2-4

 作戦は案の定、物騒なものになった。

 一応「親子で膝をつき合わせて話をする」という平和的なアイディアも出ることは出たのだけれど、ケイゴが即座に却下した。それで解決するなら最初からこんなことにはなっていない、だそうだ。その通りなので誰からも反論はなく、すぐに「ケイゴが父親と喧嘩してボコして言うことを聞かせる」という穏やかさの欠片もない基本方針が確定した。

 骨子が決まれば、あとは肉づけ。演出を練り、準備を整える。ケイゴがトレーニングに励む一方、僕たちは主にケイゴの父親の素行調査を行った。大型冷蔵庫みたいにでかくていかつくて迫力のあるケイゴの父親を見て、僕は素直に「こんなのが四六時中に家にいる生活は嫌だ」と思った。ゴリラと同居するようなものだ。しかも、森を追われたとか親を殺されたとかその両方とかで、人間に恨みをもってるやつ。

 五月下旬、作戦実行日の前日。

 僕たちは姫の病室に集まり、最後の確認を行った。決行時間が夜中で、姫は参加出来ないので待機。姫に「『冒険の書』にタイトルだけ書いておくけどどんなのがいい?」と尋ねられたケイゴは、「『武闘家ケイゴ大勝利! 希望の未来へレディ・ゴー!』でよろしく」と返していた。姫は笑い、ケイゴも笑い、僕も、カトウも笑った。だけどソンだけは笑っていなくて、その理由は、病院を出て一度解散した後に分かった。

『ケイゴ抜きでもう一度集まりたい』

 そのメッセージはカグヤナイツのグループではなく、僕だけに送られていた。頼まれるまま、僕が前にみんなを集めた「なんじゃもんじゃの木」がある学校傍の公園まで行くと、ソンが既に待っていた。用件を聞くと「カトウが来るまで待って」と言われ、二人で肩を並べて待つ。左側の少しだけ欠けた月に照らされたソンの横顔はいつになく真剣で、なんだかとても居心地が悪かった。

 やがて、カトウが現れた。カトウはまず僕になぜこの場にいるのかを尋ね、自分と同じだと分かると続けてソンに自分たちを呼んだ理由を尋ねた。ソンはほんの少しだけ目線を横に流した後、意を決したように顔を上げ、僕たちに向かって口を開いた。

「二人に聞きたいことがある」

「なんだよ」

「ケイゴは、父親に勝てると思う?」

 雑音が、大きくなった。

 風が木を撫でる音。自転車の車輪が回る音。どこかの誰かの話し声、足音。そういうものが一気に大きくなった。もちろん、本当は違う。周りの音が大きくなったように聞こえるのは、僕たちが音を消したから。気圧の高いところから低いところに風が流れるように、音が流れ込んできただけ。

「僕は――勝てないと思う。生で見たケイゴの父親は本当に強そうだった。正直、ケイゴが勝てるイメージが湧かなかった。ケイゴは話し合って解決するならこうはなってないって言ってたけど、それこそ、戦おうと思って勝てるならこうはなってないんだ」

 正論が鼓膜に刺さる。カトウが「じゃあどうするんだよ」とふてくされたように呟き、ソンが「それを考えたくて呼んだんだ」と喧嘩腰で答えた。棘のある雰囲気の中、僕は押し黙り、ぐるぐると考えを巡らせる。

 唇の端っこから、言葉がポロリとこぼれた。

「『チェインギャング』」

 ソンとカトウが一斉に僕を見た。まだ考えは何にもまとまっていない。それでも僕は思わず漏れてしまった言葉を掴み、どうにか次に繋げる。

「ブルーハーツにそういうタイトルの曲があってさ、俺の中で今のケイゴのイメージソングなんだ。鎖とアウトロー。なんかそれっぽくない?」

 無反応。――違う。そうじゃない。一度失いかけた言葉を、慎重に手繰り直す。

「そんでその歌、なんていうか、一人ぼっちを怖がる男の歌なんだよ。そういうところも何となくケイゴっぽくてさ。あいつ、たぶん俺たちと出会うまで、自分のことを一人ぼっちだと思ってたんじゃないかな。それで俺たちと出会って、仲間が出来て、流されて半端に生きるのがイヤになって戦う覚悟を決めた。でもさ――」

 答えが見えてきた感覚。腹筋に力を入れ、声を放つ。

「それ、おかしいだろ」

 ソンとカトウの眉が、わずかに動いた。

「一人、あいつの傍にいなきゃいけないやつ、いるだろ」

 僕は右の拳を固めた。やり場のない怒りを握りつぶすように。

「俺は父親じゃなくて、そいつが本当の敵だと思う。だからそいつを倒したい。そうすればケイゴが父親に勝てなくても、きっとどうにかなる」

 ソンとカトウを見やる。二人が揃ってふっと笑う。先に口を開いたのは、カトウだった。

「いいとこつくじゃん。それで行こうぜ」

「そうだね。僕たちはそいつを倒すことを考えよう。ケイゴには内緒で」

 話がまとまった。まだ何も解決していないのにもう勝ったような気分になり、僕は晴れやかに夜空を仰ぐ。こいつらといると出来ないことなんてない気がする。ケイゴ、お前もそうなんだろ?

 証明してやろうぜ。

 今の僕たちは――無敵で最強だ。


   ◆


 翌日、二十四時。

 デニムに薄い長袖シャツという軽装になり、ポケットにスマホを入れて家を出る。スマホから伸びるイヤホンを耳に挿し、ブルーハーツの『チェインギャング』を選んで再生。掠れた声の叫びが心臓を揺さぶり、奮い立たせる。

 五月も後半に入り気温もだいぶ上がったとはいえ、夜はまだ少し肌寒い。今のうちに身体を温めておこうと、僕は小走りに夜の街を駆けた。店が閉まって寂れたシャッター街みたいになったアメ横を抜けて上野公園に入り、仕事帰りらしきスーツを着た男とちらほらすれ違いながら、目的地を目指す。

 やがて、目指していた噴水広場に着いた。静かにたゆたう水面に丸い月が映っている。その水に映る月の近く、噴水の縁に座っていたカトウと目が合い、スマホをしまいながら歩み寄る。

「準備万端?」

「任せろ。イメトレ一万回してきた」

 声が震えているけれど、聞かなかったことにしてやる。僕はカトウの隣に座り、国立博物館に続く公園の出口に目をやった。僕たちの調査が正しければ、間もなくあそこからあいつがやってくる。毎週金曜、鶯谷にある行きつけのスナックで一杯ひっかけ、ほろ酔い気分で散歩がてら上野公園を抜けて自宅に向かうあいつが。

「しくじるなよ。失敗したら前歯全部折られるぞ」

「リアルなダメージ表現止めろ。『殺される』とかふんわりしたやつでお願い」

「それもリアルだろ」

「……かなあ」

 弄り過ぎた。僕は「冗談だよ」と言いかけ、革靴が舗装された道を蹴る音が聞こえて口を閉じた。カトウも足音に気づき、二人で顔を強張らせながら同じ方を向く。

 黒いスーツで夜に溶け込む、オールバックの男。

 ケイゴの父親、岡崎鉄雄。バクバクと心臓が高鳴るのを感じながら、スマホを取り出して弄る。岡崎が肩をいからせながら歩いてくるのを横目で見てタイミングを計る。そして岡崎がちょうど前を通りかかる頃、立ち上がり、スマホを覗きながら道に出る。

 ドン!

 歩く岡崎に僕が横からぶつかった。岡崎が派手に尻もちをつき、僕も同じように転んでみせる。岡崎はすぐに起き上がり、倒れている僕に向かって怒号を上げた。

「てめえ! どこ見て歩いてんだ!」

 テンプレ台詞。僕は身体を起こし、顔を逸らしてボソボソ「すいません」と謝った。狙い通り、半端な謝罪は火に油を注ぎ、岡崎が僕の胸ぐらをつかんで引っ張る。

「舐めてんのか?」

 またしてもテンプレ。そういう学校でもあるのだろうか。

「いえ、そんなつもりは……」

 煮え切らない態度を前面に押し出し、岡崎と会話を続ける。岡崎は「ふざけんな」「ぶっ殺すぞ」「死にてえのか」とテンプレのマシンガンで僕のことを脅し、やがて「気をつけろよ、ガキ」と最後まで様式に乗っ取って僕を解放した。僕はすさかず、岡崎からそそくさと離れる。

 そして代わりに、カトウが岡崎の前に立つ。

 岡崎が眉をひそめた。カトウが「あのー」とおそるおそる岡崎に話しかける。そしてポケットから四角くて黒くて薄い物体を取り出し、顔の前に掲げた。

 岡崎の財布。

「これ、貰いますね」

 カトウが踵を返して走り出す。スーツのポケットを叩き、財布がなくなっていることに気づいた岡崎を見届けてから、僕もカトウと一緒に走る。僕が引きつけ、カトウが盗む。戦士と盗賊の連携技だ。

「てめえええ!」

 怒号。振り返ると、「鬼ごっこ」という名称にふさわしい地獄の鬼みたいな形相で、岡崎が僕たちを追いかけてくる。事前の打ち合わせでは、ヤバかったらここでソンのサポートが入る予定だった。だけど急遽別行動中なので自力で逃げ切るしかない。僕は並走するカトウに激励を投げた。

「急げ!」

「急いでる!」

「盗賊のくせに足遅いな!」

「器用さ全振りなんだよ!」

 喚きながらがむしゃらに走る。右は動物園、左は上野駅の十字路を真っ直ぐ突っ切り、無人の上野公園交番前を全速力で駆け抜ける。もう少し行けば摺鉢山古墳という、上った先に広場がある小高い丘が見える。そこが、この鬼ごっこのゴールだ。

 丘を上る階段に着いた時、岡崎はあと二、三メートルというところまで迫っていた。階段を二段飛ばしで駆け上がり、どうにか逃げ切る。カトウが地面に手を着いて倒れ込むのと同時に、岡崎が「待てやコラァ!」と叫びながら丘の上の広場に現れた。

 そして、足を止める。

 広場の中央にはポツンと一本街灯が立っている。そこに背中を預けてもたれかかっていた少年が、岡崎を見てゆらりと動いた。ぼんやりと輝く白色灯に照らされ、金の髪と銀のピアスが鈍く光る。 

「よう」

 ケイゴが岡崎――自分の父親に声をかけた。岡崎がケイゴの後ろに立つ僕とカトウをギロリと睨み、酒と煙草で焼けた喉からかすれた声を放つ。

「てめえのダチか」

「ああ。あんたをここまで連れてきてもらった」

 てめえ。あんた。とても親子とは思えない呼び方。ケイゴが僕の方を向いて尋ねる。

「ソンは?」

「さあ。そのうち来るんじゃない?」

 はぐらかす。ケイゴは「そっか」と呟き、岡崎に向き直った。それから右腕を上げて水平に伸ばし、人さし指を岡崎につきつける。

「決闘だ」

 岡崎が「は?」と呟いた。ケイゴは構わず続ける。

「あんたと喧嘩してオレが勝ったら、オレを高校に行かせろ。話に乗らねえならさっき盗った財布でオレが何するか分かんねえぞ。ヤバい名刺の一枚ぐらい入ってんだろ」

「……なにわけわかんねえこと言ってんだ。てめえは筋モンになるんだろうが」

「だからそれが納得出来ねえって言ってんだよ。中卒は日本語も分かんねえのか」

 煽り。岡崎のこめかみがぴくぴくと動く。血管の切れる音が聞こえてきそうだ。

「殺されてえか」

 靴底で地面を削りながら、岡崎が一歩ケイゴに近づいた。猛獣が唸り声で敵を威嚇するみたいに、ザリッと耳障りな音が心を粟立たせる。

「――今までは、それで黙ってた」

 ケイゴが腕を下ろした。そして両手を握りしめる。

「あんたが怖くて、ずっと言いなりになってた。何かあればすぐボコボコにされて、『育ててくれてありがとうございます』って土下座させられて、あんたに人生を預けてきた。でもそれも今日で終わりだ」

 街灯がケイゴを照らす。輝きに満ちた瞳。覚悟を決めた男の顔。

「もう一度言うぞ。今からオレと喧嘩して、オレが勝ったら高校に行かせろ。ガキ相手に偉ぶってご満悦なチキン野郎の化けの皮を剥いでやる」

 再び、煽り。岡崎がスーツの上を脱ぎ捨てた。横を向けてパーにした左手に勢いよくグーにした右手をぶつけ、パン!と乾いた音を響かせる。

「躾け直してやるよ」

 岡崎が両腕を立てて顔の前に構えた。ケイゴが横目で僕たちを見やる。そして、大丈夫だと伝えるように小さく笑い、腰だめに拳を構えて宣言した。

「行くぞ」

 ケイゴの右足が、地面を蹴った。


   ◆


 ケイゴが岡崎の懐に飛び込む。

 突進の勢いのまま、右の拳を岡崎に向かって素早く突き出す。風を纏う拳が岡崎のガードに当たって鈍い音を立てる。立て続けに、左の拳。それもまたガードにぶつかり、さっきよりも小さな音が梅雨の近い湿った空気に呑まれて消える。

 右、左、右、左。岡崎は動かない。いや、動けないのだ。動けばそこをつかれる。ケイゴが迷いなく先手を取った効果。

 だけど――

「……いけんじゃね?」

 僕の横でカトウが少し高揚しながら呟いた。僕は、同意できない。なぜなら岡崎は動いていない。岡崎が動けないより先に、ケイゴは岡崎を動かせていない。踏み込みの勢いを乗せた利き腕のパンチが平然と止められた時点で、あとはもうオマケでしかない。

 ケイゴの顔に焦りが浮かぶ。このままガードを崩すことは出来ない。そう判断したのか、ケイゴが膝を曲げて身体を屈めた。そしてボディに向かって、身体のバネを生かした勢いのある右のパンチを放つ。

 岡崎が、身体を捻った。

 ケイゴの拳が空を切る。伸びた身体に岡崎が膝をたたき込み、ケイゴの口から「が行」の濁音だけを発音したような嗚咽が漏れる。すさかず、腹を抑えてうずくまろうとするケイゴの顔を岡崎が蹴り飛ばし、前に倒れ込もうとしていたはずの身体が後ろに倒れる。

 ケイゴが上体を起こす。蹴られた顔面を拭い、溢れ出た鼻血がべっとりと広がる。その赤く染まった顔に岡崎の靴底が迫り、ケイゴがごろりと地面に転がる。下を向いて丸くなるケイゴに向かって、岡崎が大きく足を振る。

「もうおしまいか! クソガキ!」

 岡崎がケイゴを蹴る。自分の子どもを、半身を、何度も何度も蹴り飛ばす。ボン、ボン、ボン。布越しに肉が叩かれる鈍い音が、次から次へと生まれては闇に溶ける。

うずくまり丸くなるケイゴは、まるで胎児のようだった。羊水の中でこうやって丸まっていた頃は、ケイゴも親に愛されていたのだろうか。ちゃんと、祝福されてこの世に生まれてきたのだろうか。

「なあ」隣から、カトウの声。「おれたち、手助けしちゃダメかな」

 横を向く。カトウの肩がわなわなと震えている。恐怖ではない。怒り。

「全員であの親父ボコして、ケイゴに今までの仕打ちを謝らせて、高校にも行けるようになってハッピーエンド。そういうわけには、いかないかな」

 ――最高の提案だ。僕は唇を噛み、答える。

「ダメに決まってんだろ」

 湧き上がる感情を抑える。自分の声が上滑りしているのが、分かる。

「あいつはまだ戦ってる。俺たちの戦いもまだ残ってる。まだ、何も終わってない」

 手のひらに爪が食い込むほど、両方の手を固く握りしめる。

「俺たちが手を出すのは、万策尽きた後だ。みんなであいつを半殺しにする。ヤクザの報復なんか、知るか」

 ケイゴがよろよろと立ち上がった。荒い呼吸で勢いのないパンチを放ち、あっさり躱されて横っ面を殴られまた倒れる。大きな体が土に落ちる音が、どさりと重たく響く。

 その音を、カツンカツンと硬質な音が覆い隠す。

 僕とカトウの背後には、僕たちが岡崎に追われながら上って来た階段とは別の階段がある。そこから、足音。それも、複数。やがて僕の期待した通りの人物を引き連れてソンが広場に現れ、岡崎の動きが止まる。ぼさっと垂れ下がった髪、首元の空いたシャツ、安物のデニム。それなりに若いはずなのに、年齢以上に所帯じみて見える女。

 岡崎ゆかり。

 ケイゴの、母親。

「お前――」

 岡崎が自分の妻に向かって何かを言いかける。だけどケイゴが構わず殴りかかってそれを止める。再びケイゴだけがひたすらに血をまき散らす一方的な殴り合いが始まり、その光景を呆然と見つめるケイゴの母に、ソンが声をかける。

「お母さん」指を揃えた手を上に向け、ケイゴがソンを示す。「僕が冗談を言っているわけではないと、分かってもらえましたか?」

 言葉から、僕はソンとケイゴの母の間で行われたやりとりを察した。小さく首を前に傾ける母親に、ソンは優しさすら感じる穏やかな声で語る。

「彼は父親を超えようとしています。どうか見届けてやってください。それが貴女の、母親としての責務だと思います」

 ソンがケイゴたちに目を向けた。呆けた表情のまま、ケイゴの母も同じ方を向く。「っらあ!」という声と共に岡崎が丸太のような足を振り回し、腹にそれを受けたケイゴが赤いものの混ざった液体を吐き出しながら吹っ飛ぶ。

「……何を言っているの?」

 弱弱しい、ネズミの鳴き声みたいな声で、ケイゴの母が語る。

「超えるって、ただ一方的に殴られてるだけじゃない。このままだとあの子は大変なことになる。貴方たちは知らないでしょうけど、あの人は熱くなるとダメなの。貴方たちがあの子を焚きつけたんでしょう? だったら――」

「うるさい」

 敵意を吐き捨て、言葉を遮る。

 ケイゴの母が驚いたように僕を見やる。僕は平然と見返そうと試み、だけど視線に乗ってしまう感情をどうしても省けない。ふつふつと湧き上がる怒りが、血管を粟立たせる。

 ――お前だ。

 僕たちの真の敵は、最も唾棄すべき邪悪は、間違いなくお前だ。今日、お前はここに来ない予定だった。最後の最後までケイゴはお前の知らないところで戦い、お前はその結果だけを受け取る予定だった。そんなのは絶対におかしいんだ。お前が母親をやっていれば、お前がケイゴを愛してくれていれば、そんなことにはならないはずなんだ。

「ずっと、見てたんだろ」

 一言、一言、噛み締めるように言葉を口にする。

「あいつが、ああやって殴られるの、黙って見てたんだろ」

 僕を見ているケイゴの母の瞳が、大きく揺らいだ。

「だったらこれも、黙って見ていて下さい」

 決闘に視線を戻す。血まみれの顔を晒して肩で息をするケイゴと、傷一つなく涼しい様子の岡崎が向かい合っている。大勢は決した。ここから覆ることは、ない。

「おい」親指を立て、岡崎がケイゴの母を示す。「せっかく呼んだママに泣きつかなくていいのか?」

 嘲り。ケイゴが息を切らし、途切れ途切れに答える。

「オレが、呼んだんじゃ、ねえよ」

「なんだ。ヤバくなったら助けてもらおうって魂胆じゃねえのか」

「んなわけ、あるか」

 ケイゴがちらりと母親を一瞥した。だけどすぐに顔を背け、冷たく言い放つ。

「オレが死んでも、おふくろは、動かねえだろ」

 ケイゴの母が、ふらりとよろめいた。

 地震でも起きたかのようなよろめき方。地球が、世界が揺さぶられるほどの衝撃に襲われた反応。だけどケイゴはそんなものは気にも留めない。見ているのは、目の前に立ちはだかる父親だけ。

 ケイゴが岡崎に殴りかかった。だけどその緩慢な動きは簡単に見切られ、逆にカウンター気味に鳩尾を殴られる。クリーンヒット。吐しゃ物をまき散らし、白目を剥いて倒れたケイゴに岡崎が歩み寄り、何の感情も込もっていない声で呟く。

「死んだか?」

 岡崎が右足を浮かせながら引いた。サッカーボールを蹴る動き。とどめの一撃。

 絹を裂くような金切り声が、その一撃を止めた。

「止めてえええええええええええええ!」

 僕の横からケイゴの母が飛びだした。そしてギョッと固まる岡崎の足にしがみつく。木登りをするコアラみたいな恰好のまま、か細い声で泣きながら囁く。

「お願い……もう止めて……ケイゴ、死んじゃう……死んじゃうから……」

「……うるせえな。俺だってそこまではやんねえよ」

「嘘! あなた、ケイゴに手加減したことないじゃない!」

 岡崎が大きく目を見開いた。自分の所有物だと思っていたもの、意志があるとすら考えていなかったものに、真正面から否定された驚き。

「ずっと不安だった。いつか殺しちゃうんじゃないかって怯えてた。でも貴方は私の言うことなんて聞いてくれないし、余計怒らせると思って、ケイゴに我慢させてた。そうするのが一番ケイゴを守れると思ったから」

 ケイゴの母が、仰向けに倒れるケイゴを見やり、泣きながら微笑んだ。

「でも、気づいた。私はケイゴが生きていればそれで嬉しいけれど、ケイゴはそんな人生望んでない。私が守っていたのはケイゴの幸せじゃなくて、私の幸せだって気づいたの。だから私は考えを改めます。これからは、ケイゴの幸せを守る」

 涙で濡れた目を引き絞り、ケイゴの母が岡崎に向かって言い放った。

「私はあなたより、ケイゴの方が大事です」

 ――終わった。

 騒動が終息する気配を感じ、肩からどっと力が抜ける。予定通りだ。目の前に立ちはだかる敵は倒せなかった。だけど、その裏にいるもっと大きな敵は倒すことが出来た。そして倒したのは僕たちではなくケイゴ。ケイゴは、戦いに勝利したのだ。

 ――お疲れ、ケイゴ。

 倒れているケイゴを見やる。ケイゴはいつの間にか気絶から目を覚ましており、仰向けだった身体がうつ伏せになっていた。地面に伏して首だけを上げ、自分を守ろうとしてくれている母親に顔を向け、そして――

 敵愾心に満ちた目で、鋭く睨みつけている。

 ――ああ。

 瞬間、僕は察した。確かに僕とケイゴの住む世界は違う。川の魚と海の魚のように、いずれは別れる運命なのかもしれない。だけど、それでも、今は同じ中学生なのだ。だからあいつの考えていることは、自分のことのように読み取れる。

 分かるよ。

 自分の喧嘩に親がしゃしゃり出てきて解決って、めちゃくちゃカッコ悪いよな。

「離婚でもすんのか?」

「必要なら、そうします」

「金はどうすんだよ。結局、高校にはいけねえぞ」

「何とかします。あの子が本気なら、何とでもなります」

 ケイゴが地面に手をついて立ち上がる。話し込む親二人はそれに気づいていない。すうはあと小さく呼吸を整え、ダッと地面を蹴って駆け出し、そこでようやく気づく。振り向いた岡崎の無防備な顎に、ケイゴが下から拳を突き上げる。

 パキャ。

 何かが砕ける音がした。たぶん、骨。だけど僕は鎖だと思った。チェインギャング。鎖で繋がれた囚人が、今、解き放たれる。

 岡崎の身体がぐらりと揺れた。そしてそのまま、派手な音を立てて後ろに倒れる。その場の全員が呆然と見守る中、ケイゴは仰向けに倒れる岡崎を見下ろし、何本か歯の砕けた口から渾身の悪態を吐き捨てた。

「油断してっからだ! バーーーーーーーーーーーーーーカ!」

 完全にトンでいる岡崎から反応はない。ケイゴの荒い呼吸音と、風が木々を撫でて奏でる葉擦れの音が夜の底を揺らす。やがてそこに、口元を抑えてニヤつくカトウの含み笑いが混ざり出した。それは瞬く間に僕とソンにも伝染し、やがて含み笑いは、はっきりとした笑いに変わる。

「何がおかしいんだよ」

 ケイゴが口を尖らせた。カトウが明るく答える。

「だってさあ、せっかくいい感じで終わりかけてたじゃん。これで親父が起きてブチ切れたら何もかもパーだぜ。何やってんだよ、ほんと」

「うるせえ。オレの喧嘩だ。オレの好きにさせろ。お前らも余計なことしてんじゃねえよ」

 血で赤く染まった頬を掻きながら、ケイゴが悪態をついた。僕は「ごめん」とへらへら笑いながら謝る。やがて倒れている岡崎から呻き声が聞こえ、ケイゴは腫れた目を細めて静かに告げた。

「悪い」ケイゴが、呆けている母親をちらりと見やった。「ここからは、オレの家の問題だから」

 ――分かったよ。お前がそう言うなら、僕たちはここまでだ。

「月曜、学校来いよ」

 僕はケイゴに背を向けた。ソンとカトウと一緒に階段を下りながら、ふと夜空を見上げる。薄い雲の向こうで輝く月の淡い光が網膜に沁み込み、来週固定具が外れる鼻の奥がツンと痛んだ。


   ◆


 土日、僕は姫のところに行かなかった。起きた事を電話で報告しただけ。ケイゴに事の顛末を尋ねもしなかった。助けが必要ならケイゴから連絡をくれる。そう思ったから。

 やがて月曜になり、僕はいつも通り遅刻ギリギリの時間に学校に行った。昇降口にさしかかったところでふと気になり、ケイゴのクラスの下駄箱を覗く。誰もいない。ケイゴの下駄箱はどれだろう。探しているうちに、大きな手が肩の上にポンと置かれた。

「何してんだよ」

 聞き慣れた低い声。僕は振り返ってケイゴの名前を呼ぼうとした。だけど呼べなかった。全く想定していなかった絵面を前に、ただただ言葉を奪われた。

 黒髪。

 僕がヤクザの事務所で殴られた後の三倍ぐらい酷い顔の上に、スポーツマン風の爽やかな黒い短髪が乗っかっている。ピアスもつけてない。そして僕が二つ開けている学ランのボタンを、なぜか一番上まできっちりと閉鎖。危うく笑うところだった。「誰だ、お前」と茶化したくなる気持ちを抑える僕に、ケイゴがムスッとした顔で告げる。

「お前、笑いそうになってるだろ」

 ――バレた。ケイゴが学生鞄から上靴を取り出してローファーと履き替える。

「いいよ。オレだって笑いそうになったし。中坊みてえな髪だよな。中坊だけど」

 僕が笑いそうになったのは髪ではなく学ランのボタン全部留めの方なのだけれど、とりあえず黙っておくことにした。ローファーを下駄箱にしまい、昇降口の一段高い場所から僕を見下ろしながら、ケイゴが口を開く。

「オレ、高校行けることになったから」

 僕は息を呑んだ。バツが悪そうに首の後ろを掻きながら、ケイゴは続ける。

「ただオレ、マジで勉強してないし内申点も終わってるから、このままだとマトモな高校受かんねえんだ。だから、勉強教えてくれよ。ここまでやって受験全滅で結局ヤクザとかダサすぎるだろ」

 ケイゴの口から「勉強教えてくれ」。――ヤバい。ニヤつきが抑えられない。

「おう。任せろ」

「サンキュ。言っておくけどオレ、九九怪しいからな」

「……やっぱソンに頼んでもらっていい?」

「何でもいいよ」

 ケイゴが学生鞄を肩に担ぎ、僕から身体を背けつつ小さな声で呟いた。

「お前らがいてくれりゃ、どうにかなるだろ」

 言い残した言葉を掻き消すように、ペタペタとわざとらしい大きな足音を立ててケイゴが離れていく。僕はその背中が階段に消えるのを見届けてから、自分も上靴に履き替えて教室に向かった。チャイムをBGMにして教室に入り、鳴り終わる頃に席に着き、同時に保坂が教室に入ってきてホームルームが始まる。

 保坂が教卓の前でこれから一ヶ月ぐらいの予定を語る。月曜恒例の儀式。まずは中間テスト。それから修学旅行。そして、一学期二回目の進路調査票提出と三者面談。教室の窓から空を見上げながら、僕はぼんやりと自分の行く末に想いを馳せる。

 ――将来の夢。

 シャーペンを持ち、最近考え始めた夢を机に書いてみる。文字になったそれを見て「悪くない」なんて考える。この想いを誰かと共有したい。そう考えた次の瞬間、僕はほとんど無意識に学ランからスマホを取り出し、机の下で姫に『今日行っていい?』というメッセージを送っていた。


   ◆


 放課後、病室に出向いた僕はまず、姫とソファで向かい合ってケイゴのことを話した。ケイゴが勉強を教えてくれと言ってきた下りで姫は軽く涙ぐんでいて、僕が思っていた以上にケイゴのことを心配していたのだと分かった。やがて話が終わった後、姫はソファに深く身を沈め、幸せそうに呟いた。

「早く『武闘家ケイゴ大勝利! 希望の未来へレディ・ゴー!』書かなきゃ」

「……本当にそのタイトルで書くの?」

「本人の希望だし」

 上機嫌な姫を見て、僕はふと気づく。姫は日記を書いている。ということは僕が姫に将来の夢を語れば、それはおそらく『冒険の書』に記録される。後に退けなくなる。

 ――好都合だ。

「あのさ」ソファに座り直し、体勢を整える。「僕も『将来の夢』、考えたんだ」

姫がぱちくりと瞬きを繰り返した。小首を傾げて僕に尋ねる。

「『スーパースター』じゃなくて?」

「それは冗談だから忘れて」

「そうなの? 意味分かんなくて面白かったのに。最近『平成のブルース』を聞くとロックンロールスターのところで思い出して笑っちゃうんだよね。なんで『スーパースター』なんて書いたの?」

 知らない。中二の僕に聞いてくれ。聞いても分からないと思うけど。

「まあ、いいや。それで新しい『将来の夢』はなに?」

 口ごもる僕を姫が解放した。仕切り直し。僕は喉の奥のさらに奥、魂の宿っているところから言葉を放つ。

「『医者』」

 珍しく、姫が意表を突かれたように固まった。僕はそんな姫に笑ってみせる。

「君の『月帰還性症候群』も、僕が治してあげるよ」

 姫の唇が柔らかく綻ぶ。色々考えてしまって、満面の笑みとはいかない。だけどトータルではやっぱり嬉しい。そういう表情。

「医者になるためには、すごくお金がかかるよ」

「国立の医学部なら多分どうにかなるよ」

「国立の医学部の偏差値はものすごく高いんだけど」

「あと三年以上あるし、これから勉強すればいけるって」

 根拠のない自信。姫が「頑張って」と苦笑いを浮かべた。それからふと遠くを見やるように目を細め、僕に尋ねる。

「わたしの『将来の夢』も聞いてもらっていい?」

 姫の将来。僕は動揺を隠して「いいよ」と頷く。姫は儚げに視線を横に流し、指先で髪を弄りながら気怠そうに語る。

「わたしの夢はね、ヒロトのせいで叶うのが遅くなっちゃったの」

「僕のせい?」

「そう。早ければ来年には叶えられるかもしれなかったのに、今は最低、あと三年は待たなきゃいけなくなっちゃった」

「どうして」

「法律がそうなってるから」

 姫がソファから立ち上がった。そして僕の隣に座り、僕を覗き込みながら尋ねる。

「分かった?」

 僕は首を横に振った。姫がふうとため息をつき、物憂げな顔を僕の耳に近づける。湿っぽい吐息が、耳朶をふわりと撫でた。

「『お嫁さん』」

 横を向く。さっきまでの憂鬱そうな態度はどこへやら、楽しそうに笑う姫と目が合う。女は十六歳、男は十八歳から。どこかで学んだ知識を思い返す僕に身体を預け、姫が悪戯っぽく囁いた。

「責任取ってね」

 ――言われなくたって。

 僕は姫の肩に手を回した。そして次代の月の王になる覚悟を示そうと姫の顔に自分の顔を近づける。僕と姫の唇が触れ合うのと、病室の扉が開いて現世代の月の王が入ってきたのは、ほとんど同時だった。

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