3-4


 今度の「?」は、全員とてつもなく大きかった。

 言っていること、やっていること、どちらも理解出来ない。つきあいたいなら分かる。参拝をするのも、頭を下げるのも自然な流れだ。でも別れたいなら、どちらも要らない。発言と行動が見事に矛盾していて、しっちゃかめっちゃかになっている。

「……何を言っているんだ?」

 椿山父が口を開いた。ここまで全く共感できない男だったけれど、ここに来て初めて深く頷きそうになった。

「君は今、自分が日本人だということを私に示したのだろう。それなら――」

「僕は、自分が日本人だと思ったことは、人生で一度もありません」

 下げた頭から、芯の通った声が響く。

「僕は日本で生まれ育ちました。中国語も話せるけれど、日本語はもっと話せます。友達もほとんど日本人です。それでも僕は自分のことを日本人だと思ったことは、人生でたったの一度もないんです。じゃあ中国人かって言われると、それも少し違う気がするけれど、とにかくそういうことなんです」

 チクリと胸が痛んだ。その痛みの正体を探る間もなく、ソンが畳みかける。

「だから、僕と貴方は絶対に合いません。それは今日会う前から分かっていました。なのに娘さんにそれを言い出せず、ここまで引っ張ってしまった。これはその謝罪です。本当にすいませんでした」

 ゆっくりとソンが頭を上げる。そして椿山父と真正面から向き合う。椿山父は――大きく目尻を下げ、どこか寂しそうにふっと笑った。

「そうか。それは、残念だ」

 ソンが椿山父に笑い返した。そして僕と姫の方を向き、軽く告げる。

「帰ろ」

 僕が返事をする前に、ソンが一人で元来た道を歩き出した。僕と姫は慌ててその後を追いかける。追いかけながら、ソンに自分の困惑をぶつける。

「なあ、お前、何やってんだよ」

「何って、見ての通りだよ。僕はあの子と別れる」

「いや、そういうことじゃなくて――」

「ちょっと待ってよ!」

 背後から届いた甲高い金切り声が、僕たちの会話を引き裂いた。続けて走ってきた椿山さんが僕を押しのけてソンの前に立ち、物理的にも引き裂かれる。

「どうして別れることになっちゃうの!?」

「それが一番いいからだよ。君と僕はここで終わった方がいい」

「なんで! 全然納得できない! パパのことなら気にする必要ないよ!」

 頬を真っ赤に上気させながら、椿山さんが大声で叫んだ。

「誰が何と言おうと、ソンくんは立派な日本人なんだから!」

 真顔。

 ソンが眼鏡の奥から絶対零度の視線を椿山さんに放つ。そして右の中指でクイと眼鏡を押し上げる。ついさっきも見せたスイッチ入りかけの仕草。あの時は止めた。これからどう転ぶか分からなかったから。だけど、今は――

「そこまでしつこいなら、言わせてもらうけど」

 もういい。やれ。好きにしろ。そこの夢見がちな女の子に教えてやれ。

 ソン・リャンという男が、どれだけめんどくさいやつかを。

「あのさあ、『立派な日本人』ってなに? 日本人であることが何かのステータスなの? ただの一国家の一人種でしょ? っていうか君、この話が出始めてからずーっとそうだったよね。『日本人より日本人らしい』とか、『中身は日本人』とか、それ全然誉め言葉になってないって分かってる? まあ、分かってないから言ってるのは知ってるんだけど、それにしてもひどすぎるよ。ある意味、お父さんより中国人ディスってるよね。お父さんは中国人のことをちゃんと知ろうとしてたよ。知った上で嫌いなだけ。でも君は違うよね。何にも知らない。知らないくせにナチュラルに見下しまくってる。『孫子』を知らないのはまだ漢文の授業中全部寝てましたとかで情状酌量の余地あるけどさ、共産主義国家なの知らなかったり、首都が分かんなかったりするのはさすがにマズいでしょ。いや、知らないこと自体はいいんだよ。僕にだって知らないことはたくさんある。でもそこまで何にも知らない国のことをよく見下せるよね。逆にすごい。尊敬する。っていうか、なんでソウル? それ中国じゃなくて韓国なんだけど。間違えるにしてもせめて上海だよね。上海でもどうかとは思うけどさあ――」

 長文乙。

 のべつ幕無しに畳みかけるソンに、僕は胸中からネットスラングで皮肉を送った。マジギレしたあいつを見るのは久しぶりだ。前回は四人で映画を観に行って、どれを観るか選ぶ時にカトウが全員の反対を押し切って自分の推薦を通して、観終わってから「なんか思ったよりつまんなかったな」と言ったのを聞いてマジギレしていた。カトウも最初のうちはぽつぽつと反論していたけれど、すぐにぐうの音も出ない涙目状態になって、それでも止まらないから僕とケイゴが宥めてどうにか事態を収めたのだ。懐かしい。

「あと聞きたいんだけど、君の中で『日本人』ってなんなの? 僕は『日本人より日本人』なんだから素敵で無敵な根っからの『日本人』じゃないんでしょ。僕は日本で生まれて、日本のものを食べて、日本の学校に通って生きてきたんだけど、それでも『日本人』じゃないんだよね。じゃあ『日本人』って何で決まるの? 教えてよ。知りたいんだ」

「……遺伝子」

「はい来た。遺伝子来た。正直、聞く前から絶対に言うと思ってたよ。でもさ、それ、どこまで遡るの? 人類のミトコンドリアのDNAを遡っていくと一人のアフリカの女性に行きつく『ミトコンドリア・イブ』って概念があるんだけど、遺伝子が重要なら僕たち全員アフリカ人でいいわけ? まあ、そんなスケールの大きな話じゃなくてもいいよ。例えば日本だけの話でもさ、大陸の血が混ざってない純日本人だった縄文人にはお酒が飲めない下戸の人はいなかったんだけど、大陸からアセトアルデヒドの分解を妨げる遺伝子を持ったモンゴロイドの血が入って弥生人からは下戸の人が出てくるようになったのね。じゃあここでまた質問。今の話を要約すると、つまりお酒を飲めない人には絶対に大陸の血が入ってるんだけど、両親祖父母の三代に渡って日本国籍を持つ日本で生まれ育ったお酒の飲めない下戸の人は日本人? それとも日本人じゃない? はい、答えて」

「……日本人」

「だよね。そう考えるよね。でも君は遺伝子が大事だって言ったけど、それだと矛盾してない? いや、分かるよ。そんな昔の遺伝子は無効ってことでしょ。じゃあ次の質問。君が言う遺伝子はいったいどこからが――」

 パーン!

 肉と肉がぶつかりあう炸裂音が、澄んだ真夏の空気に気持ちよく響いた。頬をはたかれて横を向くソン。開いた手のひらを中空に掲げて涙目の椿山さん。すぐに椿山さんがソンを引っぱたいた手で涙を拭い、震える声で叫んだ。

「ソンくんがそんな人だなんて思わなかった!」

 ――じゃあどんな人だと思ってたんだよ。そいつはそういうやつだぞ。頭がよくて、理屈っぽくて、怒らせると最高にめんどくさくて、でも怒らせなきゃ最高にいいやつ。少なくとも僕たちの前では、ずっとそういうやつだ。

 椿山さんが走り去る。ソンがはたかれた頬を撫で、僕たちの方を向いた。そしてへらへら間の抜けた笑みを浮かべながら、あっけらかんと告げる。

「フラれちゃった」

「……当たり前だろ」

「うん。わたしもちょっとひいた……ごめんね、ソンくん」

 姫がしおらしく謝る。ヤクザの事務所でも折れることのなかった鋼の心にダメージを与えるとは。恐るべし、ソン・リャン。

「別にいいよ。ただ、忘れないで」

 僕たちに背を向けつつ、ソンが不敵に笑った。

「これが、『僕』だから」

 ――カッコいいこと言ってんじゃねえよ。

 混ぜっ返す言葉を飲み込む。ゆうゆうと立ち去る背中が本当にカッコよかったから。僕は両手をポケットに突っ込み、空を見上げた。雲も、人も、国境線もない青空が、一面に大きく広がっていた。


   ◆


 靖国神社を出た僕たちはケイゴたちと合流し、秋葉原に向かった。

 ゲーセンに行ったり、ゲームショップを冷かしたりしてみんなで遊んだ。途中、姫が「このデートの方がわたしたちらしいね」と僕に言い、僕は「そうだね」と返した。そんな僕たちにソンは「今日フラれたばっかりの人間にリア充見せつけないでくれない?」と文句を垂れ、だけどその顔は、バスツアーで見せたどの笑顔よりも楽しそうな笑顔だった。

 やがて夕方になり、僕たちはソンの実家『大連楼』で夕食を食べることにした。月帰還性症候群のせいで油分の濃いものを食べられない姫のために、ソンの父親が油控え目の中華料理を作ってくれた。ウェイトレスをやっているソンの母親も色々と姫のことを気遣ってくれて、僕は厨房で中華鍋を振るっているソンの父親に「たぶんこっちの人を選んで正解ですよ」と心の中から声をかけた。

 夕食後は姫を病院に送って解散――の予定だったけれど、なんだか不完全燃焼だったので四人で上野公園の噴水の縁に腰かけてダベった。並びは僕、ソン、カトウ、ケイゴ。酒はないから、飲み物は自販機で買った缶コーヒー。ケイゴが「オレたちも随分と真面目になったよな」なんて言い出すぐらいには健全に、月明かりの下で愉快に語り合った。

「そういやソン。お前、賽銭箱に何入れたの?」

「何って?」

「なんか数字で『1』って書いてあったじゃん。でも一円玉じゃないだろ。何あれ?」

「ああ。あれは一元。中国の硬貨。僕は別にポリシーとか持ってないけど、素直に参拝するのもあのお父さんに屈したみたいで気分悪いでしょ。そうしたら財布の中にたまたま元があったから、ちょうどいいやと思って使ったんだ」

「……じゃあお前、中国の金を靖国の賽銭箱にぶっこんだの?」

「そう」

「あのオヤジにバレたら殺されるな」

「大丈夫。バレてないから」

 いけしゃあしゃあと言い放ち、ソンがグイとコーヒーを喉に流し込んだ。そして一息つくソンに今度はカトウが話しかける。

「おれもソンに聞きたいことあるんだけど」

「なに?」

「なんであの子とつきあったの? おっぱい?」

 デリカシーの欠片もないストレート豪速球。ソンがわずかに顔を伏せた。コーヒーの缶を下ろした両手で抱え、アライグマが食べ物を洗うみたいに転がしながら語り出す。

「あの子とリアルで会う前に、自分が中国人だって言ったんだ」

 ソンが笑った。唇を細めた、少し自嘲気味な笑い。

「ゲームのチャットで年齢とか住んでるところとかは話してたけど、国籍は言ってなかったからさ。会う話になった時に伝えた。それでその時、僕は『中国人だけど大丈夫?』って聞いたんだよね。僕はそんなことで人間を判断するのは間違ってると思うけど、それでも無理な人は無理だから。実際に会って、分かって拒絶されるのは嫌だなと思って、先に教えておくことにした。そうしたらあの子、面白い返事くれたんだ」

 ソンの口角が、大きく上がった。

「『中国人なの!? すごい!』って」

 幸せそうな笑顔。だけどそれはすぐ、元の寂しそうな笑顔に戻る。手の中でくるくる回っていた缶コーヒーは、いつの間にか止まっている。

「笑っちゃったんだよね。何がすごいんだよって。でも少し考えて、この子すごいなって思ったんだ。自分が中国人だからすごいなんて発想、僕には全くなかったから。まあ今考えると、あの子の中に感嘆詞が『すごい』しかなかっただけなんだろうけど、その時は本当に救われた気分になった」

 ソンが缶コーヒーを地面に置いた。カツン。硬い音と呟きが混ざる。

「嬉しかったんだけどなあ」

 風が吹いた。噴水池の冷たさを少しだけ含んだ生温かい風が、肌をぬるりと撫でて去っていく。ソンはただ夜空を見上げている。宵闇の中、月明かりにぼんやりと照らされるソンの物悲しい横顔を見ているうちに、僕の鼓膜の内側にこびりついている言葉がぐわんぐわんと大きくなっていく。

 ――僕は、自分が日本人だと思ったことは、人生で一度もありません。

 じゃあお前、ナニジンなの?

 言葉を飲み込む。あの時、胸にチクリと感じた痛みの正体を、僕はもう理解している。僕は思った。こいつと僕は違うんだと、間違いなくそう考えた。僕はソンとの間に国境線を引いたのだ。五歳の時に引いた自分の世界を守るための国境線とは違う、ただ違うことを示すためだけの線を。

 予感がある。今日、線を引いてしまった僕は、十年後にはもっと濃い線を引いている。大人ではないソンを大人にさせているものを憎んでいたはずなのに、自分が大人になったらきっとそれを受け入れている。そんな風にはなりたくない。なりたくないけれど、どうしてもそうなってしまうのだ。

 でも、今は――

「――ケイゴ」

 僕に呼ばれたケイゴが「あ?」と声を上げた。ソンとカトウも注目する中、僕はおもむろに口を開く。

「お前、中国の首都がどこだか知ってる?」

 ソンの唇がピクリと動いた。カトウの頭の上には「?」マーク。そしてケイゴは、憮然としながら答える。

「バカにしてんかよ」胸を張り、堂々とした態度。「上海だろ」

 ソンが、大声で笑いだした。

 ケイゴが「ちげえの?」と困惑する。カトウが「お前さあ」と呆れたように呟く。僕は火がついたように笑うソンを見て、思い通りの展開に満足しながら一人頷いた。

「マジでどこなんだよ。ヒロト、答えは?」

「安心しろ。お前はバカだけど、まだマシなバカだから」

「いや、意味わかんねえから。いいから答え言え!」

 ケイゴがチョークスリーパーで僕の首を絞める。苦しみながら暴れる僕を見て、ソンとカトウがゲラゲラと腹を抱えて笑う。国境線なんて何にも関係ない中学生の僕たちはそうやって、公園を巡回する制服警官に声をかけられるまでずっと、静かな夜に馬鹿丸出しの笑い声を響かせて騒ぎ続けた。

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