6-2
四月。一年前に僕が姫と出会った日。
僕は夜明け前にアパートを出て上野駅に向かった。大きなドラム型のバッグに今日使うものを全て詰め込み、暗い街を抜けてロータリーへ。先に到着していたカトウと話しているうちにケイゴとソンも合流し、夜中に同じような大荷物を持った同年代の四人が駅前に集まるという、いかにも旅行前な構図が出来上がった。
やがて、見覚えのあるダークブルーの車が僕たちの前に止まった。運転席から月の王が現れてトランクを開ける。荷物をトランクに詰め込んだ後は、王が運転席、僕が助手席、他のみんなが後部座席という配置で出発。前に乗車した時にもかかっていたブルーハーツをBGMに言葉を交わす。
「君たち」前を睨みながら、月の王が口を開いた。「睡眠は十分とったか?」
カトウが「バッチリです!」と元気よく答える。ケイゴが「オレも平気っす」、ソンが「僕も」と続ける。月の王がちらりと横目で僕を見て、尋ねた。
「君は?」
「……緊張しちゃって」
ふん、と月の王が鼻を鳴らした。カトウが後部座席で声を弾ませる。
「ヒロトって意外とメンタル弱いよな」
「うっさいな。繊細なんだよ」
「そう? 僕は逆に、単純なんだと思うけど」
ソンが口を挟んだ。僕はムッとして答える。
「どういう意味だよ」
「ごめん。言い方悪かった。シンプルだってこと。感情に理屈を挟まない」
「……だから、どういう意味だよ」
「周りに流されないって意味。みんなが泣いてるから泣かなきゃとか、そういうのないでしょ。目の前の事をちゃんと見てて、だからツボに嵌まるとダメージがでかいんだ」
そう言われると悪い気はしない。僕は「まあな」と得意げに返した。すさかず、ケイゴが茶々を入れる。
「ほんと、単純」
「なんだよ。お前にだけは言われたくねえよ」
「あ?」
「お前、みんなで『冒険の書』読んだ時に涙ぐんでただろ。俺ですら泣いてないのに」
「そりゃてめえは二回目だからだろうが!」
プッ。
横から短い息の漏れる音。振り向くと、さもおかしそうに破顔している月の王。タイミングよく赤信号で車が停まり、月の王が僕を見ながらしみじみと呟く。
「君たちはいつも元気だな」
大人がきかんぼうの子どもに向ける言葉。僕は恥ずかしさに肩を竦めた。月の王が笑顔を崩さないまま前を向き、温かな声で呟く。
「娘が傍にいたがったのも、よく分かる」
BGMが切り替わった。
弦楽器で奏でられる荘厳なイントロ。『1001のバイオリン』。姫が好きだと言い、僕が最初に聞いた『1000のバイオリン』のオーケストラバージョン。
「七瀬くん」車が発進した。「この曲のタイトルが『1000』から『1001』に進んだ意味を、君は知っているか?」
知らない。僕も気になってネットで調べたけれど、どこにも答えは落ちていなかった。僕じゃないヒロトと仲間たちはよくそういうことをする。「答えはお前自身で見つけろ」。そういうものを書いて、奏でて、歌う。
「いいえ」
「そうか。私も知らないんだ。娘が気にしていたが、調査しても情報を得られなかった」
姫が気にしていた。僕が詳細を聞くより早く、月の王が語り出す。
「どうして変わったかというより、増えた『1』が何なのかを考えていた。『1000』の時にはなくて『1001』の時にあったものは何だろう、と」
増えた『1』。全く同じわけでも、まるっきり違うわけでもない、小さな積み重ね。
「きっと、意味なんてないんだろうな」
車のスピードが上がる。そうでしょうか。僕は、あると思います。見つけられると思います。そんなことを考えて、だけど言えないでいるうちに『1001のバイオイン』は終わって、次の『終わらない歌』が流れ出した。
◆
早朝、富士山の富士宮口五合目駐車場に着いた。
車から荷物を下ろして準備を整える。インナー、ミドル、アウターと防寒着で固めて、登山靴を履き、ピッケルと呼ばれる先が鎌みたいになった鉄の棒を手に持つ。主に雪面に先端を刺して身体を支えるために使う棒だ。またリュックサックには水筒やタオルなどの通常の登山用品以外に、突風が飛ばしてくる石を防ぐためのヘルメットと、足で雪面を捉えるため登山靴にはめる金属爪、アイゼンを入れておく。
準備を終えた僕たちを月の王が集めた。そして、四月の富士山は雪が多く何人もの人間が死んでいること、予報では天候には恵まれているが山の天気は変わりやすくどうなるか分からないこと、そもそも冬山登山は公的には禁止であり何があっても自己責任としか言いようのないこと、少しでも危うさを感じたら容赦なく下山することなどを忠告する。僕たちはそれら全てに「はい」「分かりました」と肯定を返した。カグヤナイツの騎士団長は僕だけれど、今この場では月の王が指揮官様だ。イエス・サー以外の回答なんて、元よりありはしない。
卒業旅行で富士山に登りたいと言い出したのは、もちろん僕。
理由はとても簡単。日本で一番月に近いから。世界で一番近いところは違うけれど、そこまで行くのはさすがに無理なので富士山で妥協した。妥協したつもりだった。しかし調べてみると予想外に困難らしく、僕たちは登山経験のある大人を協力者として探した。そうして白羽の矢が立ったのが、意外なことに大学生時代ワンダーフォーゲル部で雪山を攻めまくった過去を持つ月の王だ。
月の王は最初、僕たちを止めようとした。そこで僕たちは奥義「じゃあ勝手に行きます」を発動させ、月の王を味方に引き込むことに成功した。やりかねないと思われたのだろう。宗教団体の集会に殴り込みをかける、ヤクザの事務所にカチコミに行く、学校の屋上に侵入してリサイタルを開く等、好き放題やり続けて来たことが功を奏した。
昔使っていた登山道具をくれたり、富士山よりだいぶ楽に登れる雪山に挑んでリハーサルを行う機会を作ってくれたり、月の王は親身になって僕たちの富士山登頂計画に協力してくれた。親身になり過ぎたのか昔のことを思い出したのか、登山の指導をする月の王は鬼のように厳しく、カトウは一度半泣きで「富士山止めない?」とまで言い出した。しかしそういう困難をどうにかこうにか乗り越え、ついに「後はもう登るだけ」というところまで来たのだ。
「行くぞ」
月の王を先頭に、山に踏み込む。空気はとんでもなく澄んでいて、恐ろしいぐらいに冷たい。冷凍庫の中に閉じ込められたような気分だ。すぐに雪で覆われた斜面に突入し、登山靴にアイゼンを嵌める。ザリッ、ザリッと氷になりかけている雪を削りながら、上へ上へと突き進む。
山の木々は枯れていて、景色はどこまで行ってもひたすらに白一色だった。勾配キツめの斜面を「うわあああ!」と叫びながら滑り落ちる男を見てゾッとしたりしながら、延々と続く雪景色の中を歩く。そのうち最後尾にいるカトウが少し遅れだし、それに気づいたソンが声をかけた。
「カトウ、大丈夫?」
「ん? あー……大丈夫、大丈夫」
カトウがへらへら笑う。僕とケイゴとソンが眉をひそめる。もう二年近く一緒にいるのだ。分かる。今のカトウはゲーム的に言うと、ヒットポイントが黄色かつ軽めのステータス異常にかかっている状態だ。すばやさが落ちるとか、それぐらいのやつ。
「休むか?」
月の王がカトウに声をかけた。そして「平気です」と笑いながら手を振るカトウに、淡々と告げる。
「じゃあ、下山するか」
カトウの顔から、笑みが一気に消え失せた。
「登山で一番怖いのは自己管理の出来ないやつだからな。経験のある私が休んだ方がいいと思っているのに大丈夫だと言い張るなら、下山するしかない」
「……すいません。休ませてください」
折れた。カトウがピッケルを雪面に刺し、はーと深い息を吐いてその場に座る。ケイゴとソンも同じように座り、「怒られてやんの」「大丈夫?」と声をかける。僕は座らず、周辺の雪の固さを確かめながら少し離れる月の王を追いかけた。
「あの、相馬さん」
「なんだ」
「僕たち、今、何パーセントぐらいまで来てるんですか?」
「距離は半分と言ったところだな。だがここから先は気温が下がり、勾配が険しくなり、強風が吹くようになる。そう言った意味では三分の一以下だ」
三分の一。僕は雪面に座り込むカトウたちをちらりと見やった。三分の一であんなことになっていて大丈夫なのだろうか。下山もあるのに。
「不安か?」
「……はい」
「そうか。まあ、なるようにしかならん。考えても無駄だ。天候含めて山のコンディションは絶好だから神は味方してくれている。そこに期待しろ」
突き放された。練習の時から思っていたけれど、平地にいる時と山にいる時でキャラが違わないか、この人。ハンドルを握ると性格が変わるようなものだろうか。
「相馬さんは、全然息切らしてないですね」
「まあな。このレベルの山に登るのは久しぶりで不安もあったが、どうにかなるものだ」
「学生時代から全く山登りはしていないんですか?」
「結婚するまではしていたよ。結婚してからは自分よりも家族が最優先になるし、妻も娘も登山をするようなタイプではなかった」
青々とした空を見上げながら、寂しそうに目を細め、月の王が呟いた。
「私に君のような息子がいたら、今日みたいなこともあったんだろうな」
空虚な雰囲気。姫は「パパには手紙を書いた」と冒険の書に書いていたけれど、どんな手紙だったのだろう。遺された冒険の書は、あのままだと朽ちていくだけだった僕を立ち上がらせた。月の王に遺された手紙は、ちゃんとそういう力を与えてくれたのだろうか。
「あの」
声をかける。月の王が振り向くのを待ってから、続ける。
「僕も生まれてからずっと父親いないんで、今日みたいなの新鮮なんですよ。アウトドア的なこと全然してこなかったから。そんで、相馬さんが良ければですけど――」
姫と僕は婚約していた。つまりこの人は、僕の義父さんになる予定だった人だ。放っておいていいわけがない。姫だってきっと、それを望んでいる。
「また登山しましょうよ。道具一回しか使わないの、勿体ないですし」
月の王が無機質な目で僕を見る。僕はニコニコと愛想笑いを浮かべる。やがて月の王は不愛想な相好を崩さないまま、抑揚のない声で答えた。
「分かった。考えておく」
今一つ読み切れない反応。月の王が僕から顔を逸らし、独り言のように呟いた。
「しかし、そうか。登山か」
休むカトウたちの方に向かって歩きながら、月の王が背中で語る。
「それじゃあ、体力をつけるために、下山したらまた禁煙しないとな」
――やりたいことをやって早死にするさ。
煙と共に放たれた言葉が、僕の脳内に蘇った。僕は「そうですね」と同意し、初めて一人の人間として向き合った月の王を――相馬さんを追いかける。ついさっき怒られたばかりのカトウが、歩み寄ってくる相馬さんを見て顔を大げさに強張らせた。
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