第53話 ガキの小さな手

「行くな」


 康代の手を掴み引き止める。振り向いた康代の目には涙が浮かんでいる。掴んだ手に俺は力を込めた。この手を離したら二度と会えなくなる。


 力強く握り締められた手を振りほどけず、逃げることを諦めた康代は、沈黙の後、言葉を選ぶように答えた。


「わかったわ。人目もあるし、この子のお昼寝の時間もあるから、うちで話しましょう」


 俺は康代の手を掴みながらガキに話しかける。


「肩車してほしくないか」


「うん。してほしい、してほしい! 」


 無邪気な顔で答えるガキの頭をなで、抱き上げる。ガキは肩車するとキャッ、キャッと笑いだす。


「わぁっ、すごい。ママ、見て、見て!! 」


「ロバート、足をバタバタしちゃダメよ。危ないわよ」


「ロバート、走るぞ。いいか、しっかりつかむんだ。の手を離すなよ」


「うん」


 ガキは、理解していなかったようだが、康代は目を見開いてフリーズしてた。


「ロバート」


「ママ、何か言った?」


 俺にはわかっていた。今のはガキを呼んだんじゃない。俺を呼んだんだ。俺は聞こえないふりをしてガキを肩車したまま、康代の住むアパートへと向かった。



◇ ◆ ◇


 二人が住むアパートは古い二階建てだった。


「びっくりしたでしょ。ここが私たちの住んでるアパートよ。おやつを食べさせたらお昼寝の時間だから、それまで待っててくれない? 」


「あぁ、大丈夫だ」


「ママ、今日のおやつはなに?」


「今日のおやつは、バナナケーキよ」


「ママのケーキおいしいから、いっしょに食べようよ。バナナケーキは、おじいちゃんのこうぶつだったんだよ」

 ガキが俺に抱きつきながら話しかけてくる。


「そうか。ママの料理は美味しいよな。一緒に食べるか」


 バナナケーキは親父の好物で康代がよく焼いていた。おじいちゃんとは親父のことなのか。


 ガキを囲んでバナナケーキを三人で食べる。古くて狭いアパートで食べるバナナケーキがこんなに美味しいのは、康代が作ったからというだけではないだろう。俺の横でパクパクと美味しそうに食べるガキが不思議なほど愛おしい。春の日差しが小さな窓から差し込んでいる。


「さぁ、ロバートは歯を磨いたらお昼寝の時間よ」


「ぼく、まだ眠くないもん。まだ遊びたい」


 ガキの頭をクシャクシャとなでながら、言い聞かせる。


「お昼寝して起きたら遊んでやるから、ママの言うことを聞け。いいな」


「お昼寝して起きるまで、まっててくれる? 」


「ああ、起きるまでまってるから心配するな」


「うん、わかった」


 ガキはリビングの隣の寝室へ康代と一緒に入っていった。ガキを寝かしつけるために康代も一緒に横になっているんだろう。二人の話し声が襖越しに聞こえてくる。


「ママ、ぼく……パパにあいたくなっちゃった」


「えっ、なぜ急にそんなこと言うの? ロバートにはママがいるでしょ。それにパパはお星様になったんだよ」


「だって、パパにいつも抱っこしてもらいたいんだもん」


 無邪気な言葉が胸に突き刺さる。唇を噛み締め、爪が肉に食い込むほど、握りこぶしに力が入る。


「待たせてごめんなさい」


 康代がリビングに戻ってきた時、俺は自分の感情を堪えきれなかった。


「どうして知らせてくれなかったんだ。俺は今でもお前を愛してる。ガキは俺の子なんだろう? 」


「そうね。今更隠してもバレちゃってるわよね。でもね、私たちにあなたという存在は必要ないの。父親があなただって、この子に一生言うつもりはないわ。だから、私たちのことは忘れて」


「何言ってるんだ。俺はお前とガキの面倒を見たい」


「ロバート、あなたには奥さんがいるし、会社のこともあるでしょう。だから、私達のことは忘れてほしいの」


「俺は、契約結婚したんだ。愛して結婚したわけじゃない」


「そうかもしれないけど、こんなことが知れたら大変なことになるわ」


「康代、一年待ってくれないか? 一年後にお前たちを迎えにくる」


「だめよ。あなたとは一緒になれないし、この子の父親だなんて思わないで」


 康代の目には涙が浮かんでいる。本心じゃないことくらい俺にだってわかる。ルイの言うことは本当だったんだ。


「さぁ、これで話は終わったわ。子供が寝ているうちに帰ってちょうだい。そして、もう二度と会うことはないわ」


「康代、俺たちの気持ちはどうなるんだ」


「バカね。今も愛し合ってるなんて思わないでよ。私は、愛し合った過去だけで十分なの。あなたを愛した過去は捨てないわ。捨てたらロバート《子供》の存在まで否定することになるから。でも、今の私にはあの子さえいれば生きていけるのよ。だから、私たちの事など忘れてあなたは自分の人生を生きて」


「お前たちの存在を忘れろと言うのか?」


「そうよ、それが私たちの運命ディステニィなのよ。わかったら、もう帰って! 」


 

 俺はがっくりとうなだれ、追いやられるように席を立ち、玄関まで見送られる。事実をねじ込め、割り切れというのか。


「ヤスヨ」


 狭い玄関の壁際に来た時、抵抗する暇すら与えない速さで康代を抱きしめ、くちづける。


「ダメッ」


 俺たちの離れかけた心をとり戻すには、くちづけだけで十分だ。何度も何度も唇をついばみ、少しずつ頑なな心を溶かしていく。拒絶しているはずの唇が少しずつ俺を受け入れはじめる。俺は確信した。お前もまだ俺を愛してる!


 長い、長いくちづけの後、康代は俺の胸を押しやるようにつき離し、切なそうに言い放つ。


「さぁ、もう帰って。二度と来ないで! 」


「あぁ、今日はこれで帰る。だが、お前たちのことを忘れるわけじゃない。いいな。今でも俺が愛してるのはお前だけだ。ガキは俺とお前の子だ」


 ふっと諦めたような笑顔で笑っている康代。


「ロバート、ありがとう。元気でね」


 俺は追い出されるようにアパートの外に押し出された。

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