1-4

 作戦決行日、学校から帰った僕はずっとそわそわしっぱなしだった。

 がむしゃらに走ってわけのわからない言葉を叫びたい気分だった。だけどそんなことで体力を消耗したら作戦に差し支える。準備万端とは言えないまでも、やれるだけのことはやった。あとは今日の運とパフォーマンス次第。アホみたいなことでズッコケるわけにはいかない。

 僕は自分を落ち着かせてくれるものを考え、一つの答えにたどり着いた。音楽。ブルーハーツ。あの子が好きだと言った曲を聞き、気持ちを高めて戦いに望む。最高にイケてるシチュエーションじゃないか。そう思った僕は普段はリビングに置いてある母さんとの共有ノートパソコンを自分の部屋に持ち込み、母さんが取り込んだ音楽ファイルを開いて『1000のバイオリン』を再生した。

 コンコン。

「入るよー」

 返事をする前にドアが開き、母さんが部屋に入って来た。ディオールのドレス(偽物)を着てティファニーのイヤリング(偽物)とブルガリのネックレス(偽物)を身に着けた出勤モード。――ノックした意味を教えろ。オナニー中だったらどうするんだよ、マジで。

「何か用?」

「別に。仕事行こうと思ったら懐かしい曲が聞こえて、入って来ただけ」

 母さんが僕のベッドに腰かけ、音楽に合わせて鼻歌を歌い出した。無茶苦茶なコミュニケーションの取り方だ。アメリカでは道ですれ違っただけの人間に「ヘイ! その時計イカしてるね!」とか言われることがあるらしいけれど、母さんは思考回路がアメリカ人に近いのかもしれない。

「この曲ね」うっとりと目を瞑り、母さんが呟く。「パパも好きだったよ」

 さすがに、聞き流せなかった。僕は母さんを見つめ、母さんは僕に微笑む。ヒロくんも十四歳だもんね。聞きたいこと聞いていいのよ。そういう心の声が届く。

「……僕の父さんって、どんな人だったの?」

「クズ」

 しんみりした雰囲気が粉々に砕け散った。母さんが薄紅色の唇を歪めて笑う。

「女子高生を妊娠させて逃げる男なんだから、クズに決まってるでしょ」

「それだと僕はクズの遺伝子をひいてることになるんだけど」

「安心して。ヒロくんはママ似だから」

 それはそれでイヤかもしれない。言わないけど。

「でもね、どうしようもないクズだったけど、ママは感謝してるの。だってパパがいなかったらヒロくんには出会えていないんだもの。そんな人生考えられない」

 母さんがしみじみと呟く。僕は黙る。僕は、母さんが僕のことを心から愛してくれていることを知っている。それは嬉しい。嬉しいけれどたまに、辛くて、苦しくて、どうしようもなくなる時がある。

 数年前、母さんに再婚の機会があった。

 相手は御徒町で宝石商を営んでいる五十過ぎの男。気まぐれでフラッと立ち寄った風俗店で母さんに出会い、骨抜きになった。高価なプレゼントを送って、豪華な食事に連れて行って、あの手この手で母さんを落とそうとした。僕も新宿の高い焼肉に連れて行ってもらった。焼肉は好きだったのに、そいつが僕を見る目がなんだか怖くて、あまり美味しく感じなかった。それでも焼肉の後に母さんから「あの人がお父さんだったらどう?」と聞かれた時は「いいと思う」と答えた。

 ある日、その男は店で母さんにプロポーズをした。こんな仕事は止めて俺だけの女になってくれ。何不自由ない暮らしを約束する。そんなことを言ったらしい。僕に父親としての合否を尋ねたぐらいなのだから、母さんは嬉しかっただろう。プロポーズを受けようと思っただろう。男が、次の一言を口にするまでは。

「ただし息子は児童養護施設に入れること。それが条件だ。いいな?」

 その後の母さんのキレっぷりは、それはもう、凄まじいものだったらしい。仕事から帰って来た後、鬼気迫る表情で「あの豚! 死ね! 死ね!」と貰ったプレゼントをゴミ袋に放り込む母さんですら僕は恐ろしくてしょうがなかったのだから、まさにブチ切れるその瞬間に出くわした人たちがどう感じたかは想像に難くない。僕にその話を教えてくれた母さんの風俗嬢仲間は「あれはほとんど殺人鬼だった」と、自分で自分の肩を抱いて震えるジェスチャーをしていた。

 彼女は、母さんがいかに僕を愛してくれているかを説きたかったのだろう。だから僕はその愛に応えて真っ直ぐに育たなくてはならないのだと言いたかったのだろう。それは何も間違っていない。だけど僕の捉え方は、違った。

 要するに母さんは僕を捨てれば、身体なんか売らなくてもヴィトンもフェンディもシャネルもディオールもティファニーもブルガリも全て本物が好きなだけ買える、幸せに満ちた輝かしい生活が出来たということなのだ。

 僕がいなければ。

 僕さえいなければ。

「じゃあ、ママ、仕事行くから」

 一曲聞き終えて、母さんが僕の部屋から出て行く。リピート再生にしているから、また同じ曲がすぐにもう一度流れる。僕は、僕ではないヒロトの歌声の力を借りて、喉の奥から声を絞り出す。

「母さん!」

 母さんが振り返る。呼び止めたはいいけど、なんて言おうとしたんだっけ。――ああ、そうだ、思い出した。

「行ってらっしゃい」

 上手く笑えているか分からないけど、笑ってみせる。母さんも笑い返す。綺麗なものも汚いものも全部混ぜこぜにして、たった一つの笑顔に変えてくれる。

「行ってきます」


   ◆


 午後九時、僕は家を出た。

 アパートの裏に停めている自転車に跨り、中央通りを南下する。冬用の厚手のジャンパーを羽織っているけれど、頬に当たる夜風が冷たくて体が冷える。帰り、大丈夫かな。そんなことが少し不安になる。

 やがて貸会議室があるビルに着き、僕は自転車をその脇に停めた。ビルに入るとロビーで待っていたケイゴが「おせーよ」と悪態をつく。「お前が早いんだろ」と言い返し、会議室の利用状況を示すボードを確認。二階B会議室、『光の旅人』様。

「ちゃんと持ってきたか?」

 ケイゴが右の親指と人差し指で銃の形を作る。僕が「もち」とジャンパーの右ポケットを叩くと、ケイゴは満足そうに笑った。これから起こることが楽しみでしょうがない。そういう表情に場数の違いを感じる。

 二人で階段を上り、二階B会議室の前に着く。クリーム色のドアの前で耳を澄ませるけれど、中からは何も聞こえない。瞑想中だろうか。それなら好都合だ。

「そんじゃ――」

 ケイゴがドアノブに手をかけようとした。僕はそれを「待った」と止める。おあずけをくらった犬みたいに、ケイゴが不満そうに口を尖らせた。

「なんだよ」

「俺、お前に金貸してたっけ」

「……は?」

「いや、今日ここに来る前にある曲をヘビーローテーションで聞いてたんだけどさ、その曲に『誰かに金貸してた気がするけどもうそんなんどーでもいい』みたいな歌詞があるんだよ。今ちょうどそんな気分だなと思って」

「だからなんなんだよ。頭イカれてんのか?」

「頭イカれてなけりゃこんなことしねえよ」

「そりゃそうだ。――開けるぞ」

ドアが開いた。

 机と椅子が全て端に寄せられた会議室の中央に、顎髭をぼうぼうに伸ばして白装束を着た仙人のようなおっさんが胡坐をかいていた。そして同じく胡坐をかいてそのおっさんを円形に取り囲む十人ちょっとの人たち。その全員の視線が今、闖入者である僕とケイゴに注がれている。

 部屋をざっと見回す。右奥に瞳を剥く白いワンピース姿の少女を見つける。僕はニヒルな笑みを浮かべ、心の中で少女に気障な言葉をかけた。

お迎えにあがりました、プリンセス。

「君たち――」

 パン!

 ジャンパーのポケットから火薬銃を取り出して撃つ。手のひらサイズの拳銃の玩具に火薬を詰めて音だけを出すアレ。鋭い音が空気を裂き、何か言いかけた大前田から言葉を奪った。僕は跳ねるように走って少女の元に赴き、開いた右の手を差し出して叫ぶ。

「行くよ!」

 少女が僕の手を取った。大前田が立ち上がろうとしたけれど、そのタイミングで今度はケイゴが火薬銃を撃ち、炸裂音に怯む大前田を蹴とばして転がす。人は大きい音を聞くと固まる。岡崎ケイゴ流喧嘩術。狭い場所ならば下手な武器より有効だそうだ。

 少女を連れて会議室を出る。ケイゴは会議室に残り、また火薬銃を撃つ。時間稼ぎ、任せたぞ。胸中でエールを送りながら走り、一刻も早く場を離れようとする。

「待ちなさい!」

 突然、少女の身体が反対側に引かれた。振り返ると僕が握っていない方の腕を、眼鏡をかけた痩せぎすの中年男性が掴んでいる。確か少女の隣に座っていた男。ケイゴを振り切って会議室から飛び出して来たようだ。

「パパ」

 少女が呟き、僕は驚く。パパ。お父さん。妻を失い、娘も失いかけ、神に縋るしかもう手がなかった憐れな男。僕の母さんが僕を大事に思ってくれているように、この人も娘のことを大事に思っているはずだ。愛おしくてたまらないはずだ。

 言わなくてはならない。

「娘さんを僕に下さい」

 パン!

 火薬銃を撃ち、ケイゴが少女から父親を引きはがした。「バカなこと言ってねえでさっさと行け!」とドヤされ、僕はなにやってんだと我に返る。ケイゴに抑えられながら暴れる父親に向かって、少女が非情な言葉を明るく言い放った。

「ごめん! パパ!」手を立てて、謝罪のジェスチャー。「わたし、今日、カレシんち泊まるから!」

 再び、少女の手を引いて走る。背中から「ノゾミ!」と父親の悲痛な声が聞こえる。僕は罪悪感に襲われながら階段を駆け下り、ロビーから外に飛び出した。それから停めておいた自転車に跨り、後ろの荷物台を顎で示す。

「乗って!」

 言われるがまま、少女が荷物台の上にぴょんと飛び乗った。僕は着ていたジャンパーを脱いで少女に羽織らせ、ペダルに足を乗せる。

「しっかり掴まってよ」

 ペダルを漕ぐ。自転車が夜の街を弾丸のように駆け抜ける。少女が右手で僕を抱き、左手で頭を抑え、僕の背中に柔らかい脂肪を押し付けながら耳元で囁いた。

「ねえ、どこ行くの?」

「僕の通ってる中学校。見せたいものがあるんだ」

「見せたいもの? なに?」

 大型トラックが傍に寄って来た。僕は排気音に負けないよう、声を張り上げる。

「世界!」


   ◆


 秋葉原からおよそ五分ほど自転車を漕ぎ、中学校に到着した。格子状の鉄扉で閉ざされた正門の前に自転車を停めて降りる。それから鉄扉を掴み、スライド式に開くそれを横に動かす。扉はあっさりと動き、正門に人の通れる隙間が生まれた。

「行こうか」

「え、中入っちゃうの?」

「うん」

 僕は門を抜けた。少女もおそるおそる少しだけ開いた門から学校の敷地内に入る。正門を入ってすぐの扉で閉ざされた昇降口は無視し、校舎をぐるりと回って教職員専用の通用口に向かう。通用口のドアは電子ロックされていて、カードキーがないと外から開けることは出来ない。だけど中からなら、開く。

 ドアを手の甲でコンコンと叩く。すぐに内側からドアが開き、中からソンとカトウが姿を現す。僕の後ろに隠れる少女をちらりと見て、ソンが満足そうに笑った。

「とりあえず奪還は成功だ」

「まあね。そっちは?」

「僕の仕事もカトウの仕事も終わったよ。鍵は三つとも開いてる」

「そっか。じゃあ後は、予定通り」

 僕と少女が校舎に足を踏み入れ、ソンとカトウは外に出る。ソンが「加油ジャーヨウ」と呟いて通用口のドアを閉めた。僕はスマホを取り出してライトをつけ、そろりそろりと不気味な雰囲気の廊下を進む。少女が僕の腕をギュッと抱き、不安そうに呟いた。

「ねえ、大丈夫? 侵入者センサーとかあるんじゃないの?」

「あるけど大丈夫。さっきの眼鏡のやつが切ったから」

「切った? どういうこと?」

 階段に着いた。暗闇で足を踏み外さないように、慎重に上っていく。

「そのままだよ。先生がセンサーを切れるんだから、同じことをすれば切れる」

「そうだけど、切り方が分からなきゃどうしようもなくない?」

「だから調べたんだ。教職員用のサーバーに侵入して」

「すごい。そんな魔法みたいなこと出来るんだ」

「やってるんだから、出来るんだろうね。実際、魔法だよ。ログインパスワードは『後ろから指の動きを見た』とかアナログな感じで入手してたけど、IP偽装の方法とか、呪文みたいで何言ってるのかさっぱり分からなかった」

 目的地に着いた。スマホのライトで鈍く光るノブを回し、ドアを軽く押してみる。――動く。少なくとも一つ目の鍵は、きちんと開いているようだ。

 ドアを開け、屋上に出る。

 月の光でぼんやりと照らされるだけの屋上は暗く、だけど校舎の中よりはずっと明るかった。僕はスマホに『準備完了』というメッセージが届いたのを確認し、スリープモードにしたそれをポケットに突っ込む。少女が「すごい!」とはしゃぎながら屋上の中央に行き、月光をスポットライトにしてバレエダンサーみたいにくるりと回った。

「ここの鍵もあの眼鏡の男の子が開けたの?」

「いや、眼鏡の隣にいた小さいやつがピッキングツールで開けた」

「ツールを使えば誰でも簡単に開けられるものなの?」

「まさか。みんなで試したけど、出来たのあいつだけだよ」

「みんなって……」

「集会に殴り込みかけた金髪と、さっきの眼鏡とチビ」

「そっか。前に言ってた悪友だね」

 少女が夜空に向かって両手を広げた。そしてそのまま、仰向けに倒れる。思い出を覗くような遠い目で満月を見上げながら、透き通った声で夜を静かに震わせる。

「これが、『世界』?」

 ――違う。君に見せたいのは景色じゃない。その先だ。

「あのさ」寝転ぶ少女の隣に腰を下ろす。「君に頼みたいことがあるんだ」

 少女が「なに?」と尋ねる。僕は細く息を吸い、腹の底から声を放った。

「月に帰るの、止めてくれないかな」

 少女の瞳が、大きく揺れた。

 深く心を抉られた人間の反応。きっと、今まで一度も言われたことのない言葉だったのだろう。「月に王国なんてない」「月のお姫さまなんていない」。そういう言葉はもしかしたら言われたこともあるかもしれない。だけど少女が月の姫であることを認め、その上で「月に帰らないでくれ」と頼んだのは、たぶん僕が初めてだ。

 だけど、そこに触れずしてこの子の心に触れることは出来ない。

 彼女は月の姫だから月に帰るのではない。

 月に帰らなくてはならないから、月の姫になったのだ。

「……わたしの意思で止められるものじゃないから」

「じゃあせめて抵抗して。僕も手伝うよ。月の使者なんて、僕が全部追い払う」

 力強く言い切る。少女が上体を起こし、僕を見やる。そしてゆるゆると首を振り、僕よりもさらに力強く言い切った。

「無理だよ」

 少女が立ち上がった。煌々と輝く満月を見上げながら、澄んだ声で何かを諳んじる。

「『私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢で射ることもできないでしょう。このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。戦い合おうとしても、あの国の人が来たら、勇猛な心を奮う人も、まさかいないでしょう』」

 ゆっくり、少女が僕の方を向いた。たなびく黒髪が少女の輪郭を覆い隠す。

「『竹取物語』の一節。これ、嘘じゃないんだよ。月の使者は本当に強い。ゲームで絶対に勝てないようになってる敵っているでしょ。あんな感じ。戦うだけ無駄なの」

 少女がんーと伸びをした。無邪気な仕草で、言葉を誤魔化す。

「ま、気にしないでよ」

 眉を下げ、今にも泣きだしそうな顔をしながら、唇だけで少女が笑った。

「わたしは月に帰るの、全然平気だからさ」

 ――プツン。

 僕の中で、何かが切れた。頭はひどく冷めているのに、心はふつふつと煮えたぎっている。誰も悪くないのは分かっている。何も間違っていないのは知っている。なのに、許すことが出来そうにない。

 この子は、全てを下に見ている。

 だから他人の心に踏み込むことに躊躇いがない。小説や漫画を楽しむように他人の人生を楽しむ。自分のために僕と付き合い、自分のために僕を振り回す。それで僕が喜んでいるかどうかはどうでもいいのだ。喜んでいるならラッキーだし、喜んでいないのならば、喜んでくれる誰かに当たるまでトライアンドエラーを繰り返せばいい。

 要するに――

 僕じゃなくてもいいのだ。

「――じゃあ、今すぐ帰る?」

 少女が「え?」と短い声を上げた。僕は立ち上がり、少女の腕を掴む。

「帰るの平気なら、いつ帰ったっていいでしょ。それなら今すぐ帰ろうよ」

 少女の腕を引き、校庭側のフェンスの傍まで連れて行く。目の前のフェンスには赤い逆三角形の危険表示。二つ目の鍵は――開いている。

「今なら僕も、付き合ってあげられるから」

 フェンス扉を開く。

 風が、ひゅうと僕たちの間を駆け抜けた。少女が僕から離れようとする。だけどもう遅い。僕は身体を引き寄せ、両方の腕で少女を強く抱きしめる。

 ずっと、生きることに引け目を感じていた。

 僕を一番愛してくれているのは母さんで、だけど母さんは僕なんか生まれてこない方が絶対に幸せになれたはずで、その矛盾に押しつぶされそうになっていた。そこに、君が表れた。「男なら誰でもいい」わけじゃなくて、何十億の人間の中から僕を選んで、恋人にしたいと言ってくれた君が。

 なのに、これだ。

 ふざけんなよ。

 さんざん思わせぶりな態度を取っておいて、こっちが本気になったらそんな気じゃなかったのなんて、今さら通らねえんだよ。

「飛ぶよ」

 月を睨み、両足に力をこめる。

「月まで」

 コンクリートを蹴る音が、やけに遠くに聞こえた。


   ◆


 飛んだ、と思った。

 無重力の世界に飛び込み、ふわりと宙に浮いたと思った。そのまま夜空を泳ぎ、月までたどり着けそうな気がした。もちろん、勘違いだった。世界はすぐに重力を取り戻し、僕は少女を抱きしめたまま、奈落の底に落ちていった。

 少女が僕の胸の中で悲鳴を上げた。僕は唇を引き絞り、落ちながら夜空を見上げる。星のない東京の空に満月が煌々と輝いている。美しい。涙がこぼれ落ちそうなほどに。

 ――頼むよ。

 この子は、中学生の女の子なんだ。まだまだ、これから、楽しいことがいっぱい待っているんだ。たくさんの人と出会って、その中の何人かを好きになったりして、分かり合ったり、傷つけあったりしながら、生きていかなくちゃならないんだ。

 だから、頼むよ。

 連れて行かないで。

 落ちる先に緑色のマットが見える。三つ目の鍵――体育倉庫の鍵を開き、ソンとカトウが引っ張り出して敷いた安全マット。僕は自分が少女の下に来るように体勢を整え、左肩からマットに落ちた。落ちた瞬間、全身に痛みを伴う痺れが走り、その痺れを振り払うように身体を捻って衝撃を分散させる。

 抱きかかえていた少女を手放す。少女は僕の腕から飛び出し、マットの上を少し転がって止まった。仰向けになった僕は両手両足を大の字に広げ、大きく息を吸う。酸素を受け取った細胞は活発に動き出し、ずきずきと身体の内側から危険信号を放つ。

 ――痛い。

 痛い。痛い。痛い。頭と、首と、背中と、腹と、腕と、足と、尻と、胸の奥のなんだかよくわからないところが、泣きたくなるほど痛い。ちくしょう、ちくしょう……

 僕を覗き込む少女の顔が、ぼやける視界を埋め尽くした。

「死ぬかと思った」

 少女の頭には髪が無かった。彼女は『月帰還性症候群』との激しい戦いで毛髪を失い、外出時はカツラを着用しているのだ。『光の旅人』の会報に書いてあった。

 僕はむくりと身体を起こした。手で軽く目を擦り、にへらと笑ってみせる。

「生きてるよ」

 少女が呆れた風に笑い返した。そして落ちていたカツラをつけなおし、これみよがしにため息をつく。

「ほんと、信じらんない。何かあったらどうするつもりだったの?」

「一応、仲間とリハはやったよ。遺書も書いてきたし」

「わたしは書いてない。ぜんぜん覚悟なんて、出来てないんだから」

「そっか。ごめん」

 欠片も悪いと思っていないことが丸わかりの軽い謝り方。少女が再び、大きなため息をついた。「ほんとに、もう」と疲れたように呟き、俯き――

 両方の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙をこぼす。

「帰りたくない」

 ――ああ。

 ようやく、君に会えた。君が月のお姫さまなのはいい。君の病気が月帰還性症候群なのもいい。僕は信じる。だけど君が月に帰ることを怖がっていないなんて、そんなことは絶対に信じない。それは何もかも一人で背負い込もうとするから出てくる強がりだ。吐けば吐くほど心を軋ませる嘘だ。

 だから、僕が守る。

 僕が、君が嘘をつかなくてもいい世界を創る。

「帰りたくないよ」

 泣きじゃくる少女の頭を抱く。震える細い背中を、上から下に撫でつける。

「大丈夫だよ、姫」

 ありったけの優しさと強さを込めて、僕は迷いなく言い切った。

「僕が守るから」

 少女――姫が泣き止んだ。僕の胸に顔を押し付け、揺れるように頷く。

「うん」


   ◆


 安全マットを体育倉庫に戻し、僕たちは姫を父親の元に連れて帰った。

 一連の出来事の首謀者は、僕たちではなく姫になった。姫が「『光の旅人』の集会がイヤだから街で知り合った男の子たちに誘拐を頼んだ」という形にして収めてくれたのだ。結果として僕たちは姫を攫ったどころか説得して親元に帰したことになり、怒られるどころか感謝されることとなった。ただ父親が安心しきった表情で「じゃあ彼氏というのも嘘だったんだな」と言った時、姫が「時間の問題だけどね」と返したせいで、僕だけはずっと睨まれっぱなしだった。

 月曜日の放課後、僕たち四人は姫から呼び出しを受けて病室に向かった。ベッドの置いてある療養スペースと居住空間として使える応接スペースが分かれ、部屋にはトイレに風呂にテレビに冷蔵庫にWi-Fiまで用意されている豪華な個室だった。応接スペースの方だけでも間違いなく僕の部屋より住居としての格が高い。

 姫はカツラを被り、外着のシャツとチノパンを着て、応接スペースに設置されたL字ソファで僕たちを出迎えた。僕以外の三人とはろくに面識がないので、まずは自己紹介と連絡先の交換を行う。途中、姫がカトウの下の名前を聞いて吹き出してカトウが拗ねるトラブルがあったものの、そんな面白い名前をしているカトウが悪いので不問となった。

 連絡先の交換を済ませた後、姫が僕たちに告げる。

「今からLINEでわたしたち五人のグループ作るから、呼ばれたら入ってね」

「それなら僕たち四人のグループもうあるから、そこに追加するよ」

「んー、それじゃダメなの。ちょっと待って」

 僕の提案を却下し、姫がスマホを弄り出した。やがて宣言通りに招待通知が届く。グループ名――

――『御徒町カグヤナイツ』

「……なにこの名前」

「月の姫を守る騎士団の総称。御徒町は頭に何かつけたいなと思って、みんなが住んでる街の名前を語感でつけた。『東京』と悩んだけど、こっちの方がいいよね」

 呆気に取られる僕たちを尻目に、姫が意気揚々と語る。

「全員のジョブも決まってるの。まずカトウくんは鍵開けられるから『盗賊』でしょ。ソンくんは頭いいのとパソコンで魔法みたいなこと出来るから『魔法使い』。ケイゴくんは悩んだけど喧嘩強そうだから『武闘家』かな。で、ヒロトは『戦士』。『騎士』でも良かったんだけど、騎士団で『騎士』ありだと全員『騎士』じゃないとおかしくなっちゃうから。それとカグヤナイツ騎士団長だから、よろしくね」

 姫が背中に手を回した。そしてソファと身体の間から、表紙に筆記体で『Adventure Book』と記された本のようなものを掲げる。僕がデートで買った日記帳。

「みんなの活躍はこの『冒険の書』に記録するから、たくさん冒険しようね」

 ――まさか僕たちまで自分の世界に取り込んでしまうとは。別に文句はないけれど、なんというか、逞しい。特に誰からも反論は上がらない中、ソンがポツリと呟く。

「ヒロトが『戦士』なのはどうしてなのかな」

 そういえば、どうしてだろう。僕は姫に答えを求める視線を送った。姫は「んー」と鼻から小動物の鳴き声みたいな音を出し、答える。

「だって『戦士』は装備固めて前線で盾になるイメージでしょ」

「うん。それはそうだけど、それがどうして僕なの」

「守ってくれるって言ったじゃない。わたしのこと、こうやって抱き締めながら」

 姫があの時の僕のポーズを真似た。ケイゴたちが目を見開き、僕は固まる。

「ちゃんと守ってね、騎士団長様」

 挑発的な声色。――そんな言い方しなくても守るさ。不安がるなよ。

「任せて」

 僕は自分の胸をドンと叩いた。カトウが「団長カッケー!」と僕を囃し立てる。僕はすさかずカトウの頭を叩き、姫はそんな僕たちを見て、クスクスと幸せそうに笑った。

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