1-3

 その日、僕は朝六時に起きた。

 待ち合わせ時間は昼過ぎ。前の日に早く寝たならともかく、夜中まで眠れなかったのにこのザマだ。遠足が楽しみすぎる小学生かと、僕は自分で自分にツッコミを入れた。

 外に出て、早朝の上野公園を散歩して時間を潰す。桜はもうだいぶ散ってしまっていたけれど、すでにブルーシートを敷いて花見の場所取りを始めている人がたくさんいる。金で場所取りを引き受けたと思われる頬の煤けたホームレスの老人と目が合い、僕は「お疲れ様です」みたいな感じで笑ってみた。老人はにへらと、ところどころ前歯が抜けた目の粗い櫛みたいな口内を見せて笑い返した。

 散歩の後は家に戻り、自分の部屋で過ごした。待ち合わせ時間が近づき、前に花見に行った時と同じ格好に着替えて部屋を出る。昼食用の菓子パンを食べて「さあ行くぞ」という気になったその時、寝起きの母さんがふわあと欠伸をしながら部屋から出て来た。

「ヒロくん、おはよう。どっか行くの?」

「うん。ちょっと」

「デート?」

「そうだね」

 母さんの目が一気に覚めた。僕は菓子パンの袋をゴミ箱に放り込み、玄関に向かう。

「ヒロくん! その話、詳しく教えて――」

「行ってきます!」

 外に飛び出す。雲一つない青空から眩い春光が降り注ぐ。絶好のデート日和だった。


   ◆


 病院のロビーについた時、そこには既に花柄のワンピースを着て小さなハンドバックを提げた少女が待っていた。待ち合わせ時間十分前。笑いながら「遅い」とからかってくる少女に、僕は戸惑いながら尋ねる。

「まだ十分も前なんだけど、早くない?」

「実は今日、すごく早く起きちゃってさ。暇だったから軽く散歩して三十分ぐらい前から待ってたの。遠足前の小学生みたいでしょ」

 心臓が跳ねた。「実は僕も」と言いかけて口を噤む。女はいいけど男はダメだ。いや、別にダメじゃないかもしれないけれど、僕的にはナシ。

「じゃ、行こ」

 当たり前のように、少女が右手を僕の左手に絡ませた。小さくて柔らかくてドキドキする。興奮するというより、迂闊な扱いをしたらすぐに壊れてしまいそうで。

「今日はどこに連れて行ってくれるの?」

「逆に、どこか行きたい場所ある?」

「不忍池のボート乗りたい。あと本屋で日記帳買いたいな。今使ってるやつがなくなりそうなの。それからもう一つ行きたいところあるけど、それはまだ秘密」

 意外と希望が多かった。それならそうと先に言っておいて欲しい。昨日一日かけて昼から夕方までのデートコースを考えたのが、全部パーだ。

「それなら、とりあえずボート行こうか。近いし」

 少女の手を引いて病院を出る。無縁坂を下り、不忍池に向かう。少女の歩みはとてもゆっくりで、なんだか、時間の流れが違う世界に迷い込んだ気分になった。

 不忍池に着いたら真っ直ぐボート乗り場に行き、七百円払って手漕ぎボートを六十分借りた。二人でボートの端と端に乗って、僕がオールを動かし、どんどんと池のほとりを離れて中心部に向かう。

 不忍池は弁財天を祀っている弁天島を中心に三つのエリアに分かれている。上野動物園の中にある鵜の池。蓮の葉が池を埋め尽くす蓮池。そして僕たちのいるボート池。昼間のボート池はカップルや家族連れで賑わい、特に花見の季節は人気が高い。だけど一つ、良くない噂もある。

「ねえ」近くの若い男女が乗ったボートを眺め、少女が呟いた。「このボート、カップルで乗ると別れるってジンクスがあるんだけど、ヒロトは知ってた?」

 知っていたのか。僕は「うん」と頷き、言葉を続けた。

「弁財天が嫉妬するって話でしょ。有名だよ」

「わたしはそれ冤罪だと思うけどね。まだ仲が固まってないのに上野にデートに来るセンスのせいでしょ。付き合いたてのカップルが楽しめそうなキラキラしたものがぜんぜんないんだもん、この街」

 完全に同意だ。上野で初デートしている最中に言うセリフではないけれど。少女が僕に頭を向けて仰向けに倒れ込み、ふうと大きく息を吐いた。

「でもそういうジンクスがあるから、このボート乗りたかったんだよね」

「どういうこと?」

「神様に喧嘩売りたくて。ジンクスがなんぼのもんじゃい、みたいな」

 寝転がったまま、少女が眼球だけを動かして僕を見た。変則的上目づかい。

「ヒロトも寝ようよ。気持ちいいから」

 少女が手のひらでとんとんとボートの床を叩く。僕はオールを手放し、少女と頭を寄せ合うようにボートに寝転がった。空はどこまでも青く、その空を鏡のように映し出す水面も青い。青と青に挟まれながらゆらゆらと揺られ、宇宙を漂っているような気分になる。

「ヒロト」頭の先から、少女が問う。「この前病院にいた男の子たちは、友達?」

 思わず、起き上がりそうになった。少女が顔は見えないけれど笑っていると分かる、朗らかな声で語る。

「さすがに分かるよ。あのおっきい金髪の子とか、すごい目立ってたもん」

「……ごめん。どうしてもついて来るって聞かなくて」

「謝るなら友達を紹介しなかったことを謝って。話したかった」

 僕たちのボートの傍を、三人家族の父親が漕ぐスワンボートが通り過ぎた。水面が大きく揺れ、とぷんとぷんと身体が上下に揺さぶられる。

「初めて会った時、お酒飲んでたよね。それもあの友達と?」

「そう」

「悪友ってやつだ」

「そうだね」

「今まで他にどんな悪いことした?」

「鍵をピッキングツールで開けて、学校の屋上に忍び込んだりとか」

「すごい。いいなー。学校の屋上ってなんか憧れるよね」

 少女が空に腕を伸ばした。太陽を掴むように、小さな手を目いっぱいに広げる。

「わたしもそういう友達、欲しかったな。一緒にバカみたいなことして、バカみたいに笑い合って、そんなことをバカみたいに繰り返すの」

 欲しかった。過去形。僕と同じ、十四歳の女の子なのに。

「……そんないいものじゃないよ」

 起き上がってオールに手を伸ばす。胸にかかる靄を振り払うように、腕を振ってボートを漕ぐ。どこかから桜の花びらが一枚、ひらひらと舞って少女の髪に落ちた。


   ◆


 ボートを下りた後は、中央通り沿いにある総合書店に向かった。本だけではなくDVDやゲームも取り扱い、店内でカフェまで営んでいる大きな店。「どれにしようかなー」と上機嫌で日記帳を選ぶ少女に、僕は横から声をかける。

「どういうのがいいの?」

「結構書くから文字書けるスペースが広いのがいい。あと日によって書く量違うから、日付が先に入ってるのはダメかな。二ページ使いたい時に使えないから」

「……普通のノートが一番良くない?」

「そうだけど、それ言い出したら日記帳の存在意義なくなるし」

 少女が「これにしよ」と一冊の日記帳を手に取った。皮を模したブラウンのカバーがシックな感じの日記帳。陳列されているものを手に取って裏返して値段を確認すると、税込みで千円とちょっと。これなら――

「ねえ。それ、買ってあげるよ」

 レジに向かう少女を呼び止める。振り向いた少女が瞳を見開き、僕の顔をまじまじと覗き込んだ。

「なんで?」

「なんでって……」

「プレゼント?」

 僕が言いかけた単語を、少女が先に口にした。そう来られると僕は黙るしかない。首の後ろを掻いて立ち竦む僕に、少女が尋ねる。

「もしかして、ヒロトもちゃんとデート意識してた?」

「そりゃあ、まあ、一応は」

 からかわれることを覚悟して答える。だけど少女は、照れくさそうに目を伏せた。それから日記帳を胸に抱き、もじもじとらしくない態度で呟く。

「ありがとう。すごく嬉しい」

 少女が日記帳を僕に渡した。それからぷいと顔を逸らし、僕から少し離れる。――もしかして、攻められると案外脆いのだろうか。意外な発見に、小さい頃、道端でぴかぴか光る綺麗な石を拾った時のような嬉しさを覚える。

 日記帳を買った後は店内のカフェで軽く時間を潰し、店を出る頃には時間は午後三時を回っていた。夕方には解散する予定だから、あと三時間といったところだろう。少女はもう一つ行きたいところがあると言っていたし、あまり余裕はない。

「次どうする? 行きたいところあるんでしょ」

「んー、そうだね。そこ行こ。たぶん、今日はそれで終わりだと思う」

「どこ行くの?」

「連れてくから、着いてきて」

 少女が僕の手を引いて歩き出した。僕はされるがままついていく。上野公園に入り、噴水広場から公園を抜けて通りを右へ。真っ直ぐ行けば国立博物館で、僕はそこが目的地だと予想していたのに、外れた。

 少女が左に曲がって細い道に入る。その先にあるものは寛永寺ぐらいしかないけれど、すぐにそれもスルー。僕はたまらず、もう一度少女に問いを投げた。

「ねえ、どこ行くの?」

「鶯谷」

 鶯谷。

 御徒町とは反対側にある上野の隣の駅。明治から昭和初期に文豪の正岡子規が住んでいて、今もその所縁の建物が残っていて、でもそんなことは全然知られていないしだいたいの人が鶯谷と聞いて最初に連想するものはおそらく正岡子規ではない。

「……鶯谷の、何に行きたいの?」

 僕は質問の範囲を狭めた。少女は歩みを止めることなく、最も多くの人間が鶯谷から連想するであろうものを、迷うことなく口にする。

「ラブホ」


   ◆


 休憩二時間、三千五百円。

 料金は少女が強引に支払った。「さっき日記買ってくれたし」と言われ、日記帳をプレゼントしたことが悪手だったような気分になる。ラブホに入るところから止めれば良かったのかもしれないけど、出来るわけがない。デート中に彼女がラブホに行きたがっているのに「僕はまだそういうの早いと思う」とか、男から言えるかって話だ。

 部屋に入るなり少女が靴を脱ぎ、どうやって玄関を通したのか不思議になる大きなベッドにダイブした。僕は部屋をざっと見回し、テレビキャビネットの上にコンドームが用意してあるのを見つけてひとまず安心する。

「すごーい。ふかふかー」

 少女がごろりと仰向けになった。それからベッドの縁に腰かけ、僕がその隣に座ると、上着をポールハンガーにかけるみたいに自分の身体を僕の身体に寄りかからせた。僕の右肩に、少女の頭がちょこんと乗っかる。

「ヒロトは、ラブホテルって来たことある?」

 ある。五歳の時、母さんと風俗嬢仲間が開いたラブホ女子会に呼ばれて来た。お菓子を貪り食って、ジュースを浴びるほど飲んで、アニメ映画を見たりコンドームで水風船を作ったりして散々堪能した。幼い僕はみんなにとても可愛がられ、とあるホスト狂いの風俗嬢は僕と一緒にお風呂に入り「ヒロトくんがあと十歳大きかったらサービスしちゃうんだけどなあ」と言いながら僕のちんぽこをピンと弾いた。――言えない。

「ないよ」

「そうなんだ。じゃあ、女の子のおっぱい揉んだりしたこともない?」

 ある。特に印象深いのは七歳の時、母さんと風俗嬢仲間と一緒に出かけた温泉旅行で行われた『おっぱいの持ち主は誰だろなゲーム』だ。目隠しをした僕がおっぱいを揉んでその持ち主を当てるという酔った大人の悪乗り全開なシンプルかつ意味不明なゲーム。僕の正解率は高く、とあるAV女優もやっていた風俗嬢から「ヒロトくんは将来立派なおっぱいマイスターになるよ」と謎のお墨付きを貰った。――言えない。

「ないね」

「揉みたい?」

 ――難しい質問だ。揉みたいか揉みたくないかの二択なら、それは、揉みたい。だけど事はそう簡単ではない。僕の隣にいる女の子はただの女の子ではない。未来を捨て、現在に全てを賭ける、片道分の燃料しか積んでいない戦闘機のような女の子なのだ。

「あのさ」慎重に言葉を選ぶ。「そんなに焦ること、ないと思うよ」

 少女の頭が、僕の肩から離れた。僕は少女の方を向かずに続ける。

「そういう風になるにしても、もっとお互いを知ってからの方がいい。君がたくさんのことを経験したいのは分かるけど、経験がマイナスになることもあるんだから」

 横目で少女を覗く。少女はしばらく僕の横顔をじっと覗き込んだ後、糸が切れた人形のようにベッドに仰向けに倒れ込んだ。そして焦点の合わない目でぼんやりと天井を見上げたまま、おもむろに口を開く。

「わたしね、ブルーハーツ聞いたの」

 ブルーハーツ。話題がまるで変わり、僕はただ瞬きを繰り返す。

「まだ少ししか聞いてないけど、すごく良い。今のところ『1000のバイオリン』が一番好きかなあ。ヒロトは何が一番好き?」

「聞いたことない」

「え、ウソ。なんで? 名前の由来なんでしょ?」

「ブルーハーツを最初に好きだったのは父さんなんだけど、僕が物心つく前に失踪したんだ。それがまた自分勝手な理由でさ。なんかムカつくから、聞いてない」

「……そっか。ごめん」

 いいよ。君の背負っている運命に比べたら、僕の過去なんて大したことは無い。親に捨てられた程度の話、世界中のどこにでも、イヤになるぐらい転がっている。

「でも、良かったらヒロトも聞いて。力強くて、優しくて、でもどこか寂しくて……雰囲気がすごくヒロトだったから。今日デートして、もっとそう思った。分かったようなこと言っちゃうけど、伊達や酔狂で名前貰ってないよ」

 少女が笑う。この子の感じている僕が正しいのかそうでないのか、それは僕自身にも分からない。だけどこの子が僕を理解しようとしてくれていることは間違いない。

 僕も、逃げてばかりではいられない。

「僕も君のこと、調べたよ」唾を飲み込み、喉を湿らせる。「光の旅人」

 電灯のスイッチを切り替えたみたいに、少女から笑みが消えた。病院で大前田に見せた表情。無。その内側に押し込めた感情に触れようと、僕は言葉を紡ぐ。

「あの大前田って人のフェイスブックを見つけて、そこから調べた。会報のインタビュー記事も読んだよ。正直、驚かなかったと言えば嘘になる。でも――」

「あれ、デマだから」

 有無を言わせぬ勢いで、少女が僕の言葉を遮った。

「全部デマ。嘘八百。そういう風に嘘ついて、人からお金を騙し取ってる人たちなの。だからわたしは嫌いなんだけど『自分たちなら月からの迎えを追い返せる』とか言われて、お父さんがコロッと信じちゃってさ。無理に決まってるのに」

 月に帰る。地球からいなくなる。――二度と会えなくなる。

「あの人たち、毎月、満月の夜に集会をやるの。月の力を受け取るとか言って。わたしもそれ出てるんだけど、やり方めちゃくちゃで笑っちゃうんだよね。まず教祖のおじさんが瞑想するでしょ。そのうち力溜まったとか言い出すでしょ。それから集まった一人一人を抱き締めて力を渡すの。人体を通して月のエネルギーは移動しないのに。若い女の子を抱き締める時だけ時間長くて、本当、気持ち悪い」

 少女が寝転がって僕に背を向けた。小さな背中。僕よりも、ずっと。

「わたしはあんな人たちを信じない。お母さんを信じる。自分は月の女王で、月に帰ってもわたしのことをずっと空から見守ってるって言ってくれた、お母さんを」

 少女が語る。自分自身に言い聞かせる。そして僕には声にならない声で、全く違う懇願めいた言葉を投げつける。

「わたしは月に帰るだけ。お母さんに会いに行くだけ」

 触らないで。踏み込まないで。――暴かないで。

「それだけなんだから」

 僕は、何も言えなかった。ベッドの縁に腰かけて俯き、ただ時が過ぎるのを待つ。やがて少女の健やかな寝息が聞こえてきて、僕は部屋の電気を消し、ベッド脇のソファの上で眠りについた。


   ◆


 ホテルを出てからは真っ直ぐ病院に戻った。ホテルに入る前はあれほど明るかった少女が、帰り道ではほとんど無言になっていた。何も知らない人間が前と後だけ見たら、とんでもなく下手くそなセックスをしたと誤解しただろう。

 無縁坂を上って大学の門をくぐろうとした時、少女が繋いでいた手を振り払い「ここでいい」と僕に告げた。病院に入るところを見られたくないのだと直感した。夕焼けの中、少女がぎこちなく笑い、最後の言葉を口にした。

「今日はありがとう。楽しかった。またデートしようね」

 嘘だ、と思った。きっとこの子はもう僕に連絡を寄越さない。僕からの連絡に返事も寄越さない。無邪気な月のお姫さまではいられなくなってしまったから。

だからきっと、これが最後のチャンスだ。

「あのさ」迷うな。「次の『光の旅人』の集会は、いつ?」

 少女が目を見開いた。戸惑いながら、それでも答えてくれる。

「次の満月だから、再来週の金曜」

「どこでやるの?」

「いつも秋葉原の貸し会議室だからたぶんそこ。大前田さんのフェイスブック知ってるんでしょ。そこに書いてあるよ。あの人、教団の宣伝部長だから」

「そっか。ありがと。じゃあ、またね」

 別れを告げ、手を振って背中を向ける。きっと彼女は相当に困惑した表情をしているのだろう。無理もない。僕だって困惑している。お前は何を考えているんだと、自分で自分に問い続けている。

 上野を越えて御徒町に入り、通っている中学校に向かう。正確には中学校の隣の公園。そこには『なんじゃもんじゃの木』という、なんの木か分からないから「なんだか分からない木」と呼び続けていたらそのままそれが名前になった冗談みたいな木がある。ラブホで少女が眠っている最中、僕はその木を集合場所に指定してあいつらを呼び寄せた。

 公園に足を踏み入れる。『なんじゃもんじゃの木』の前で僕を待っていた三人が、一斉にこちらを向く。歩み寄る僕に最初に声をかけたのは、カトウだった。

「彼女と盛り上がって、こっち来ねえかと思った」

 何か言い返そうと口を開いたけれど、言葉が上手く出て来なくて、餌を欲しがる鯉みたいになった。ケイゴが前に出て口を挟む。

「で、用件はなんだよ」ケイゴの口調はいつも通り乱暴で、でもなぜか、突き放されているとは感じなかった。「ただの彼女自慢だったらぶっ殺すぞ」

 僕は大きく息を吸った。深呼吸。これから話すことの前にはそれが必要だと思った。幅跳びの前の助走のように。演奏の前の調律のように。

「頼みがある」

 自分の声が、キンと頭の後ろに響いた。

「無茶苦茶な頼みだ。正直、俺の中でも全然まとまってなくて、自分自身何がしたいのか分からないところもある。みんなには何のメリットもないし、それどころかとんでもない迷惑をかけるかもしれない。だから別に断ってくれても構わない。まずは話を――」

「いいよ」

 明瞭な声が、僕の台詞をぶった切った。

 切れ味鋭い日本刀のような返答を放ったのは、ソンだった。あまりにも見事に切断されて、断末魔の声を上げることすら出来なかった。口を開き、言葉を失う僕の前で、ソンがテキパキと話を進める。

「その頼み、引き受ける。ケイゴもカトウもいいでしょ?」

「金の話じゃなけりゃな」

「ヒロトがおれらにそんなこと頼むわけないっしょ」

 僕は――

 僕は、自分の想いをどう伝えるか、どう伝えれば理解して貰えるか、必死に言葉の船を組み上げてここにやってきた。だけどその船は出港直後に大破した。それも漫画で言うと、なんか右下に小さいコマが一コマ余ったから船壊しとくかみたいな、そんなノリで。

「どういう頼みか、気にならないのかよ」

 木片になった船を捨てきれず、僕は尋ねる。三人が顔を見合わせ、お互いに「お前が答えろ」オーラを送り合う。そして最終的に、ソンが代表して口を開いた。

「別に気にならないわけじゃないけど」

 照れくさそうに、恥ずかしそうに、ソンが眼鏡の奥の目を細めてはにかんだ。

「聞かないで引き受けた方が、なんかカッコよくない?」

 ――思い出した。

 そうだ、思い出した。こいつらはこういうやつらだった。だから僕たちは出会ったのだ。友達になったのだ。そんな当たり前のことを、僕は忘れてしまっていた。

 中学二年生の四月。

 僕は新しいクラスに馴染めていなかった。だけど一年の時も馴染めていなかったし、小学生の時も馴染めていなかったし、つまりおおよそ学校というものに馴染めたことが一度もなかったのであまり気にしていなかった。ただ、僕が気にしていないそれをすごく気にする女の子がいた。栗色の入ったふわふわしたショートボブがかわいい女の子。彼女は孤立する僕にちょくちょく声をかけ、クラスのグループで行われる放課後のカラオケやら休日の映画鑑賞会やらに僕を誘い、そういうものが苦手な僕はマジ勘弁と思いつつやんわり誘いを断り続けた。

 そして、それがどうしても気にくわない男が同じクラスにいた。

 今野という苗字のそいつは小学校三年生と四年生の時の僕のクラスメイトで、なんでそうなったのかはよく覚えていないけれど、僕のことが死ぬほど嫌いだった。親から聞きかじった「売春婦の息子」みたいな十歳そこらの子どもにしては凝った罵倒を、「ばいしゅんふのむすこ」みたいな十歳そこらの子どもらしい舌足らずな口調で僕に飛ばしまくっていた。僕もそんな今野のことが当たり前だけど大嫌いで、上野動物園から逃げ出したライオンに食われて死んでくれないかなと常々思っていた。

 事件は、四月の下旬に起こった。

 その日の放課後、僕は例の女の子から遊びに誘われ、それを断った。ゴールデンウィークに遊園地に行こうという話だったと思う。水族館だったかもしれない。まあそれはどうでもいい。問題なのはそれを今野が横で聞いていて、「調子に乗っている」僕を許せなくなって会話に割り込んできたということ。

「あのさ、こんなやつと関わらない方がいいよ」下卑た笑いを浮かべながら、今野が親指で僕を示す。「こいつの母親、風俗嬢なんだぜ。本番あり系の」

 教室が少しざわついた。出自がバラされたことに僕は動じない。小学校ではそれなりに有名な話だったし、そうなると中学校でも知っているやつはそこそこいる。

 だけど話を聞いた女の子が不快を露わにし、彼女らしくないキツイ口調で今野を責め始めたのは、少し驚いた。

「それがなに? 七瀬くんと七瀬くん、お母さんはお母さんでしょ。バカじゃない?」

 女の子がぷいと顔を背け、僕と今野から離れた。思わぬ反撃を受けた今野はしばらく呆け、それから顔を真っ赤にして僕を睨みつける。経験上、面倒なことになるのが目に見えていた僕は、さっさと場を離れようと学生鞄をかついで教室の出入口に向かった。

「調子乗んなよ! 七瀬!」

 僕の背中に向かって今野が叫んだ。昔ならそのまま喧嘩したかもしれないけれど、僕はもう十歳のガキではない。成長したのだ。そんな余裕を見せつけるように、僕は胸を張ってゆうゆうと立ち去ろうとした。

 だけど成長したのは、僕だけでは無かった。

「俺のいとこがさあ! お前の母ちゃん買ったんだよ!」

 僕は、足を止めた。

 僕は「風俗嬢」を馬鹿にされても怒らない。僕が出会った風俗嬢の人たちは、みんな自分の仕事を誇り高いなんて思っていなかったから。僕が十歳上ならサービスするのにと言ったホスト狂いの女の人は首を吊って自殺した。僕が将来立派なおっぱいマイスターになると言ったAV女優の女の人は薬物中毒になって刑務所に行った。幼い僕は誕生日のお祝いをしてくれたり寝込んだ時に看病をしてくれたりするみんなが大好きだったけれど、みんなは「ヒロトくんは私たちみたいな彼女なんか作っちゃダメよ」と自分のことがあまり好きではないみたいだった。だから、当人たちがそうだったから、僕は風俗嬢を悪く言われるのもその子どもである自身を悪く言われるのも、それなりに耐えることが出来た。僕の母さんが売春をしていることも、僕がそうやって稼いだ金で生かされている子どもであることも、単なる事実以上の意味を持っていなかった。

 小学生の頃、今野は「風俗嬢」しか馬鹿にしてこなかった。それがどういう人間なのかも分かっていなかったのだろう。ただ大人が口にした侮蔑を横流しするだけの、かわいらしいと呼んでも差し支えない悪意。だから今野は――知らなかったのだ。

 僕は「母さん」を馬鹿にされると、キレる。

「マンコゆるゆるで、使い物になんなかったってさ」

 それから先に起こったことについて、僕は詳しいことを覚えていない。

 気が付くと、僕はクラスメイトに羽交い絞めにされていた。床には血まみれの顔からボロボロと涙を流して「ほめんなふぁい」と謝る今野がいた。僕のことを気にしていた女の子が震えながら「こんな人に関わるんじゃなかった」という目で僕を見ていた。僕の心の成長なんて、今野の悪意の成長に比べたら、ゴミカスみたいなものだった。

 今野が病院に運ばれる一方、僕は職員室に連れていかれて担任から説教を受けた。素直に謝罪を繰り返していたら「後は当人同士で話し合え」と解放された。「お母さんにちゃんと報告するんだぞ」と言われ、お前が報告しろよめんどくさがってんじゃねえ仕事だろと思ったけれど、言わずに「分かりました」と頭を下げた。

 担任が鞄を職員室に持ってくることすらしてくれなかったので、僕は帰る前に教室まで戻る羽目になった。夕暮れを迎えた外は薄いオレンジ色に染まっていて、校舎にはもうほとんど人が残っていなかった。僕は無人の教室をイメージしながら、扉を開いた。

 鞄は、僕の机の上にあった。

 当時、僕の机は教室の真ん中あたりにあった。薄暗い教室の中央にぽつんと置かれた学生鞄を、僕はまるで魔王召喚のために捧げる触媒のようだと思った。鞄だけを見てそう思ったわけではない。クラスメイトの男子が三人、鞄を中心に正三角形を描くように座っていて、それが方陣を組んで何かを呼び出す黒魔術的な儀式に見えたのだ。

 金髪の男子と童顔の男子はスマホを弄り、眼鏡の男子は本を読んでいた。三人とも一度も話したことのないクラスメイトだった。僕は金髪がヤンキーで、眼鏡が中国人で、童顔の下の名前が面白いということしか知らなかった。全員、僕を待つ理由なんて一つもないはずだった。

 眼鏡が本を閉じ、金髪と童顔が顔を上げた。戸惑う僕に、眼鏡が優しく告げる。

「おかえり」

 それから僕たちは、眼鏡の両親が営んでいる中華料理屋に行った。眼鏡の両親は息子が友達を連れて来たことを喜んで水餃子をご馳走してくれた。美味しかった。本当に、泣きたくなるぐらい美味しかった。誰が言い出すわけでもなく「また来よう」という流れになり、実際にまた来て、そうこうしているうちにいつの間にか僕とケイゴとソンとカトウは、たくさんの時間を共有にする友達になっていた。

 しばらく後、僕は三人に、どうしてあの時教室に残っていたのか聞いてみた。

 僕の質問に、三人は悩んだ。答えが分からなくて悩むというより、分かっているけれど口にするのを悩んでいる感じだった。僕は執拗に尋ね続け、やがて三人は、三人で一つの答えを気恥ずかしそうに教えてくれた。

 残った方がカッコいいと思ったから。

「……ありがとう」

 頭を下げ、頼みを引き受けてくれた三人に礼を告げる。ケイゴが眉間に皺を寄せ、ソンとカトウが困ったように眉を下げる。分かるよ。こういうのは困るんだよな。カッコよくないから。分かっててやってるんだ。ざまあみろ。

 頭を上げる。夕暮れ空に浮かぶ、右端が少しだけ光る爪のような月を見つける。僕はその月に向かって高々と拳を掲げた。大丈夫。やれる。なぜなら僕たちはカッコいいものが大好きな中学生で、それはつまり、無敵ということなのだ。


 

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