第6章 騎士団の詩
6-1
中学の入学式のことを、僕はよく覚えていない。
どんな素敵な三年間が僕を待ち受けているのだろうと希望に胸を震わせた記憶はもちろん、こんな監獄であと三年も過ごさなくてはならないのかと絶望に打ちひしがれた記憶もない。いつの間にか始まって、いつの間にか終わっていた。好きの反対は無関心というけれど、本当にその通りだと思う。あの頃の僕は、僕の人生に興味がなかった。
そうやって始まった中学校生活は、昭和通りの横断歩道から首都高速一号上野線を行き交う車を感じるみたいに、僕の遥か上の方をすごいスピードで通り過ぎて行った。なんか大きなものが動いているのは分かる。見えないし、ほとんど聞こえもしないけれど、そういう風になっているのは理解できる。そんな感じ。つるかめ算が一次方程式になった瞬間は分かたないけれど、確かに一次方程式になっているのだから、どこかで学んだのだろう。そうやって結果から逆算しないと成長が分からないぐらいに流れる時間は断続的で、切り離された薄味の「今」だけが延々と目の前に現れては消えていった。
そうこうしているうちに中一の終業式になった。一年通じて人生を連載してきた同級生と毎日が独立した短編だった僕の間には、埋めがたい感覚の差があった。僕は自分が何も積み重ねていないことを実感した。そして、来年もこのまま短編集であることを、信じて疑っていなかった。
だけど、変わった。
後に「カグヤナイツ」と呼ばれる三人の仲間たちは、僕の生き方をまるっきり変えてしまった。僕は重ねることを覚えた。時間は連続しているのだと理解した。そのうちに月のお姫さまなんてキャラクターまで登場して、連載は盛り上がる一方。冒険に赴き、レベルを上げて、また新しい冒険に挑む。その過程は僕に強い満足と――恐怖を与えた。
物語が終わってしまうことへの恐怖。
人生が短編集で、細かい終わりの繰り返しだった頃には感じ無かった恐れ。エンドマークへの忌諱。終わりたくない。終わらせたくない。永遠にこの連載が続いて欲しい。僕はいつの間にか、そう願うようになっていた。
それでも、終わりは来る。
ゆるやかに。
確実に。
◆
泣けないだろうな、とは思っていた。
何せ、学校にもクラスにも思い入れが全くない。なんか登校したら教室の黒板に『一組最高!』とか書いてあったけど、多分その「一組」に僕は入っていないし、入れて欲しいとも思わない。卒業式も眠いだけ。卒業証書なんてただの紙だし、卒業アルバムの写真も学校行事に参加する僕は基本的に死んだ目をしているので見ていて愉快なものではない。もしかしたら誰かが泣いているのに釣られて泣けるかなとも思ったけれど、式で隣の女子が「オウェ! オェ!」と野性のゴリラが敵を威嚇する唸りみたいな声を出しながら泣いているのを見てドン引きしてしまった。そこまで学校に愛情を持てるのは羨ましい限りだ。皮肉ではなく、本当に。
保坂がなんかいい話風のことを言って、最後のホームルームが終了。そうか、これで中学生じゃなくなるんだな。そんなことを考えて、初めてほんの少し寂しさを覚える。この後は保護者を交えた懇親会。もちろん欠席。母さんには「頼むから卒業式を見たら帰ってくれ」と頼んだ。学生鞄を担ぎ、教室から立ち去ろうとする。
「待て、七瀬」
保坂が僕の肩を掴んだ。そして親指で廊下を示す。「表に出ろ」のジェスチャー。最後にムカつく生徒に喧嘩を売りに来た――わけではないだろう。素直に外に出る。
廊下に出た保坂はしばらく無言で歩き、階段の近くで壁にもたれかかった。僕はその隣に立つ。保坂が僕を見ることなく、斜め上を見ながら独り言のように呟く。
「卒業だなあ」
何当たり前のこと言ってんだアホか――とは言わずに「そうですね」と答える。保坂が嫌味ったらしく深い息を吐いた。
「お前には本当に苦労させられた。態度悪い、言うこと聞かない、挙句の果てには夜の学校に侵入して警察沙汰。丸く収めるの、大変だったんだぞ」
「……すいません」
「分かればいい。まあ、それが教師の仕事だ。気にするな」
だったら恩着せがましいこと言うなよ――とは言わずに「ありがとうございます」と答える。その点に関しては実際に恩があるのだ。認めよう。
「お前、十二月の面談で俺が言ったこと、覚えてるか?」
「十二月?」
「お前には無限の可能性がある、だ」
保坂が僕の方を向いた。ああ、そういえばそんなことを言っていた。ただ――
「信じてないだろ」
――当たり前だろ。僕は「はあ」と曖昧な返事をする。保坂がやれやれとばかりに小さく肩を竦めた。
「まあ、俺がお前ぐらいの時も同じような言葉を信じちゃいなかったから無理もない。ただな、本当にあるんだ。お前はまだ何にでもなれるし、何にでもなってしまう。だから周りは道を間違えないよう、口うるさいことも言ったりする」
保坂が再び僕から顔を背け、しみじみと語り出した。
「俺はお前ぐらいの頃、宇宙飛行士になりかったんだ」
「ベタですね」
「茶化すな。それで、宇宙飛行士になるための方法を調べはした。ただ結局は普通に受験して普通の高校に行った。それから何となく大学に行って、流れで教師だ」
「じゃあ、先生は先生になりたくて先生になったわけじゃないんですね」
「そんなもんさ。ずっと教師になりたくて教師になった人間なんてほんの一握り。ほとんどが何かしらの夢を諦めている。だからまだ間に合うお前たちに忠告するんだ。実体験から来る失敗談なんだよ」
知らない女子生徒が僕たちの前を通り、「先生さよーならー」と保坂に声をかけた。保坂はそれに「じゃあな」と返す。そして、語りを続ける。
「色々と情報が手に入るようになったせいなんだろうな。お前たちは俺が同じように中学生だった頃に比べて、自分を客観視する能力が高い。自分の立ち位置を見極めて、望まれるように育とうとする。手がかからない反面、つまらなくなったと思うこともある。だけどお前は、面白かった」
保坂の口元に、柔らかい笑みが浮かんだ。
「お前はもがいていた。自分の天井が分かってしまう時代に反発していた。いい子を褒めるのが教師の役目だ。そうでないと褒められたくていい子にしている生徒が報われない。だけどな、正直に言うと、俺はあのクラスでお前が一番好きだったぞ」
意外過ぎる言葉に、僕は目を見開いた。保坂がもたれかかっていた壁から身を離し、僕と向き合う。
「安心しろ。世界はお前がネットでかじった知識で把握できるほど単純じゃない。想像もつかない可能性がゴロゴロ転がっている。だから、必ず掴め。それが、確かにあった無限の可能性を掴めなかった男からの、最後の忠告だ」
保坂の目は太陽を見るように細められていた。眩しいものを見る目つき。無限の可能性を持っている僕。無限の可能性を掴めなかった保坂。
――そうか。
羨ましいんだ。
「先生」考えるより先に、口が動いた。「俺、医者になるつもりじゃないですか」
何が言いたいのかは分かっている。だけど、それをどう伝えていいか分からない。行き当たりばったりに言葉を選びながら、僕は続ける。
「それでもし医者になれたら『どうして医者になろうと思ったんですか?』みたいなことをどこかで聞かれると思うんですよ。親が医者だったりとか、そういうのないし。そんで、俺が医者になろうと思ったきっかけは先生とは全く関係ないところにあるんで、厳密には絡んでこないんですけど――」
保坂の目を見る。心まで届くように、言葉を紡ぐ。
「先生が俺を後押ししてくれたことは言いますよ。中三の時の先生のおかげで医者になれたって、絶対に言います」
僕は、イヤだった。
たった今、保坂は僕の心を確かに動かした。ほんの僅かかもしれないけれど、僕の人生に影響を与えた。そういう保坂には、自分を誇ってもらいたかった。そうでなきゃ僕は、自分のことすら信じていないやつにノリで感動させられたことになってしまう。
穏やかな微笑みを浮かべ、保坂が僕の肩をポンと叩いた。
「ありがとう」
踵を返し、保坂が去る。大きな背中が小さくなる。今なら泣けるかもしれない。そう思ったけれど、結局、涙は一滴も零れることは無かった。
◆
校門を出たところで「おい」と声をかけられて振り向き、僕は思わず顔を全力で歪めて不快を露わにした。
スーツ姿の若い男。ヤクザの下っ端、木崎。ニィッと不気味な笑みを浮かべ、僕を茶化すように声をかけてくる。
「卒業おめでとう」
「……なんか用ですか」
「スカウトだよ。叔父貴の命令。中坊が卒業式の後に学校から事務所に直行すんのはエリートコースなんだぜ」
嬉しくない。僕は大げさにため息をついた。
「中学生一人に執着しすぎでしょう」
「関係ねえよ。叔父貴にとってモノの価値は自分が欲しいと思うかどうか。そんでお前は叔父貴の『欲しいモノ』に入ってる。なら、手に入れるだけだ」
「ガキみたいですね」
「まあな。叔父貴もガキに言われたかねえだろうけど」
木崎がカラカラと笑った。そして僕にずいと迫る。
「で、どうよ。高校に通いながらでもいいぞ。高収入のバイトみてえなもんだ。どうせお前んち貧乏だろうし、学費の足しにもなんだろ」
「お断りします」
即答。木崎が「まあそうだろうな」という感じで肩を竦めつつ、一応尋ねた。
「どうして」
「やりたくないからですよ。僕は、勉強して、バイトして、友達作って、放課後に渋谷とか池袋で遊んで、好きな女の子も出来て、告白しようか悩んで、それを友達に相談して、なんか分かんないけどカラオケでその子への愛をシャウトすることになっている、そんな高校生活を送るんです」
「なんだそりゃ」
「健全な男子高校生ってそんな感じかなと思って」
「『健全』ねえ。好きな言葉じゃねえな」
木崎がつまらなそうに呟いた。それからズボンのポケットに手を突っ込み、僕をじっと観察する。僕は居心地の悪さに縮こまった。
「なんですか」
「叔父貴に今日はお前をしっかり観察して来いって言われてんだよ」
「観察?」
「ああ。お前を見て高校に行きたくなったら、オレも高校に行っていいんだと」
僕は「え」と短い声を上げた。驚きのまま、勢いに任せて尋ねる。
「なんでいきなりそんなこと」
「叔父貴は俺の親父みてえなもんだから、お前ら見て責任感じたんだろ。オレにはお前らみてえな青春、欠片もなかったからな」
眩しくて、鬱陶しくて、ぶん殴りたくなる。黒澤が木崎の想いを代弁した言葉。考えてみればあの台詞を口にした黒澤は、木崎にとって僕たちは「眩しい」のだと考えていたことになる。眩しいか? 羨ましいか? いいぜ、だったら触れさせてやる。そういう親心。
「ま、余計なお世話だけどな。やっぱ今さら高校行きたいとか思えねえわ」
木崎が呟く。本心なのか、虚栄なのか、それは分からない。ただ間違いなく宣言通り高校には行かないだろう。そういう生き方もあるのだ。
「そうだ。忘れるところだった」
木崎がスーツのポケットから透明な液体入りの小瓶を取り出し、僕に渡した。そして洒落たデザインの小瓶をしげしげと眺める僕に告げる。
「叔父貴からだ」
「なんですか、これ?」
「香水。供えもんだよ。あの嬢ちゃん、もういねえんだろ」
僕は息を呑んだ。木崎が遠い目をして、淡々と語る。
「岡崎さんから聞いた。一回しか会ってねえけど、インパクトあったからな。叔父貴も気になってたんだろ。オレらはそういうところ義理固いんだ」
小瓶を握る。「ありがとうございます」と頭を下げ、それを鞄にしまう。木崎がどこか寂しげに笑いながら、僕に語りかけた。
「休み中にでも墓参りに行って供えてくれや。どうせ暇なんだろ」
「暇ではないですけど……分かりました。そうします」
暇ではない。その言葉に、木崎が反応した。
「なんかやることあんのか?」
「休み中にやりたいことがあって、その練習しなくちゃならないんです」
「休み中にやりたいのに今から練習して間に合うのかよ」
「練習というか、リハーサルというか、そんな感じなので」
「なんだそりゃ。劇か?」
「いえ」
僕は小さく首を振り、はっきりと答えた。
「登山です」
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