第2章 武闘家の詩

2-1

 中二の夏、現国の授業で「将来の夢」を書くように言われた。

 進路ではない。夢だ。これから僕たちが思い描く未来はどんどん現実的になっていく。最初に「ありえる」か「ありえないか」を考えて、前のやつ以外選ぶことを許されなくなる。だから今のうちに、もしかしたら最後の一回かもしれない、「本当になりたいもの」を書きましょう。それはきっと遠い未来の糧になるから――と。

 普段からスピリチュアルな発言が目立つ、若い女の先生だった。だから、ほとんどのやつは「また始まったよ」的な苦笑いを浮かべていたし、僕もズレていると思った。僕たちはこの世に生まれ落ちた時からずっと、地球の裏側の天気を二秒で知ることが出来るネットワークが整備された世界を生きて来たのだ。「将来の夢」なんてあやふやなものは小三で卒業している。なんならあんたが学校から貰っている給料の金額だって調べればだいたい分かるんだぜ、ってもんだ。

 僕は配られた紙切れに「スーパースター」と書いた。先生は「紙は折りたたんで財布やお守りに入れておきましょう」と言っていたけれど、授業が終わってすぐ教室のゴミ箱に捨てた。ゴミ箱には夢の残骸が散らばっていて、少しセンチメンタルな気分にもなった。

 放課後、いつもの四人でソンの部屋に集まってダベっているうちに、「将来の夢」に何を書いたかという話になった。ソンの「スティーブン・ジョブズ」はあまり面白くなかったけど、カトウの「身長一八五センチ」はめちゃくちゃ笑った。なんだ、その五センチ。いっそ二メートルぐらい書けよ。そうやってさんざんカトウをからかい、黙々と漫画を読んでいるケイゴに話を振った。

「ケイゴはなんて書いた?」

 ケイゴは漫画本を顔の前に掲げながら、僕の質問に短く答えた。

「高校生」

 あの時、あいつは、どんな顔をしていたのだろう。


   ◆


「成績、悪くないんですけどねえ」

 たった三人しかいない教室の中、担任の保坂はアクセント記号が十個ぐらいついてるんじゃないかと思えるほど「は」に力を入れてそう言った後、机を挟んで向かい合う僕に視線を送った。僕は机の隅に書かれているちんぽこの落書きに目をやってやり過ごす。だけど僕の隣に座る母さんが、まんまと保坂の求めている返事を口にしてしまう。

「『は』?」

「団体行動が苦手なようですね。協調性に少し不安があります。ずっと部活動もやっていませんし、そういった影響もあるのかもしれません」

「あー、去年の担任の先生にもそれ言われました。ね、ヒロくん」

 そうだね。去年も言われたし、一昨年も言われたし、小学生の時も言われたし、家庭訪問含めて三者面談と名のつくものでは毎回のように言われ続けて来たね。それより今は「ヒロくん」呼びやめて。お願い。

「この子、カッコつけなんですよ。普通と違うことをするのが好きみたいで」

「ああ……なるほど」

 保坂の薄い唇が歪んだ。今すぐ顔面に拳をめり込ませたくなるほど素敵なスマイルを僕と母さんに向け、鼻息荒く語る。

「何にせよ、まだ四月末ですし、受験勉強が忙しくなる前に社交性を身に着けることを意識した方が良いでしょう。担任としては、もっとクラスメイトと仲良くなって友達を増やして貰いたいですね」

 ――てめえが「友達は選べ」って言ったんだろうが。

 腿に置いた手に力を込め、制服のズボンの上から自分の肉を掴む。保坂と母さんとやりとりを聞き、たまに飛んでくる質問に適当に答えながら、教室のドアを蹴破って侵入して来たテロリストのサブマシンガンで保坂が挽き肉になる妄想に耽る。空想の保坂がハンバーグの材料になった回数が十を超えたあたりで、現実の保坂が「そろそろ終わりましょうか」と言い、中三になって初めての三者面談は終わった。

 教室を出る。外で待機していたニキビ面の男子があまりにも若い母さんを見て驚愕に目を見開く。傍にいる母親なんだかおばあちゃんなんだか分からない女の人は嫉妬に目を細める。二人が教室に入っていった後、僕の後頭部を母さんがコツンと叩いた。

「なに」

「なに、じゃない。先生に向かってあの態度はダメでしょ」

「だってあいつ、ムカつくから」

「どうして。ヒロくんのことちゃんと考えてくれてる、いい先生じゃない」

 どこがだよ。言いかけて、止めた。母親モードに入った母さんと言い争っても疲れるだけだ。マルチ商法の勧誘員の方がまだ反論のしがいがある。

「ところでヒロくん、これからお茶しない? ママ疲れちゃった」

 ナンパか。僕は首を横に振った。

「ごめん。用事ある」

「あら、そうなの。友達?」

「んー、っていうか……」

 ズボンのポケットに手を突っ込み、廊下の窓に背を預け、僕はニヤリと笑った。

「カノジョ」


   ◆


 学校前で母さんと別れ、上野方面に向かう。スマホにイヤホンを挿し、CDから取り込んだブルーハーツの曲を聞きながら歩く。『1000のバイオリン』を聴きまくったのがおよそ一週間前。あれから色々と聴き、すっかりハマってしまった。父さん。僕はあんたのことが大嫌いだけど、やっぱり僕たち、親子みたい。

 首都高速を潜り、中央通りを渡り、不忍池を抜け、無縁坂を上って、大学病院に着く。入院棟の受付に面会届を出し、面会バッチを学ランの胸ポケットにつけてエレベーターで十階へ。目的の病室のドアをノックし、開く。

「あー、マジ強すぎ!」

 ボーイソプラノの叫び声。部屋の奥を見ると、応接スペースにあるテレビの前のフローリング床に、カトウと姫がビーズクッションを敷いて座っている。ゲーム機のコントローラーを握るカトウは今にも泣き出しそうな顔で、隣の姫は満面の笑み。姫はワンピースを着てカツラを被り、外出時の格好だ。

 スリッパを履き、応接スペースに向かう。L字に配置されたソファの一辺でケイゴが寝転がって漫画本を読み、もう一辺ではソンが黙々とタブレットを操作している。お前ら二人とも、とっつき辛いくせに馴染むのは早いよな。僕もそういうところあるけど。

「ヒロト。姫、めっちゃ強い」

 カトウがテレビを指さした。降ってくるブロックを消し、先に消しきれなくなった方が負けのパズルゲーム。星の数で表示されている勝敗はカトウ目線で0勝7敗。LINEのグループに姫から『カグヤナイツ招集指令 【対象】全員 【ミッション】わたしと一緒にゲームをする』というメッセージが送られてきたのが三日前。その時、カトウは『おれ超ゲーマーだけど』『マジで強いよ』『接待しなくていい?』とイキりまくっていた。それでこれはすさまじくダサい。

「だからわたしも強いって言ったじゃない」

「言ったけどさー、おれはこのゲーム、ヒロト相手なら片手で勝てるんだぜ」

「ふーん。ヒロトは弱いんだ」

「パズルは苦手なんだよ」

 弱いと言われたのが癪に障り、僕は口を挟んだ。姫が後ろに手をついて上体を反らし、背後に立つ僕を見上げる。水平になった頭から人工の毛髪が垂れる。ワンピースが身体に貼り付き、胸のふくらみがくっきりと浮かぶ。

「……なんで外出モード?」

「騎士団を招集した玉座の姫がパジャマはちょっと。それより三者面談どうだった?」

「軽く説教された。協調性がない、だってさ」

「ヒロトは陰キャでコミュ障だからなー」

 僕はカトウの背中を足の裏で蹴とばした。カトウが「いてっ!」と言いながらごろりと床に転がる。ソンがタブレットから目を離し、僕に話しかけて来た。

「説教されたくないなら勉強するといいよ。学校にとって有益だと思われれば、色々と大目に見てくれる」

「難しいな。もっと簡単な方法ない?」

「一番簡単な方法なら、そこに実践してる人がいるけど」

 ソンに指さされたケイゴが「ん?」と顔を上げた。よく見たら、ソンもカトウも学ランなのにこいつだけ私服だ。学校に行かなければ怒られない理論。

「ケイゴ、三年になってから何回学校行った?」

「ゼロ」

 返事が早い。数える必要がないんだから、当然だけど。

「さすがにちょっとは行っとけよ」

「いいんだよ。義務教育なんて何やっても卒業出来んだから」

「バカすぎて入れる高校なくなるぞ」

「オレ、高校行かねえし」

 沈黙。

 僕も、カトウも、ソンも、姫すらも言葉を失った。ただ一人動じていないケイゴが、何事もなかったかのように再び漫画本を読み始める。女性人気も高い有名な少年漫画。姫のやつか。それともケイゴが持ってきたのか。いや、そんなのはどうでも良くて――

「高校行かないって、どういうことだよ!」

 カトウが声を荒げた。ケイゴが漫画本を閉じてソファに座り直し、眠っているところを無理やり起こされたみたいに顔をしかめる。

「どういうことって、そういうことだよ。高校行かねえでヤクザになる」

「聞いてねえぞ!」

「言ってねえし。つうか、言う必要あんの?」

 カトウが黙る。棘のある言い方が、僕の鼓膜にも刺さる。言う必要は――ない。でも僕たちって、必要とか不必要とか、そういうんじゃないだろ。違うのか?

「黒澤さんっていうこの辺シメてるヤクザ、知ってる?」

 大股を開いてソファに座りながら、ケイゴがみんなに問いを投げた。ソンが答える。

「知ってる。黒澤誠二郎だよね」

「誰から聞いた?」

「うちの店に来るチャイニーズマフィアの人。厄介な奴だって言ってたよ」

「へえ。さすが、黒澤さん」

 大人を褒めるケイゴを初めて見た。見たくなかった。ロックスターがプロデューサーにペコペコしている現場を見てしまったような、そんな気分だ。

「オレの親父がその黒澤さんの部下なんだけど、オレも中学卒業したら舎弟になるんだ。この間、挨拶してきた。すぐに仕事手伝うらしいから、忙しくなるかも」

 仕事。その中身を僕は知らない。たぶんケイゴに聞いても答えてくれないし、そもそも答えられない。だけど正しいか正しくないかでいうときっと正しくないのは、聞くまでもなく分かる。誰かを傷つけ、その対価に報酬を得る。そういうもののはずだ。

 僕は正義という言葉が好きではない。主観的で曖昧な概念のくせに、世界を測る物差しみたいな顔をしているから。正しくないと生きられない世の中なんてクソくらえだ。

 だけど――

「――いいのかよ」

 言葉が、脳みそを通らずに口から飛び出した。

「お前は、それでいいのかよ」

 ケイゴがじっと僕を見る。あどけなさの残る丸い瞳。よく見たらこいつ、デカいだけで顔はまだまだガキだから、金髪もピアスも全然似合ってないんだな。今さらながら、そんなことに気づく。

「いいんじゃねえの」

 唇の端を吊り上げて、ケイゴがにへらと笑った。

「ヤクザ以外に将来やりたいことなんて、別にねえし」

将来の夢。

 一年前の教室で見た、ゴミ箱に散らばる夢の残骸たちを思い出す。僕もあそこに残骸を放り込んだ。それはつまり、僕がケイゴに言えることは、何もないということ。

「……あっそ」

 僕は目線をケイゴから外した。ケイゴは何も言わず、また寝転がって漫画本を開く。ソンはタブレットの操作を、姫とカトウはゲームを再開し、浮いてしまった僕はふらふらと行きたくもないトイレに向かう。

 病室のトイレに入り、便座の上に座ってため息を吐く。モヤモヤした感情も一緒に吐き出そうと試みるけれど、プールの水を柄杓で掻き出すようなもので全く追いつかない。僕は手持無沙汰にスマホを取り出し、いつの間にかLINEに新着メッセージが届いていたことに気づいた。送信者は――

 姫。


『カグヤナイツ緊急招集指令 

【対象】戦士、魔法使い、盗賊 

【ミッション】武闘家のジョブチェンジについて協議』


   ◆


 次の日の放課後、僕とソンとカトウは三人で姫の病室に向かった。ケイゴがいない以外は全て昨日と同じ状況で、L字ソファに僕と姫、ソンとカトウが別れて座る。姫が「ではこれより武闘家ケイゴのジョブチェンジについて協議を始めます」と口火を切り、右の人さし指を伸ばしてカトウを示した。

「はい。じゃあまずはカトウくん。なにか言って」

「え? なにかって?」

「なんでもいいから。十秒以上何も出てこなかったら罰ゲームね」

 姫が「いーち、にー」とカウントを始めた。カトウが「え、え」と戸惑う。横暴だ。

「なーな、はーち」

「待って! えっと……あいつ、ジョブチェンジしたら武闘家から何になるのかな!」

 心底どうでもいい。だけど姫は切り捨てることなく、話を広げた。

「『荒くれ者』とか」

「ジョブって感じじゃなくない?」

「じゃあ『極道』」

「あ、それっぽい。敵を脅して撤退させる技持ってそう」

「お金巻き上げる技もありそうだよね。武器は刀と銃で」

 話が脱線に脱線を重ねて盛り上がる。呆れながら聞いているうちに、朝からずっと全身に感じていた強ばりがなくなっていることに気づく。――狙ったのかな。だとしたら、さすが王族。人心掌握術に長けている。

「じゃあ次はソンくん。カウント要る?」

「いい。話すこと決まってるから」

 ソンが眼鏡をクイと上げ、おもむろに語り出した。

「昨日、例のチャイニーズマフィアの人がまた店に来たから、黒澤誠二郎について詳しく聞いてみたんだ。その情報をみんなと共有したい」

 場の雰囲気が変わった。全員が軽く身を乗り出す。

「実はこの辺、ヤクザ激戦区なんだって。日本人ヤクザの抗争にチャイニーズマフィアまで絡んで、ずっと前から大変なことになってるみたい」

「ラーメン激戦区みたいな?」

「ごめんカトウ、ちょっと黙って。それで黒澤誠二郎って人は、その争いの中で上手く立ち回って自分の立ち位置を確保して来た古株らしい。御徒町に事務所があって、場所も聞いてきたけど多分びっくりするよ。普通にみんなで前通ったりしてたから」

 ソンがふと視線を横に流した。何か言いにくいことを語ろうとしている素振り。

「それでここからが本題なんだけど、その人は黒澤誠二郎のことを『兎蛋トウダン』って馬鹿にしてたんだ。これは中国語で『オカマ野郎』みたいな意味でさ、どうも黒澤誠二郎にはそういう嗜好があるらしい。特に若い男が好きで、雑用係の下っ端ヤクザに夜の世話までさせてるって、もっぱらの噂なんだって」

 ……………………………………………………

「……ヤバくね?」

 カトウが呟きを漏らした。今度はソンも止めない。実際にヤバいからだ。

「ヒロトは、何かある?」

 ソンが僕に話を振った。そのパスは鬼だろ。引き継がないぞ。

「あのさ」ソンとカトウを視界に捉える。「中二の時、現国で『将来の夢』を書かされたの覚えてる?」

 カトウが「あー」と声を上げた。ソンも「あったね」と懐かしそうに呟く。

「あの時、俺ら、書いたもの話しただろ。俺は『スーパースター』。ソンは『スティーブン・ジョブズ』。カトウは『身長一八五センチ』。それでケイゴは――『高校生』だった」

 一年前、現国の先生が言ったことは当たった。元から僕は「将来の夢」を真面目に考えたことはない。だけど、僕が考えていないことと考えること自体が許されなくなることは全く違うのだ。生々しい手触りの「進路」が目の前に横たわるようになって、ようやくそれが分かった。

「それを聞いた時、俺はあいつがふざけてると思った。でも今考えると違う気がする。あいつは本気で高校生になりたかった。だけどそれを夢みたいな話だと思っていた。俺たちの中であいつだけが、真面目に『将来の夢』を書いたんだ」

 小説家になりたい。宇宙飛行士になりたい。総理大臣になりたい。そういうのと同じように高校生になりたいと思っていたやつが、すぐ傍にいた。

「俺は、あいつの夢、叶えてやりたい」

 目と声に力を込める。ソンとカトウの口元が引き締まる。何をすればいいかは分からないけれど、意志は一つになった。その気配を感じる。

「ソンくん」突然、姫がソンに声をかけた。「事務所がどこにあるか、知ってるんだよね」

 ソンが目を細めた。姫の真意を掴みかねている表情。

「知ってるよ。『俺の代わりに殺してきてくれ』って言われた」

「そっか。じゃあ決行はゴールデンウィークかな。連休の予定決まってる人いる?」

 姫が僕たち三人を順々に見やる。とりあえず、予定はない。ないけれど、僕は「この日空いてる?」と聞かれたらまず「なんで?」と聞き返したくなる派だ。

「……何するつもり?」

 聞く前から勘づいてはいた。その予感通りの言葉を、姫があっさりと口にする。

「カチコミ」

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