知れなかった。
嗤うように口元を歪める犬山は、咳き込むと共に血を吐き出す。
「とっとと……っ、質問、しろよ……答えよう」
「分かった。先ず一つ、俺は誰だ」
「お前は呪操槐兵〈
「そうか」
アラトが示して見せた真相と、犬山が語る内容に相違はない。被験体五号として試験に送り込まれたのは、もはや疑いようもない事実に違いなかった。
「そして二つ目、かなえには何が起こった。何者なんだ」
「あれは槐兵によって殺された娘の魂が、何らかの干渉を起こして神木に憑いたものだ。魂は本人の物だから、かなえという娘の人格も記憶も残っている。結局、
「どういう意味だ」
「すぐに分かる……〈
呪操槐兵〈
イチイが復活させようとしていた奇跡の人型、すなわち森羅。その響きは思わず
「あの娘と生きたかったら、決して奴らにかなえを渡すな、東京が森に沈む前に〈
「何のことだ、もう一人だと」
「私が疑似神呪兵装なんていうものを作ったのも、全ては〈
「犬山!」
犬山の口元からさらに血が零れ出す。眼鏡の奥で既に光を失いつつある瞳は、もはや
全て自分がやったことだ。
「――――社会が定めた理から外れ、誰も裁けないのが呪術というやつだ。だが、それは同時に、肥溜めみたいな社会の枠を超えて、己の願いを貫く力にもなる……あれはきっと、ある種の奇蹟なんだと思ったことはないか」
「でも、限界はある」
「やろうと思えば何だって出来るさ、お前と〈
もはや掠れて聞き取るのも難しい犬山の声は、しかし、決して忘れられぬほどに深くまで刻み付けられる。
そして、これが最後のやり取りになるのだろうと予感し、
「
「ああ、恨むとも。外道は地獄に落ちるべきだ――――俺もすぐそちらに行く」
「それは仏教だろうが……でも、そうか、そうだな」
死体を弄び、人を呪って来たのだから、きっと死後に堕ちて行く先は同じに違いなかった。それは黄泉か、あるいは根の国か。
どこか満足そうな表情を浮かべる犬山は、既にあちら側へと渡ろうとしているのかも知れなかった。
「だから犬山、
果たして、犬山にはその言葉が聞こえていたのかどうか。だが、僅かに見開かれた目は力なく閉じられて行き、血まみれの口元はうっすらと弧を描く。
静かに撃鉄が起こされた後、銃声が響いた。
これまで数々の呪術を操って来た男を撃ち抜いたのは、一発の
「またいつかな」
懐から取り出したマルボロの一本を、足元に捧げる。
黙して動かぬ友を背に、
* * *
白髪となった
犬山の死に連動してか、あらゆる物理的/呪術的施錠は解除されていた。
ひときわ分厚い鉄扉の前に立った
――――かなえ。
両腕を切り取られた、あまりにも懐かしいその姿。
かなえを目にした途端に、全身が打ち震える。
もう躊躇いなどなかった。零下198度の極寒に手を突き入れた
腕に感じるのは一人の少女の重さだった。かなえだった。ほんの数十cm先の寝顔をよく見たかったのに、視界は我知らず滲み始める。
喉から絞り出そうとした言葉は、掠れてようやく形になった。
「やっと……会えたな」
かなえを覆っていた葉は、まるで硝子細工のようにぱりぱりと砕け散って行く。繊細なツルと葉で織り込まれたワンピースは徐々に緑色を呈し、腕そのものが春の新芽のように生え揃って行く。頭上を飾るシロツメクサもまた、若葉のごとくに芽吹き始めていた。
〈
守りたかったかなえが、腕の中にいる。その圧倒的な事実だけが
何を伝えれば、いいのだろう。
心が固まり切らない内に、視線の先ではゆっくりとかなえの瞼が開けられて行く。寝起きの気だるさを帯びた瞳は、どこまでも深い緑色の中に
ふっ、と瞳が揺らぐ。
父と娘の視線が交錯する。
次の瞬間、何かを考えるよりも先に、
もうそれだけで十分だった。
言葉さえ無い。長い、長い数秒が過ぎ去っていった。
「ずっと待っていてくれたんだな」
「……うんっ」
「守ってくれていたんだよな」
孤独の中で十年も待たせてしまった。気付いてやることさえ出来なかった後悔が、
かなえに出会えてから、きっと何もかもが変わってしまったのだ。
歩めなかった明日を、今度こそ共に歩きたかった。
溢れ出す想いは、積年の懺悔となって零れ出る。
「ごめんな、ごめんな……かなえ」
「かなえ、ぜんぶみていました。ぱぱ、来てくれてありがとう」
背中に回されたか細い細腕に、ぎゅっと力が込められる。ありがとうの一言で、これから起こる全てを背負っていける。そんな気さえした。
明日は、かなえと一緒なのだ。
明後日も、きっとその先も。
たったそれだけの事実が希望となって、昨日までの日々を生き続けて来た意味となる。それはこの十年間で初めて、まだ見ぬ未来に希望を抱いた瞬間だった。
「じゃあ行こうか。これからはずっと一緒だ」
「はい……っ!」
「今日はもうおやすみ、かなえ」
かなえを抱きかかえた
じきに朝が来る。
今はただ、おはようと言える瞬間が待ち遠しかった。
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