ep23/36「ことば」

 吹き飛ばされた鉄扉を潜れば、幾重もの銃火が幻也ゲンヤを出迎える。

 庁舎の地下に広がる閉鎖空間は、幾つものシェルター構造が複雑に連なったある種の迷宮だ。背後から追い上げて来る銃声から逃れつつ、アサルトライフルを構えた幻也ゲンヤは非常灯の下を走り続ける。


「後ろから5、前に4、まだいるか」


 セレクター切り替え、三点バーストからフルオートへ。

 すかさず発砲。柱の陰に身を隠す幻也ゲンヤは、銃だけを乗り出させるような格好で牽制射を放っていた。


 狙いもろくにつけていないフルオート射撃に当たるような間抜けなど、公安霊装にいる訳がない。一線級の戦闘訓練を受けた者に相応しく、追って来る敵は動揺も見せずにこちらへと撃ち返して来る。

 幻也ゲンヤは懐から手帳サイズの札を取り出すと、壁に張り付けていた。直後に駆け出した彼の背後からは、狭い空間を切り刻むほどの火線が伸びて来る。


 ――――そうだ、追って来い。


 札を張り付ける、駆け出す。

 また張り付ける、そして撃ち返す。

 そうして二三回の銃撃戦を繰り返した後に、幻也ゲンヤは突き当りになっていると知りつつも袋小路へ足を踏み入れる。背後に向けて投げ入れた手榴弾は緩い放物線を描き、かん、こん、と床をバウンドした後に起爆を果たしていた。


 召喚術式、起動。

 ただの手榴弾では無い。鉄片と共に撒き散らされた犬神は、咄嗟に遮蔽物の影に身を隠した者にさえ襲い掛かる。霊獣相手に物理的遮蔽だけでは無意味だった。

 即座に一人がその場で呪殺される中、対処法を熟知している者たちはなおも向かって来る。身代わりとして呪いを引き受けた人形札は、一斉に燃え上がっていた。


「まだだ」


 追って来る敵を見据えつつ、幻也ゲンヤの指は空を切る。

 公安の一個分隊5人は、既に自らが迷宮に脚を踏み入れているとは気付いていない。地上一階に控えさせた〈御霊みたま〉からのジャミングは、効力を発揮しているようだった。

 そして召喚術式、更に起動開始。


「喰らえ」


 跳弾の火花に混じって、なにかゆらりと輝くものが通路を埋めた。突如として壁から噴き出した陽炎は、少なくとも二十匹の犬神に他ならない。敵が足を踏み入れた途端に、張り付けたトラップが作動したのだ。

 男たちに襲い掛かった犬神は、耳孔から体内へと飛び込む。

 代わりに呪いを引き受けた人形札がパッと燃え上がり、未だに無事な男たちは撃ち返して来る。が、それよりも一瞬早く撃ち込んだ徹甲弾が、次々に男たちの臓腑を貫いて行った。


「排除完了」


 撃ち殺した死体を跨ぎつつ、幻也ゲンヤは魂呼ばいの呪言を唱えていた。背後でふらりと立ち上がった死体たちを引き連れて、彼は再び銃火に身を晒す。

 こんな手は、プロ相手に二度も三度も通用する訳がない。

 数歩前を走る死体に隠れて弾倉交換、即座に三点バーストを敵に向けて叩き込む。幻也ゲンヤはかつての公安時代を思い出しつつ、リコイルの感触に心を委ねていた。

 死体が削られる度に飛び散る血肉は、全身を赤黒く濡らして行く。


「……ぐっ!」


 射線がぶれる。発射反動に暴れるアサルトライフルを支え切れなくなり、幻也ゲンヤはその場に膝をついた。

 一度に五体もの魂呼ばいは、心臓に掛かる負担が尋常ではない。

 幻也ゲンヤは銃撃で徐々に削られ始めた死体に隠れつつ、なんとか床を這って物陰に身を隠していた。全身に浴びた返り血、そして滲んだ脂汗を拭う間もなく捲り上げた左腕には、緑色のつる植物が巻き付いている。


 ――――クソ、抑えきれないか。


 意図しない術の行使、並びに暴走現象。

 それこそが贋作の祝詞デザイナー・スペルの最大の欠点だった。バックグラウンドで常に術を行使し続ける結果として、リソースたる体力と気力はみるみる内に奪い取られて行く。

 行き着く先は衰弱死だ。幻也ゲンヤは腕から伸びたつるを皮膚ごと引き千切ると、彫り込んでいた入れ墨ごと術を消し去っていた。


「……ッ!」


 束の間、脳髄がぐらりと攪乱される。

 強引極まりない方法で術の行使を止めたのだから、行き場を失った呪いが体内を巡るのは必然だった。体内に潜り込んだ呪いが末梢神経を侵し、視界がちらつくほどの痛みで喉元を締め上げる。

 二秒後、彼は再び握り込んだライフルを敵兵の下へ向ける。死体の合間から突き出した銃口の先で、少なくとも1人の敵がうつ伏せに倒れた。


「急がないと、いけない……ってのに」


 幻也ゲンヤは焦りに身を焼かれつつ、通路に充満する血臭を吸って走り出す。銃声と詠唱が絶え間なく反響する通路は、それ自体が異界へ至る道のようにも感ぜられていた。

 死体と肩を並べ、生者の命を奪って行く。

 ここではない何処かへと、一歩ごとに下って行く。

 いつしか坂を下るような感覚に呑まれていた幻也ゲンヤは、既に自分が何かに照らされていることに気付いていた。贋作祝詞に起因する不安定性によって、あの日の記憶と現実の光景が融け合い始めている。


 月だ・・

 地下で撃ち合っていたはずなのに、頭上から注いで来た月光が道筋を照らす。靴底とアスファルトが擦れ合う音さえ聞こえて来ると、幻也ゲンヤは目の前の景色に重なり出した幻を受け容れて行った。

 嫌というほど夢に見たこの景色は、十年前にも通った道だ。


「そんなはずは無いのにな」


 ほんの数百m先には、とぼとぼと一人で夜道を歩く少女の姿も見えている。あの夜に通ったはずの道を、かなえがたった一人で歩いているのだ。

 あまりにも出来過ぎていた。象徴的な光景に過ぎないという事も分かっていた。それでも幻也ゲンヤは辺りに牽制射をばら撒きつつ、その小さな背を追う。


 横合いから飛び出して来る敵を、物陰から撃って来る敵を、夢幻に浸りつつも的確に撃ち殺していく。

 当然、あの日にはこんな敵などいなかった。

 地下に降り注ぐはずもない月光に照らされながら、この手に掛けているのは紛れもなく現実の人間だった。こんな所にいるはずもないかなえを追って、血濡れの幻也ゲンヤは白昼夢の只中に銃弾を撒き散らして行く。

 息が切れるほど急いでいるのに、かなえの背は未だ遠かった。


『ぱぱ、どこにいるのですか?』

「かなえ!」

『どこです……?』


 かなえは不安げな眼差しを辺りに向けると、前へ前へと進んでしまう。他ならぬ幻也ゲンヤを探しているようだったが、姿に気付く素振りはない。

 だが、声だけは届いているらしかった。

 幻也ゲンヤはそう信じて、なおも走る。

 撃ち殺すべき敵は絶えなかった。あの夜はただの通行人だった者でさえ、記憶にある姿そのままで銃を撃って来る始末だ。


『かなえのところまで来てくれるのですか』

「ああ、すぐ近くにいるよ」

『ねぇ……みえないよ、ぱぱはどこなのですか』


 仮初めの空には八咫烏が舞い、夜道は絶え間ない銃火に貫かれる。

 一射、敵兵が倒れる。

 一射、カバーに入ろうとしていた敵を退ける。

 硝煙を裂きながら、ライフルを構える幻也ゲンヤはクリアーになった進路を突き進む。もはや鉛と化した脚を動かして、彼は進めば進むほどに遠ざかるかなえの背を追っていた。


「待ってくれ」


 あともう少し。もう少しで会えるかも知れない、と感じたのはこれで一体何度目のことだっただろうか。幻也ゲンヤは掠めた火線に構う事も無く、がむしゃらに足を動かし続ける。

 心に根を張るのは、否定するべくもない妄執だった。

 現代呪術戦という名の狂気に身を浸していれば、いつかは現世うつしよ常夜とこよの狭間を踏み越えられるのではないかと。死んだはずのかなえにも会えるのではないかと、心のどこかで縋るように信じている自分がいた。


 それは弱さだった。

 結局のところ、かなえの死に向き合えなかったのだ。

 そして、それは滑稽な事だと囁く自分がいる。数え切れない者たちを殺して来たというのに、たった一つの死を認められなかったのだから。


「かなえ、待ってくれ……!」


 あと数十m。どこまでが現実かも分からない夜道を走り、汚れ切った幻也ゲンヤは喉が千切れんばかりに声を張り上げる。

 あるはずもない街灯に照らされる腕は、べったりと血に濡れている。入れ墨ごと引き剥がした皮膚は失われ、肉が赤黒い漆器のようにてらてらと艶めいていた。

 そんな己の手を目にした瞬間、不意にゾッとした。


 ――――こんな手で触ったら、かなえを汚してしまう。


 幻也ゲンヤは唐突に湧き上がって来た悪寒に絡め取られ、力なく歩調を緩めて行った。

 この腕に詰まっていたのは、これまで重ねて来た罪の色に他ならない。たかが薄皮一枚剥がしてしまえば、裏切りと殺しで醜く汚れ切った血肉が露わになってしまう。そう気付いてしまったから、それ以上進めなくなっていた。


 ――――俺はこんな姿でかなえに会って、どうするんだ。


 かなえが何を望んでいるのか。

 何を思って、何を探しているのか。

 ほんの数十m先に佇む少女が遠い。求め続けて来た彼女は、今や果てしなく遠くに立っているように感ぜられる。


「こんな事、かなえは望んでいるのか」


 もしも望まない事ばかり積み上げていたのだとしたら、どうだろう。

 これまで片時も忘れる事の無かった娘のことを、実は何一つ知らない。その事に気付くと、汚れ切った身を晒すのが不意に恐ろしくなっていた。


「俺にもう一度……かなえの前に立つ資格があるのか」


 あるはずがない。

 無い、とも認められない。

 ほんの一瞬、その場に立ち竦んでしまった幻也ゲンヤの耳朶を、断続的な銃声が叩いて行った。ふらりとその場に倒れ込むまま、灼熱する腹部に手を当ててみれば、掌にはまだ酸化されていない新鮮な血色がこびり付く。


 撃たれていた。

 倒れ伏した衝撃で、辺りには何枚もの札がばら撒かれる。すっかりくたびれたコートの襟元からは、かなえを映した写真もはらりと舞い落ちて行った。


「なに、やっているんだろうな……こんなところで」


 弾薬も呪符も足りていた。かなえの前に身を晒す、そのほんの小さな勇気だけがどうしようもなく足りていなかったのだ。

 遠くからの発砲、気付けばまた撃たれていた。

 激痛に射抜かれた身体は失血で痺れ、すっかり酷使した四肢は束の間の休息を喜んでいるかのよう。何処かから撃たれる度、片目の視界は端から徐々に狭まって行く。

 十年前の夜と重ね合わされた景色は、まるで走馬灯の前借りだった。


「なんだ……今夜はずっと、走馬灯の中で戦っていたっていうのかよ。俺は」


 本当に幻也ゲンヤが死んだのかどうか、それを確かめる為に兵士たちが近づいて来る。が、まだ死んではいない。幻也ゲンヤは感覚の消え失せた腕を、写真に向けて伸ばそうとしていた。

 指が写真を掠める、力なく掴み上げようとする。しかしその度に指先が血で滑ってしまい、もはや数十cm先の写真一枚掴むことさえ叶わない。


 ――――そうか、そうだよな。


 傷付き切った頬には、思わず皮肉な笑みが浮かんでいた。

 一人ぼっちのかなえ。ずっと寂しい思いをさせてしまっていた愛する家族。たまに会えば学校の事をあんなにも楽しそうに話してくれたというのに、普段はまともに話も聞いてやれなかった。

 仕事が忙しいから、時間が無いからと、言い訳ばかりして来たのだ。


「一緒にいてやれなかったから、罰が……当たったのかもな」


 確実な死が迫っている、今もそうだ。

 写真の中で笑っているかなえと、任務の果てに出会ったかなえが、果たして同じ人物かどうかさえ知らない。一縷の希望を潰えさせたくないからと、向き合うべき事実から卑怯にも目を背け続けて来た。

 今や四方からやって来る足音だけが、向き合うべき未来を示してくれる。

 それでも、この期に及んで知りたかった、かなえの事が。


 ――――今日は、こんなに寒かったのか。


 勝手に身体が跳ねる度、銃弾を撃ち込まれたのだと悟る。

 まるで全身を浸すように、辺りには赤い水たまりが広がって行く。肌は血潮に温められているというのに、身体の奥は氷を埋め込まれたかのように凍えていた。実際には鉛の弾だというのが信じ難い。

 まばたきさえ億劫になって来た眼を開ければ、その先にはかなえの姿が見える。


 ――――きっともう、あそこまで声は届かないな。


 そう思った途端に、心を張り詰めていたものが溶け去って行った。もう虚勢を張る必要もないのだと思えば、胸の裡には何故か安堵感さえ湧き出して来た。

 ずっと考えて来た事があった。これまで口に出すことさえ恐れ、目を背け続けて来た問いが、遂に口から零れ出して行く。


「かなえ、お前は……今のかなえは誰なんだ・・・・


 かなえの未来を奪った仇を殺した。

 かなえと歩む邪魔をする者たちを殺して来た。

 たとえその先に続く明日が見えなくとも、殺しを重ねる度に呪いが身を蝕もうとも構わなかった。何もかも、あれ・・がかなえであるのかも知れないと、心のどこかで願い続けて来たからだ。

 だから確かめなかった。確かめられなかった。


「俺は知りたいんだ……もう逃げたりしない、だから……な」





 だから、聞かせてくれ。

 かなえの事を。





 今さら届くはずもない願いが、掠れる吐息と共に吐き出される。そしてゆっくりと細められていく視界の中で、幻也ゲンヤはふと何かが蠢いたように感じた。

 呪符だった。

 倒れた拍子にばら撒かれ、血を吸い上げて赤く染まった札の数々が、幻也ゲンヤの周りでひとりでに舞い始めているのだ。ちょうどその周囲に茂り始めた草花は、彼に止めを差すべく迫る兵士たちさえ追い払っていた。


 ――――なんだこれは。


 幻也ゲンヤの目の前で、呪いを刻まれていた札が勝手に書き換わって行く。

 呪言改竄。外部から呪いが注がれた時に起こるべき現象が、今や術一つ使えない男の至近で起こっていた。

 全身に彫り込んだ入れ墨を介してか、あるいは肉体から魂が引き剥がされつつあるからか、この期に及んで術が暴走しているらしい。幻也ゲンヤはそう悟ると同時に、目の前で起こりつつあるちっぽけな奇蹟に眼を見開いて行った。


 術を発動させているモノは何なのか。

 まさにその答えが、眼前の血池に浮かんでいる。


 ――――まさか、写真なのか。


 札と一緒にばら撒かれていたのは、かつてこの手で撮ったかなえの写真。そして写真という媒体に封じ込められていた、ほんのわずかな魂の欠片だ。

 ごく僅かな魂の断片は、流れ出した血液と入れ墨を介してちっぽけな呪いを生み出しつつあった。呪言を記していた筆文字はつたない平仮名に上書きされ、幻也ゲンヤにありのままの言葉を届けて来る。


『かな…は、ずっと……いばし…ねむって…………た』


 逆流した思念によって、呪文が書き換えられている。

 かなえの想いが、呪符の上に浮かび上がって来る。

 幻也ゲンヤは言葉も無く、己が身体を呪具として熾しつつある奇蹟を見守っていた。まるで途切れ途切れの日記のような言葉が、次々に札に浮かび上がっては霞む視界を埋めて行く。


『かなえは、ずっとくらいばしょでねむっていました。かなえはかなえのことがわからなくなって、おなまえもおもいだせなくて、ずっとくらいばしょにいました』

『とてもかえりたかったけど、おうちもわかりませんでした。ぜんぶおもいだせませんでした』

『さみしかったけど、だれもいませんでした。かなえはひとりぼっちでした。ひとりは、さむいからいやなのです』


 あの夜、目の前で轢き殺されたかなえは、何の因果か本殿の奥深くに祀られていた。その間自分はずっと眠っていたのだと、かなえは語っている。

 その果てしない孤独だけが、文字を通して伝わって来る。


『けど、あのとき、ぱぱがおこしてくれました。「いっしょにかえろう」っていってくれたから、やっとおもいだしたのです』

『ぱぱがかなえってよんでくれたときに、やっとわかりました。かなえはかなえだったって。ぱぱがいたんだって』

『ぱぱはすごいです。かなえがさみしいときにいつもきてくれます』


 本殿で出会った夜、また全てが始まった。

 現世の向こうでまた逢えるのならと、ただそれだけの奇蹟を願って進み続けて来た。かなえを殺したかもしれない槐兵〈御霊みたま〉と共に。


『かなえはとてもうれしかったです。それからなんどもぱぱのところに行こうとしたけど、なかなかできなくって、なにもできなかったです』

『でも、ぱぱがむかえにきてくれたから、これからはずっといっしょだっていってくれたから、きっともうだいじょうぶです』

『ぱぱは「よわくてごめん」っていっていたけど、かなえはそうはおもいません。だってぱぱは、つよいぱぱです。かなえのことをまもってくれるから』


 礼拝所へと潜入したあの夜、かなえは生霊となってまで会いに来てくれた。

 かなえは信じてくれているのだ。今もこの自分を。

 幻也ゲンヤはすっかり冷え切った身体の深奥に、ほんの僅かな火が熾るのを感じていた。視界に映り込む拙い一文字一文字が、全身に彫り込んだ入れ墨が、形式化不能な呪文となって血管を巡って行く。


「俺はな……強くなんてないんだ」


 それが、何の言い訳になるというのか。

 既に致死量の失血を迎えたはずの身体は、しかし、現に呪いの茂みの中で立ち上がりつつあった。槐の呪いに侵された内臓は植物性循環を始め、筋繊維は槐兵と同等のモーターとなって黄泉がえって行く。


「俺は、何の為にここまで来た」


 この十年間、生きて来たのではなかった。

 ただ、死んでいなかっただけだった。生きていたくなくとも心臓は止まってくれない。それでも今この瞬間まで動き続けて来たのは何故なのか、その答えをようやく感じられる。

 更なる呪いが加速する幻也ゲンヤの身体は、まるで植物が水を吸い上げるが如くに血を取り戻していった。人体の限界など知った事ではない。


「かな、え……ッ!!」


 一人の、あるいは一匹の父でありたい。

 願うのはそれだけだった。

 幻也ゲンヤは遂に立ち上がると、喉に詰まった血を吐き出しながら叫ぶ。その視線の先を歩んでいたかなえは、初めて止まってくれていた。


『ぱぱ? そこにいたのですか……!』


 振り返ったかなえは、言葉を継げないままに横断歩道で立ち止まる。その姿を目にした幻也ゲンヤは、意識が眩むほどのフラッシュバックに襲われていた。


 ――――この次に起こる事を、俺は知っている。


 かなえは死ぬ。見えざる槐兵に轢き殺されて、死ぬ。

 もう起こった事は決して変えられない。それでもあの夜と同じように未来が断ち切られようとしているのなら、やるべき事は一つだった。

 ふと、懐にしまい込んでいたものが不意に重みを増す。十年前には想像だにしなかった力が、この結末を塗り替えてみせろと叫んでいるようだ。


 幻也ゲンヤは辺りに転がっていたライフルを拾い上げた。未練がましくグリップにしがみ付いていた敵兵の手首を投げ捨て、その手は血に濡れた銃を構える。


「覚悟は、出来てる」


 着火された煙草が、残り火を帯びて宙を舞う。

 空間が急速に粘り気を増し、煙草が散らした灰の一片さえ静止するその一瞬。永遠にも思える微小時間の中で、ただ一発の銃声が響き渡った。


 弾丸に貫かれ、千々に吹き飛ばされたはずの煙草から、視界を埋め尽くさんばかりの彼岸花が溢れ出して行く。

 焚焼符法ふんしょうふほう、略式召喚術式起動。

 狭い通路を暴力的な風圧が吹き抜ける。あの夜には有り得なかった巨人の姿が、悪夢を塗り替えるように花吹雪の中から抜け出そうとしていた。


「もうあの日とは違う! それを……ここで俺と証明してみせろオォッ、〈御霊みたま〉!」


 一帯に轟き渡った衝撃波が、まるで津波のように粉塵を巻き上げる。やがて薄まり始めた煙の向こうに、深紅に艶めく銅鏡カメラアイの反射が見えた。

 〈御霊みたま〉と、〈御霊みたま〉だ。

 かなえを轢き殺さんと迫っていた槐兵を、もう一機の槐兵が受け止めている。二機が身動ぎする度に漆塗りは剥がれ、せめぎ合う馬力が大気を震わせた。


「あんなことはもう繰り返させない」


 この世ならざる巨人たちが組み合う足元では、驚きに目を見開くかなえが力なく座り込んでいた。

 瑞々しい葉で織られたワンピースを纏い、頭に飾るのはシロツメクサの花冠。いつしか人ならざる姿へと変わっていた彼女は、それでも、紛れもない娘だ。

 もう二人ともあの時のままの姿ではいられない。

 それでもいいと、幻也ゲンヤは笑いかけていた。


「待ってくれ……なんて違うよな。かなえ、待っていて・・・・・くれ」

『でも!』

「今行く」


 幻也ゲンヤが一度瞬きをすれば、過去たる幻は晴れ上がっていた。

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