6-3
相馬さんが言った通り、そこから先はそれまでよりずっと厳しい行程になった。
特にきつかったのが突風だ。身体ごと浮きあがりそうになる風が何度も吹き、砂埃みたいに舞い上がる雪が視界を塞ぐ。先頭の相馬さんがコース取りをしてくれないと歩くことすらままならないのに、風が吹く度に相馬さんを見失いそうになる。登山前、相馬さんが「君たち一人でもいなくなったら私は全財産を君たちの親に譲って自殺するぞ」とキツい発破をかけた理由がようやく分かった。
だけど、そんな中でも僕たちは前に進み続けた。泣き言を言うやつも、軽口を叩くやつもいなかった。僕たちはこの登山で何か形あるものを得られるわけではない。元から登山が好きだったというわけでもない。だから相馬さんが下山の判断を下すより先に、誰かが「下山しよう」と言い出してもおかしくはない。登山前、秘かにそんなことを考えていた自分が恥ずかしくなるぐらい、みんな必死で一生懸命だった。
そして、雪に埋もれた鳥居の頭が見えた。
富士山頂にある浅間大社の鳥居。駆け出したくなる衝動を抑え、相馬さんの後をゆっくりと慎重について行く。やがて鳥居の前に到着し、「着いたー!」とピッケルを刺してその場に座り込むカトウに、ソンが声をかけた。
「カトウ。まだだよ」
「え?」
「この先に剣が峰っていうところがあって、そこが日本最高地点。ほら、あそこ」
ソンがピッケルで雪に覆われた峰を示す。「マジかよー」と言いながらカトウがゆっくりと起き上がる。言葉とは裏腹に口調に悲壮感はない。今いる場所からさほど遠くない目的地が見えているからだろう。僕も正直クリアしたも同然だと思っていたし、ケイゴもソンもそう感じていることは表情から明白だった。
だけど相馬さんの一言が、その流れを変えた。
「ここから先は、君たちだけで行きなさい」
四人全員がほぼ同時に相馬さんを見た。相馬さんは顔色一つ変えずに淡々と告げる。
「これは君たちの卒業旅行だからな。登頂は君たちだけでした方がいいだろう。私はここで待っているから、四人で積もる話でもしてきなさい」
「……いいんですか?」
「いい。ここから剣が峰まではさほど難易度も高くない。君たちを信用する。ただし、絶対に無茶はするなよ」
真剣な声。僕は同じ声で「はい」と頷いた。それからみんなを先導するように、剣が峰へと続く雪原へと我先に足を踏み出す。
アイゼンの爪が全面突き刺さるように歩く。転倒防止のためにかかとを開ける。教わった基本を思い出しながら一歩一歩ゆっくりと歩く。ぼんやりとした霧に覆われて下界の景色は見えない。目に映るものは、ほとんどが埋まって頭しか見えない滑落防止用の柵と、真っ白な山肌だけ。
「なあ」息を切らしながら、カトウが語る。「積もる話、しようぜ」
ザク、ザク。澄んだ空気に雪を踏み砕く音が響く中、ソンが答えた。
「いいよ。何話す?」
「そうだな。『もしおれたちが出会ってなかったら』とか、どう?」
「何それ。どういうテーマ?」
「最近おれがそういうことを考えたんだよ。そんだけ」
もし、僕たちが出会っていなかったら。疲労に火照る頭を回転させ、テーマに沿った話を考える。だけどその輪郭を掴むより早く、カトウが語り始めた。
「おれさ、ヒロトとかケイゴとかと違ってコミュ力あるじゃん」
「死ね」
「殺すぞ」
僕とケイゴがほぼ同時にツッコミを入れた。カトウは笑って無視する。
「だからみんなと出会わなくても、たぶん普通に友達出来てたと思うんだ。そんでその友達とつるんで遊んで、勉強もそれなりにやって、そんで……」
少し間が開いた。二歩ほど進んで、低いトーンの声。
「みんなのこと、見下してたと思う」
ゴウッと強風が吹いた。ピッケルを前に刺し、両足を開き、腰をかがめて頭を下げた耐風姿勢を取る。風が落ち着くのを待ってから歩き出し、そして、語りも再開される。
「ヒロトのこともケイゴのこともソンのことも、きっと生まれと育ちで見下してた。ソンなんて勉強じゃまるで適わないから、嫉妬も入って酷いこと言ってたかもしれない」
「『あんだけ勉強出来てもロクな就職ないんだよなー。かわいそ』みたいな?」
芝居がかった口調で、ソンが自分を嘲る言葉を口にした。風も吹いていないのにカトウが首を曲げて項垂れる。ケイゴが横から口を挟んだ。
「なんだそれ」
「卒業式の日にクラスメイトから陰口叩かれて、それを僕とカトウがたまたま聞いちゃったんだ。まあ、さっきカトウが言ってた嫉妬だよ」
「ムカつくやつだな」
「いいよ。僕は慣れてるから。ただ、カトウは慣れてなかったみたいだけど」
ソンがちらりとカトウを見る。カトウは俯いたまま、ポツポツと言葉を零す。
「うん。慣れてなかった。ソンはおれなんかよりずっと苦労してて、それでも学校で一番の成績取って、文句なしに周りを実力でねじ伏せてるのに、そんなこと言うやつがいるのがすごいショックだった。ケイゴなら分かるんだけど」
「おい」
「それで考えたんだよ。おれも一歩間違えたらそうなってたのかなって。中二の時にみんなと出会わないで、ソンの陰口を叩いたようなやつらと仲良くなってたら、一緒になってソンのことを馬鹿にしてたのかなって。だから――」
カトウが顔を上げた。声のトーンが、再び上がる。
「今、そうなってないのがすごく嬉しいんだ。絶対そうならないみんなには伝わらないかもしれないけど、嬉しいんだよ。それだけは今日、どうしても言いたかった」
カトウがはにかんだ。いつも通りのガキっぽい笑顔。だけど、なぜだろう。雰囲気が大人びていて、眩しい。
「絶対にそうならない、か」
ソンがカトウの言った台詞を小声で繰り返した。ピッケルを前に突き刺し、足を進めるのに合わせて、言葉を吐き出す。
「買いかぶりだよ。僕だって、似たようなことになる可能性はあった」
カトウが目を丸くした。そして不思議そうに尋ねる。
「ソンはないだろ。差別される辛さを知ってるんだから」
「あるよ。偏見で他人を蔑む人間になっている可能性は、絶対にあった」
「なんで? 頭良すぎるから?」
「あのさ、カトウ。『慣れてるから大丈夫』とか言えるぐらいあんなこと言われ続けてきた僕が、人生で一度も『日本人ほんとムカつくわ』みたいに考えたことがないと思う?」
カトウが固まる。ソンが、全員から少しだけ顔を背けた。
「正直に言うと、みんなに出会うまでかなり見下してたよ。だってどいつもこいつも『俺様は日本人なんだぞー』みたいなこと言うくせに、僕よりずっと頭悪いんだもん。そりゃあ見下すよね。どうしたってさ」
ソンが靖国で怒涛の勢いで語った台詞を思い出す。立派な日本人って何だ。日本人であることが何かのステータスなのか。確かに見下していたこともあったのだろう。あの言葉が口をついて出てくるぐらいには。
でもきっと、今は違う。
「それを変えてくれたのが、みんな」
僕の予想通りの言葉を口にして、ソンが愉快そうに笑った。
「みんなは僕を国で見なかった。中華料理は美味いし、紹興酒は不味い。そんな風に中身で判断してくれた。まあ、僕は紹興酒けっこう好きなんだけど」
「えー、薬臭くて不味いじゃん」
「薬だからね。舌が子どもだとちょっと合わないかも」
ソンがカトウをちくりと刺した。刺されたカトウは黙る。ついでに僕も紹興酒はあまり得意ではないので、唇を引き絞る。
「みんなと出会って僕は、自分が勉強出来るだけの馬鹿だって気づいたんだ。だから僕もカトウと同じで嬉しいよ。自分で言うのもなんだけど、僕は変に頭がいいから、こじれてたらとことんまで行ってたと思う。それを避けられたのは幸せだ」
幸せ。そう口にするソンの横顔は、本当に幸せそうだった。さて、あと二人。最後の一人になるとハードルが上がる。ここは――
「オレはまあ、お前らと会ってなかったらヤクザだろうな」
――先を越された。口を噤む僕の横で、ケイゴが静かに語り出す。
「お前らにはあんまり話してないけど、今考えるとシャレになんねえレベルで荒れてたからな。更生した不良より最初から道を踏み外さなかったやつの方がずっと偉い、みたいな話あるだろ。あれほんとその通りだと思うわ。お前らって、偉いんだよ」
ケイゴが黙る。「え、それで終わり?」みたいな空気が流れる。僕は自分の番を始めるべきか悩み、そのうち始めようと決断して口を開きかけたその時、ケイゴがポツリと言葉を漏らした。
「オレ、この間、上野の本屋で『昔ここで万引きしてすいません』って謝ったんだ」
万引き。自分にも少し縁のある言葉を聞き、カトウの表情が強張った。
「謝るつもりで行ったわけじゃねえんだけど、なんか思い出してさ。気がついたらレジにいた姉ちゃんに謝ってた。そしたらその姉ちゃん、オレに栞くれたんだ。今度は買って読んでくれって。だからオレ、小説買って、今読んでるんだよ。小説読むの人生で初めてなんだけど面白いな。もっと早く読めば良かった」
ケイゴと小説。――似合わない。だけどその似合わなさが、妙に愛おしい。
「お前らと会わなかったら、オレは小説なんて一生読まなかったかもな」
ケイゴがふーと大きく息を吐いた。それから、やけに大股で前に進む。終了の合図。僕は唾を飲み、喉を湿らせ、発声の準備を整える。
「俺は――」
「あ! なあ、あれてっぺんだろ! あの石碑!」
カトウが進む先にある灰色の石碑を指さし、甲高い声を弾ませた。ソンが「たぶんそうだね」と頷き、ケイゴが「よっしゃ! もう一息だな!」と気合を入れる。僕はとりあえず黙った。仕方ない。今はそれが最適。
石碑に近づく。刻まれている文字がうっすらと読めるようになっていき、僕たちのテンションが上がる。もう少し。あと少し。雪が照り返す陽光の眩しさに目を細めながら、一歩ずつ山頂に近づく。そして、いよいよ――
――到着。
『日本最高峰富士山剣ヶ峰』
カトウが「っしゃー!」と高らかに拳を突き上げた。ソンが「着いたねー」と呟いて雪の上に座り込み、ヘルメットを外す。それが合図だったみたいに全員が同じ行動を取る。汗でむれた頭皮を氷点下の風が冷やし、その心地よさに僕はうっとりと目を閉じる。
瞼を上げる。薄い霧のカーテンに覆われて遠景はうっすらとしか見えない。だけどそのうっすらでも、自分が今とんでもないところにいることは分かる。標高3776メートル。日本の頂点。この国で一番、月に近い場所。
「ヒロト」僕を覗き込み、カトウが尋ねる。「続きは?」
不敵な笑み。気づくと、ケイゴとソンも同じような表情をこちらに向けている。僕はみんなからぷいと顔を逸らし、霧に覆われた地上を見やりながら口を開いた。
「俺はみんなに会うまで、自分の人生にあんまり興味が無かったんだ」
思い返す。何も残さず、重ねず、ただ通り過ぎて行くだけだった日々。
「別に死にたいと思ってたとか、そういうわけじゃないけどさ。ただ、ほんと、興味が無かった。俺の人生なのに、すごい他人事だった。超つまんない映画観てる感じ。でもその超つまんない映画にはちゃんと『七瀬ヒロトの人生』ってタイトルが振ってあって、それもまた面白くないんだ。早く終わってくれないかなって、ずっと思ってた」
言葉を切る。息を溜める。そして、吐く。
「でも、お前らと会って」
口元が緩んだ。これはいけないと引き締める。だけど語るうちにまた、緩んでいく。
「なんか、全然変わった。だってそうだろ。今までクソつまんない映画の前に座らされてるだけだったのに、いつの間にか超面白いゲームの主人公になって冒険してるんだ。本当に楽しくてさ。だから――終わらないでくれって、思うようになった」
緩んでいた口元が、ほとんど無意識に引き締まった。
「俺、今、ちょっと怖いんだ」
こんなことを言ってもどうしようもない。分かっている。なのに、止められない。
「俺たちの冒険はきっとここで終わる。死ぬわけじゃない。引っ越しもしない。全員すぐ会える場所にいる。それでも絶対、高校生になったら今までと同じようにはならない。俺たちがプレイしてたゲームは、もうエンディングに入ってる」
ゆっくりと顔を上げる。いつもより3000メートル以上近い空を見渡す。そして見つけた白い月を見つめ、呟く。
「終わらせるのは、俺なんだよな」
全身が細かく震え出す。寒い。氷点下の外気温なんか目じゃないぐらい、身体の内側が寒い。僕はケジメをつけにここに来た。全てを終わらせる場所にここを選んだ。なのに、いざそれが目の前に迫ると、怖くてたまらない。
頭の後ろから、ぶっきらぼうな声が響いた。
「いいから、さっさと終わらせろよ」
振り返る。むすっと頬を膨らませたケイゴが、乱暴に言い放つ。
「とりあえずこの冒険は終了。そんで、新作でも『Ⅱ』でも『外伝』でも『零式』でもいいから始めろよ。そんな下らねえことでビビってるとかお前らしくねえぞ。そういうのはカトウの役目だろ」
「勝手にダサい役割振んな」
カトウが口を挟んだ。そしてポリポリ頬を掻きながら続ける。
「まあでも、ケイゴの言ってることには同意。一度〆ようぜ。そんで、次行こう。次はおれたち同じパーティーじゃないかもしれないけど、その時はその時だ」
次は同じパーティーじゃないかもしれない。でも、その時はその時。力強い言葉に殴られて呆然となる僕に、今度はソンが優しく声をかける。
「ヒロト。僕たち全員、自分の人生は自分が主人公だと思ってるけど、この冒険はやっぱりヒロトから始まってて、カグヤナイツの騎士団長はヒロトなんだ。だからさ――」
親指で月を示し、ソンがニヤリと笑った。
「カッコよく〆てよ」
――そうだな。
そうだ。その通りだ。僕は自分を見失っていた。どうでもいいものにとらわれ過ぎていた。僕たちにとって一番大事なことは、僕たちが一緒にいることではない。
カッコいいことだ。
リュックを雪面の上に置く。手袋を外し、リュックの中にしまう。立ち上がり、左手を大きく開いて月に向かって掲げる。薬指に嵌まったリングがキラリと光る。
そして、叫ぶ。
「ノゾミーーーーーーーーーーーーーー!!」
一度も呼んだことのない呼び方。月におわしまする姫の高貴なるお名前。
「俺、受かったから!」
声を張る。月まで届くように。あの子が僕の言葉を、聞き漏らさないように。
「ちゃんと、医者になるから!」
息が切れる。頭の後ろが熱い。あとせいぜい、一言か二言。
「だから――」
応援してくれよ。
励ましてくれよ。
――いや。
「見てろよ!」
凍てついた空がビリビリと震える。肺の中の空気を残らず吐き出した心地よさに、自然と笑みが漏れる。僕は笑いながら荒い息を吐いて仰向けに倒れる、そんな僕にカトウが同じく笑いながら声をかけてきた。
「『見てろよ』ってなんだよ」
「だってさあ。最後の最後にあんなの書かれたら『コイツ見てろよ』って思うだろ」
「ああ。あれか。『大好きなヒロトに、わたしからお願いがあります』」
カトウが冒険の書の一節を諳んじる。僕も何度も読み返し、完璧に暗唱出来る文章。
「『わたしのことは、ぜーんぶ忘れちゃって下さい』」
僕はため息を吐いた。カトウは調子よく続ける。
「『いや、全部忘れちゃうは大げさかな。思い出は残しといて。なんていうか、わたしのために人生を変えないで欲しいの。例えば、婚約は破棄でいいよ。いい人見つけたら普通に結婚して。医者になる夢も考え直していいからね。ヒロトがすごーく頑張ってるのは分かるんだけど、やっぱちょっと厳しいかなって思うし』」
カトウが暗唱を止めた。ケイゴが上機嫌に僕をからかう。
「信用されてねーのな」
「ほっとけ」
「合格圏内だったのにあれなんだから、よほど期待されてなかったんだろうね」
ソンのダメ押し。僕は「うるせえ」と呟いて上体を起こした。そして少し離れた斜面の上で真っ白な煙が――雪が舞い上がっているのを見つける。
ゴウッ!
今までで一番強い風。僕は慌てて身を屈め、雪面に刺しているピッケルを掴んだ。身体が浮きそうになる。剥き出しの手に冷たい風と雪が当たり、皮膚の触感を奪っていく。そのうちにピッケルを握っているという感覚すら薄れ、これは本格的に不味いんじゃないかと思い出した頃、どうにか風が弱まり始めてくれた。
風が止む。ピッケルから離した両手を口の前に持って行き、吐息で温める。そして身を起こし、そのまま遠景に目をやる。
遥か彼方まで続く、土と緑の大地。
風に飛ばされて散った霧が、遠くに見える山々の稜線に薄く靄をかける。眼下には自然溢れる景色が広がり、その中にポツポツと人の営みが見える。地球を丸ごと見下ろしている感覚。雄大で美しい、冒険の終わりに相応しい眺望。
「なあ」背中から、カトウの震える声。「おれ、泣きそうなんだけど」
そうか。奇遇だな。僕はもう泣いている。涙が溢れて止まらなくなっている。カッコ悪いから、絶対に言わないけれど。
「勝手に泣けよ」
こっそりと涙を拭う。首を曲げ、空を見上げる。真っ青な空に浮かぶ真っ白な月は、まるで世界にぽっかりと空いた穴のようで、その先に広がる新しい世界を確かに予感させてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます