3-3
国会議事堂を離れ、靖国神社に着き、僕たちはバスを降りた。
添乗員が神社の解説をしながら僕たちを先導する。途中、「失地領土奪還せよ」だの「弱腰屈辱外交をヤメロ」だの書いてある黒塗りの街宣車を目にして顔が引きつる。やはりここはそういう場所なのだ。ケイゴが言ったように「神社に行って何か問題があるのか」とはいかない。
神社の案内板の前でツアーは一時解散となった。ここからは時間まで自由行動。すさかず椿山父がソンに近寄り、声をかける。
「君」嫌味ったらしい口調。「まさか、どうにかして参拝を逃れようなんて考えているんじゃあないだろうな」
僕たちは事前の打ち合わせで、ソンが参拝をすることを決めている。大層なナショナリズムなんて最初から持ち合わせていない。敵が踏み絵をしかけてくるならば、ここはクールに踏んでやろうと。だけど、言われなくても勉強するつもりだったとしても、口うるさく「勉強しなさい」と言われたら勉強したくなくなるのが人間というものだ。
「……いえ」
ソンが弱弱しく答える。椿山父が「ならいい」と言い残して手水舎に向かった。肩を落とすソンに今度は、娘の方が歩み寄って声をかける。
「ソンくん」屈託のない口調。「どうして中国の人は靖国神社が苦手なの?」
さすがに、耳を疑った。
いや、いくらなんでも冗談だよな。僕たちは散々、「中国人を靖国神社に連れて行く男の人間性」を想定して作戦を練っただろ。その作戦会議に、お前、いただろ。逆に、知らないならどうして中国人が靖国神社を苦手だと思ってたんだよ。まさか幽霊云々とか言い出したり「中国ではお化けとか出るとか言われてるの?」当たりかよちくしょう。良かったなケイゴ、ここに仲間がいるぞ。
「……戦争で亡くなった兵士を祀っているからだよ」
「それだとどうしてお参りしたくないの?」
「戦争の時、日本と中国は敵で、たくさんの中国人が日本人の兵士に殺されたからだよ」
「ああー、そうか。なるほど」
椿山さんが大きく頷いた。天真爛漫な笑顔を浮かべ、ソンに明るく話しかける。
「でも、それならソンくんには関係ないね。ソンくんが生まれた時には戦争なんてとっくに終わってるし、昔の中国に全然思い入れなんてないもんね」
ソンの顔から、愛想笑いが消えた。
そして、真顔で眼鏡のブリッジをクイと押し上げる。――マズい。スイッチが入りかけている。僕は慌ててソンの腕を掴み、椿山さんに向かって告げた。
「椿山さん、ごめん。ちょっとこいつ借りていい?」
「え?」
「ソン、行こう。相談したいことがあるんだ」
椿山さんの返事を聞かず、困惑するソンを引っ張って歩き出す。姫も僕について来る。添乗員に案内されて歩いてきた道を戻り、途中で通り過ぎた休憩所へ。木造平屋の建物の中には土産物屋と食堂が混在しており、その食堂のテーブルについてスマホを弄っていた少年たちの一人が、僕たちを見て「よ」と片手を挙げた。
「どうよ、調子は。上手くやってる?」
カトウ。その向かいにはケイゴ。ソンがぽかんと呆けたように呟く。
「結局、来たんだ」
「来たっつーか、呼ばれたんだよ。そこの団長に」
カトウが僕を指さした。僕は驚くソンの肩を右腕で抱き、調子よく告げる。
「ソン。俺たち、ミッションを変更しようと思うんだ」
「ミッション変更?」
「ああ。今まではあのクソオヤジに認められるために頑張ろうって作戦だっただろ。でも俺はそれじゃダメだと思うんだよ。だってあのオヤジは自分を変える気がさらさらないんだから。ソンだけが一方的に我慢するのはおかしいし、長続きしないと思う」
ソンの背中が少し震えた。僕はソンの肩を抱く右腕に力を込める。
「だからさ」
僕は左の拳をソンの前に掲げ、力強く言い切った。
「駆け落ちしようぜ」
◆
「……は?」
今まで一度も見せたことのないようなアホ面を晒し、ソンが呆然と呟いた。「何言ってんの?」。言葉にならない言葉を汲み取り、僕は答える。
「俺たち、前に『光の旅人』の集会から姫を拉致しただろ。あれと同じことをやるんだよ。もう難しいことは考えない。ソンが椿山さんを拉致して二人で逃げ出す。後は野となれ山となれだ」
「まずオレがあのオヤジを殴り倒す。ガタイはいいけど、ただのおっさんだからな。不意をつきゃなんとかなんだろ」
ケイゴの拳がシュッと空を切った。続けて、カトウが口を開く。
「おれはその辺の放置自転車の鍵開けて、逃走用の足を準備しとくよ。二人乗りで捕まるとかマヌケなことになんないように、裏道走って逃げろよ」
カトウがソンに向かって親指を立てた。僕はソンの肩に回していた腕を外し、ドンと自分の胸を叩く。
「俺の役割は後処理。お前らが二人揃っていなくなった後、あのオヤジの暴走を防ぐ盾になる。だからそのまま心中とか、洒落にならないことは止めてくれよ」
「自分は同じシチュエーションで人を屋上から突き落としたくせに」
姫が僕をからかう。僕は「突き落としてはいないよ」と軽く言い返す。それからソンの正面に立ち、爽やかに笑いながら告げる。
「つーわけで作戦変更するからよろしく。戦士、武闘家、盗賊、それぞれの役割でお前をサポートするよ。いいだろ?」
「いいわけないでしょ」
――だよな。知ってた。でもそんなんじゃあ、まだ退くわけにはいかない。
「なんでだよ」
「なんでも何も、常識的に考えてよ」
「そういう常識をぶち壊すのが俺たちだろ。俺はやったぞ」
「今の僕とあの時のヒロトは状況が違う」
「何がちげえんだよ」
ケイゴが横から口を挟んだ。いつも通りの乱暴な口調で、ずけずけと言い放つ。
「ヒロトん時と、今のお前と、何がちげえんだ。聞いてやっから言ってみろ」
ソンが少し顎を引いた。視線を落とし、ぼそぼそと答える。
「あの子は別に月のお姫さまじゃない。近いうちに月に帰らなきゃならないとか、そういう差し迫った事情もない。父親だってよく分からない宗教団体と関わりがあったりするわけじゃないし、それに――」
「関係なくね?」
カトウがばっさりと、ソンの言葉を断ち切った。
「その辺は大事なところじゃないじゃん。あの時ヒロトが無茶したのは、そういう理由じゃないだろ。ヒロトが動けてお前が動けない理由って、何なんだよ」
カトウが尋ねる。ソンは黙る。どこからかアブラゼミの鳴き声が聞こえる。重苦しい沈黙が、真夏の蒸し暑い空気に溶ける。
実際、ソンは正しい。
あの時の僕と今のソンは違う。まるっきり、全然、似ても似つかないぐらい違う。あの時の僕が選んだ作戦をソンが同じように選ぶなんて話は端からありえない。だけど違うところは「状況」なんていう、分かりやすくて明確なものではない。
心だ。
「ソンくん」沈黙の中、姫が静かに語り出した。「今日、楽しい?」
唐突な質問。瞬きを繰り返すソンの前で、姫が僕の腕をギュッと抱いた。薄いブラウス越しに、柔らかい脂肪の塊が押し付けられる。
「頑張ってるソンくんには申し訳ないんだけど、わたしは楽しいの。ヒロトと一緒にデートしてるから。バスで隣の席に座って、手を繋いで、色々なものを見て、そういうのがすごく楽しい。わたしは今好きな人と一緒にいるんだなって、ところどころで感じる」
穏やかな微笑みを浮かべ、姫がソンに尋ねる。
「ソンくんは今日、一度でも、そういうの感じた?」
ソンの瞳が大きく揺らいだ。僕たちはその揺らぎにつけ込むことなく、黙ってソンの答えを待つ。だけどソンは答えを出さず、くるりと僕たちに背を向けて告げた。
「……とにかく、その作戦変更はなし。頼んだよ」
ソンが足早に立ち去る。カトウが呑気に「ま、こんなもんか」と呟き、張り詰めていた空気が和む。僕は座るケイゴとカトウに向かって軽く頭を下げた。
「悪いな。いきなり呼び出して」
「いいよ。どうせ暇だったし」
「もっと早く呼び出せとは思ったけどな。クソ急いだわ」
ケイゴが愚痴る。そしてソンが去っていった方を見ながら、小さく呟く。
「でもやっぱ乗ってこなかったな」
「乗ってこられても困るけどな。自転車の鍵なんか開けられないし」
「え、開けらんねえの?」
「当たり前だろ。自転車の方が簡単だけど、仕組みは違うんだから。ツッコまれたら『練習した』で誤魔化そうと思ってたけど、気づかれなかったな」
「気づいてたと思うよ」
囁きと共に、姫が僕の腕を抱く力を少し強めた。
「ソンくんは、この作戦が実行されないことに意味がある作戦だって気づいてたよ。わたしたちの言いたいこと、ちゃんと分かってくれたと思う。ヒロトもそう思うでしょ?」
僕を見上げ、姫が尋ねる。僕が「うん」と頷くと、姫は満足そうに笑った。そして笑顔のまま、声を弾ませて別の質問を投げる。
「ところで、ヒロトに聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
「ヒロトは今日、楽しい?」
姫の瞳が輝く。ケイゴとカトウが身を乗り出す。僕は姫に笑い返しながら、短い答えをはっきりと言い切った。
「楽しいよ」
◆
僕たちが戻った時、ソンは椿山さんと一緒にいた。
椿山さんは楽しそうに笑っていて、ソンも笑っていた。でも楽しそうではなかった。それが分からないほど僕たちの仲は浅くない。椿山父は相変わらず険しい表情で二人を睨んでいて、僕は社会の教科書で見た金剛力士像をなんとなく思い出した。
扉に菊の御紋があしらわれた、大きな木造りの門を抜ける。門の先にはすっかり緑色になった桜の木が数多く両脇に植えられた道があり、その先には拝殿に続く鳥居がある。その鳥居をくぐれば、後は参拝まで一直線だ。
「あ、おみくじある。ねえ、ソンくん。引いてこ」
鳥居の前にある社務所を指さし、椿山さんがソンに声をかける。ソンが「いいよ」と答えたその瞬間、椿山父がここぞとばかりに食いついた。
「参拝が先だ。外様とはいえ、礼節を弁えろ」
――言い出したのはお前の娘だろ。
つい、姫と繋がっている左手に力がこもる。姫が馬の手綱を引くように僕の手を軽く握り返し、どうにか落ち着きを取り戻す。「そうですね。すいません」と頭を下げるソンは本当に大人だ。僕なら国会議事堂に着いてバスを降りた時にそのまま帰っている。
だけど、僕たちは大人ではない。
大人ではないのだ。
大人ではないあいつを大人にさせているものが――僕は憎い。
五人で鳥居をくぐる。拝殿まであとほんの数メートル。ソンは結局どうするのだろう。考えているうちに、賽銭箱の前に着いてしまった。真ん中にソン、その左に僕と姫、右に椿山さんと椿山父という布陣で横に並ぶ。
まず、椿山父が財布から硬貨を取り出して賽銭箱の中に投げ込んだ。続けて椿山さんと姫。少し遅れて僕が続く。固い硬貨が木箱にぶつかる音が何度も続き、それからパンパンと柏手を叩く音が、四重奏になって連なる。
四重奏。
参拝を終えた全員がソンを見る。海を臨む灯台みたいにピンと直立し、微動だにしていないソンを。狼狽する椿山さんの隣から、椿山父が刺々しく言い放つ。
「おい、君。参拝はどうした」
聞こえていないわけはない。それでもソンは動かない。椿山父がいよいよ、苛立ちを露わにし始める。
「やはり中国人は中国人ということか。まあ、いい。だがな、だったら最初からここに足を踏み入れるな! 英霊たちへの侮辱だ! だから初めに確認しただろうが!」
罵声。怒号。ソンはそれらを涼しい顔で受け流す。そして自分と椿山父の間にいる椿山さんを見やり、母性すら感じる優しい声で尋ねる。
「ねえ。中国の首都がどこだか知ってる?」
椿山さんの頭上に「?」マークが見えた。
たぶん、僕の上にも同じものが浮かんでいたと思う。少なくとも姫と椿山父の上には同じものが浮かんでいた。ただし、椿山さんの上にあるそれが一番大きい。巨大な「?」マークを浮かべたまま、椿山さんが尋ね返す。
「いきなりなに? どうしたの?」
「いいから、答えて。お願い」
有無を言わせぬ口調。椿山さんが戸惑いながら、小首を傾げて答えた。
「……ソウル?」
ソンが、笑った。そしてデニムのポケットから財布を取り出し、中から大きく「1」と記された硬貨を抜いて賽銭箱に向き直る。
「ありがとう」銀色に輝く、大きめの硬貨。「決心ついた」
硬貨が宙を舞った。
空を飛んだ硬貨が放物線を描いて賽銭箱に落下する。カツンという硬質な音の後、パンパンと手のひらを叩き合わせる音が二回続く。合わせた手の後ろで目を瞑り、しばらく祈りを捧げた後、ソンが椿山さんを除けて椿山父の目の前に寄った。
「お父さん」
腰を九十度近く折り曲げ、ソンが深々と頭を下げた。
「娘さんと別れさせてください」
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