第32話 康代の心

 ドキドキしながら、ロバートの部屋から駆け出して来た。


 私は、リチャードと付き合っていて、ロバートは義理の息子になるかも

しれないのに、なぜ愛をささやいてくるのだろう。ロバートは、若くてみんなの人気者。これから先、色々な人と知り合い、もっと羽ばたいて行くだろう。


 リチャードは、年こそ離れているが、大人で私を優しく包んでくれる。仕事で忙しいとはいえ、いつも私を一番に考えてくれる。今週末はどうしても仕事で家を空けなければならないが、来週から始まる私の夏休みに合わせてラスベガスに連れて行ってくれると約束してくれた。


 リチャードの穏やかな愛と財力は、私に安らぎを与えてくれる。これ以上の幸せなどないはず……。


 燃えるような激しいパッションはないが、この安らぎこそが愛。



 リチャードは、何度か結婚に失敗しているが、どの女性も彼の財力に惹かれて近寄ってきたという。



◇ ◆ ◇


 私は、街角にあるコーヒーショップでバイトをしていた。そこに時々ふらりと一人でコーヒーを飲みにやってくる客がいた。それがリチャードだった。


 いつもカフェラテを頼む彼は、窓際の席に座るとただ外を見ながらコーヒーを味わう静かな客だった。もう何ヶ月もの間、ふと現れ、静かにコーヒーを味わっている。ある日、私は彼に声をかけた。


「いつもありがとうございます。先週から外のテラス席がオープンしましたのでよろしければご利用ください。窓からの景色もホッとしますが、今の時期は外の空気も気持ち良いですよ」


 それは、営業言葉であり、利用客へ何のこびもない一言だった。


「君は、いつもテキパキと仕事しているね。他の子達がペチャクチャおしゃべりしている時も君は来客を一番に考えて行動している」


「あ……ありがとうございます」

 

 この人、外を見ているだけじゃなく、ちゃんと私たち店員の行動も観察してたんだ。


「失礼だけど、君はこの仕事が本職なのかい?」


「いいえ、大学に通っています。ここの仕事はアルバイトです」


 二人が交わす初めての会話だった。




 ある日の来店時、彼はとても疲れている様子だったので、私は温かいおしぼりをコーヒーと一緒に手渡した。日本では普通のサービスでもここアメリカではそのようなサービスなどない。


「あの、春になったとはいえ、今日は寒いですよね。よろしかったらどうぞお使いください」


 彼は、驚いた顔でおしぼりを受け取ると、頬につけ


「ありがとう。今日の僕は、疲れた顔をしてるよね。君は、それをわかってこの温かいおしぼりをくれたんだね。君のような子がいつもそばにいてくれたらどれだけ心が落ち着くことか……」


 私はちょっと照れながら微笑むしかなかった。



 翌日も彼はやって来た。


「今度一緒に食事に行かないか? 昨日のお礼をさせてくれ」

 

「私、お礼されるようなことなど、なにもしていませんが……」


「お礼は、口実だよ。一度、君とゆっくり話がしたいんだ」


「でも……」


「こんなおじさんとは、一緒に食事できないかな」


「そ……そんなことはないです」


「じゃ、決まりだ。明日の予定は何かあるの?」


「明日は、5時までバイトです」


「じゃ、バイトが終わる時間にここへ迎えに来るよ」


 少し強引にデートの約束をさせられてしまった感はあるが、食事だけならと腹をくくった。



 翌日、バイトが終わる頃に彼は現れた。警戒心いっぱいの私を安心させるために彼が選んだ店は、バイト先からそう遠くないカジュアルなイタリアンレストランだった。二人連れ添って店に入ると、不思議なくらい店員が丁寧なもてなしで出迎えてくれる。少し違和感はあったが、気にせずに奥のテーブル席に着いた。



「そういえば、お互いのこと何も知らなかったね。僕はリチャード・スペード」


 無知な私は、リチャード・スペードという名前を聞いてもピンとくることもなく、彼との食事をはじめた。


 ここのお店の自慢はラビオリ。久しぶりに美味しい食事にありつけた私はつい笑顔になってしまう。貧乏留学生の私にとってレストランでの外食は久しぶりだ。リチャードが選んだワインはラビオリとチーズにピッタリと馴染んでいる。ワインの味などよくわからなかったが、優しくてチョッピリフルーティな酸味が私を心から酔わせた。


 美味しい食事をしながらの話は弾み、警戒心は解かれていった。お互いの自己紹介から始まり、たわいない話ですっかり打ち解けた私たち。


 この日から、時々デートをするようになったが、……彼が既婚者だとはこの時まだ知らなかった。

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