6-4


 下山して車に乗り込み、首都高速に入った頃には、もうとっくに夜になっていた。

 後部座席の三人は全員眠っていて、僕は起きていた。めちゃくちゃ眠いけれど助手席の人間は寝てはいけないというマナーを守った――わけではなく、真っ先に寝たので真っ先に起きただけだった。「ずいぶん気持ち良さそうに寝ていたな」。起きた瞬間、相馬さんにそう言われ、別に責めているわけではないのだろうけど居たたまれなくなった。

 夜の首都高速は混んでおり、ずらりと並ぶ自動車のバックライトが万華鏡のようで綺麗だった。落ち着いた雰囲気。だけどカーステレオが流すBGMはよりによって『リンダ・リンダ』。僕じゃないヒロトの叫びの上に、相馬さんがハスキーな声を被せる。

「今日は、楽しかったか?」

 僕は「はい」と頷いた。相馬さんは「そうか」と呟き、続ける。

「なら良かった。ただ、あまり他人には言わないでくれると助かる」

「どうしてですか?」

「中学生の子どもを残雪期の富士山に連れて行くなんて、クライマー倫理に外れた行為だからだよ。どれだけ罵倒されても足りない」

「何ともなかったじゃないですか」

「結果論で物事を語るクライマーに、山に登る資格はない」

 ストイックな人だ。何でこの人からあの奔放な娘が育つのだろう。謎すぎる。

「でも相馬さんが手伝ってくれなかったら、僕たち四人で勝手に行ってそのまま遭難してたかもしれないですし……」

「そうだ。それも説教しようと思っていた。いいか。元気なのはいいが命に関わるような無茶はするな。学校の屋上から飛び降りたそうだな。娘の日記を読んで震えたぞ」

 藪蛇だった。首を竦める僕に、相馬さんが厳しく言い放つ。

「君が死んだら、親御さんは泣くぞ」

 母さんの明るい笑顔が、ふっと脳裏に浮かんだ。

「そうしたくないなら、自分は大事にするんだ」

 僕は消え入りそうな声で「はい」と答えた。相馬さんが大口を開けて眠るケイゴたちが映るバックミラーに目をやる。それからさっきまでとは全然違う、控えめな声で語る。

「ただ、まあ、気持ちは分かる。私も昔は君たちと同じようなものだった」

「相馬さんが?」

「ああ。何なんだろうな、あの中学生ぐらいの時期に感じる全能感は。あの頃の私は永遠に生きるつもりだったよ。本当に今の私と同じ人間なのか疑わしいぐらい、無謀で考えなしだった。何をしても世界の方が道を開けると思っていた」

 何をしても世界の方が道を開ける。力強い言葉と共に『リンダ・リンダ』が終わる。次に流れるのは『1001のバイオリン』。重ねた『1』。その正体は――

 ――あ。

「分かった」

 思わず、呟きが漏れた。相馬さんが怪訝そうに眉をひそめる。

「何がだ」

「『1』ですよ、『1』。『1000』から『1001』になる時に増えた『1』です」

「なんだ?」

「自分です」

 相馬さんの頬がピクッと動いた。僕は勢いよく熱弁を振るう。

「たぶん、人の心を動かす音楽を作るのって、自分自身をも変えてしまうぐらいすごい行為だと思うんです。だから『1001』が出来た時、作った人たちの中には『1000』の時と違う自分がいたんじゃないでしょうか。だけど『1000』の時の自分も無くしたくなかった。だから、上書きしないで重ねたんです。昔の自分と今の自分。どっちの自分も大切に出来るように」

 僕もいつかは、大人になる。

 今でも時たま、膝関節の裏側に成長痛を感じることがある。ちんぽこの毛はもうだいぶ生え揃ったけれど、髭は産毛みたいなやつしか生えていない。僕はまだ変わる余地がある。今の僕とは全く違う僕になる可能性がある。

 だけど、そうなった時――

 僕は、今の僕を、ないがしろにしたくはない。

「自分自身か。なるほど」

 目尻に皺を寄せ、相馬さんが少年のように笑った。

「面白い考えだ」


   ◆


 上野駅に着いた。

 車を降りて荷物を下ろし、運転席の相馬さんに四人でお礼を言う。相馬さんは「私も久々に楽しかったよ」と返し、そのまま別れの言葉を告げて去った。カトウが大きく伸びをしながら声を張る。

「あー、つかれたー」

「明日は筋肉痛だね、これ」

 ソンがコキコキと首を鳴らし、ケイゴが「そうか?」と呟いた。すさかずカトウが「これだから脳筋は……」と茶化し、ケイゴが「あ?」とすごむ。僕は笑いながら、みんなに向かって告げた。

「帰ろうぜ」

 反論なし。四人で上野駅広小路口前の横断歩道を渡ってアメ横に入る。デパート横の路地を歩き、最初の十字路に差し掛かったところで、ソンが「じゃあ、僕こっちだから」と左を指さした。

「またね」

「うん、また」

 ソンが左へ行き、残り三人はそのまま真っ直ぐアメ横を行く。アメ横を抜けた後は左に曲がり、昭和通りを渡る。渡り切ったところでカトウが僕とケイゴから離れ、ひらひらと手を振りながら軽く言い放つ。

「んじゃ。またそのうち」

「おう。じゃあな」

 カトウは大通りを行き、僕たちは狭い路地に入る。間もなく、僕たちの通っていた学校が見える。闇の中にのっぺりと浮かぶ四角い建物。何の思い入れもなかったはずなのに、どうしてだろう。今は言葉に出来ない物悲しさを感じる。

 学校を通り過ぎ、学校前の公園に着く。公園の中にある「なんじゃもんじゃの木」を公園の外から覗き見る。月明かりに照らされてぼんやりと光る新緑を眺めているうちに公園を通り過ぎ、ケイゴが僕から身体を背けながら口を開いた。

「じゃあな。暇出来たらまた会おうぜ」

「分かった。じゃあ」

 ケイゴが道を曲がり、僕は真っ直ぐ進む。とうとう一人。全員、また会うことを約束して別れたけれど、きっとそう簡単に会うことはないだろう。いつまでも中学の友達とつるんでいるのはカッコ悪いから。僕たちはみんな、そういうやつだ。

 空を見上げる。三日月の優しい光が、じんわりと眼球の奥に染み込んでくる。僕は夜空を仰ぎながら歩き続ける。こぼれ落ちそうになる何かを堪えるみたいに。

 そのうち、アパートの部屋の前に着いた。財布から鍵を取り出し、鍵穴に挿し込んで開ける方向に回す。抵抗ゼロ。あれ、おかしい。ドアノブを掴み、捻って、ドアを引く。

 開く。

 玄関に母さんの靴。リビングに入ると、ソファに寝転んでスマホを弄る母さん。僕が「仕事は?」と尋ねると、母さんはスマホをテーブルに置いて口を開いた。

「なんか、気分じゃなくて」

「気分じゃない?」

「雪山に登るのはとても危険なんでしょ。ヒロくんが帰ってこなかったらどうしようって考え出したら止まらなくなっちゃって、ママ、仕事行けなかったの」

 僕は苦笑いを浮かべた。僕が死んだらどころか、もしかしたら死ぬかもしれないというぐらいで深刻な影響が出ている。これは確かに、自分を大事にした方が良さそうだ。

「そんなに心配なら連絡すればいいのに」

「だって、ヒロくんの邪魔したくなかったんだもの」

「邪魔?」

「彼女に合格報告しにいったんでしょ?」

「……うん」

「どうだったの?」

「分からない。でも、伝わったと思う」

「そう。なら大丈夫。ヒロくんが伝わったと思うなら、ちゃんと伝わってるよ」

 そうだね。囁くように答え、自分の部屋に向かう。ドアノブに手をかけて回そうとしたその時、背中から呼びかけが届いた。

「ヒロくん」

 振り返る。全てを受け入れて、優しく微笑む母さん。

「おかえり」

 僕は母さんに微笑み返し、静かに答えた。

「ただいま」


   ◆


 月の姫をめぐる僕と仲間たちの冒険はこれでおしまい。だけど、ちょっとした後日談がある。

 高校生になった僕は、姫に倣って日記を書き始めた。日記帳の表紙にはミミズの這うような筆記体で『Adventure Book』と記してある。新しい冒険の新しいセーブデータ。そこに僕は日々変わっていく僕自身を、コツコツと積み重ねている。

 新しい冒険譚に月のお姫さまは登場しない。ぶっきらぼうな武闘家も、理屈っぽい魔法使いも、お調子者の盗賊も出て来ない。それでも書くことは尽きない。世界は継続して、僕に刺激を与え続けてくれている。

 七瀬ヒロトの冒険はまだ始まったばかりだ!

 気持ち的には、そんな感じ。


   ◆


 そうだ。一つ、大事なことを忘れていた。

 僕に向かって月のお姫さまを名乗ったあの少女はなんと、本当は月のお姫さまでは無かったそうだ。月の王国はでっちあげ。『月帰還性症候群』は遺伝性の小児癌。受け継いだ冒険の書の最後のページにそう記してあった。クスクスと悪戯っぽく笑う声が聞こえてきそうなかわいらしい丸文字で。『今まで騙してごめんね』という言葉と共に。

 信じられるかい?

 僕は、信じられない。

 だから僕は今も、月が煌々と輝く夜は、夜空に向かって手を振っている。

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御徒町カグヤナイツ 浅原ナオト/ドラゴンブック編集部 @dragonbook

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