3-2
バスツアーには午前便と午後便があり、僕たちが乗り込むのは午前便だった。東京駅を出発し、国会議事堂を回り、靖国神社を参拝して東京駅に戻るツアー。道中、バスで皇居周辺も回る。この「ザ・日本」なコースチョイスだけでもう、椿山さんの父親の底意地の悪さがイヤというほど伝わる。
当日、僕と姫とソンは待ち合わせ場所の東京駅丸の内南口に、待ち合わせ時間の三十分前に集まった。「こういうコースを選ぶ人なんだから、早めに来て後から来た相手に『やっぱり中国人は時間にルーズだな』とか言いかねない」という姫の意見に従った結果だ。その予想が当たったのか、ノースリーブのボーダー柄ワンピースを着た椿山さんが生え際のだいぶ後退した体格のいい男と共に現れたのは、待ち合わせ時間の十五分前だった。
「おはよう」
椿山さんがソンに声をかけ、ソンが「おはよう」と返す。隣の男はしかめっ面のまま眉一つ動かさない。職人気質、という感じだ。職人かどうか知らないけど。
「初めまして。お父さん」
まずはソンが声をかける。男――椿山父の唇が僅かに動いた。
「ソン・リャンと言います。娘さんとは――」
「椿山大吾」
分厚い、壁みたいな声が、ソンの自己紹介を阻んだ。
「椿山さんでも大吾さんでもいい。ただ、お父さんは止めろ。いいな」
上がらない語尾。「いいな?」ではなく「いいな」。確認ではなく、命令。
「次にお父さんと呼んだら、私は帰るぞ」
椿山父が腕を組み、大上段に構える。――どうするんだ、この空気。まだ自己紹介が二人も控えてるのに。
「椿山さん」姫が一歩、前に出た。「わたしはソンくんの友達で、相馬ノゾミと言います」
姫がにこりと微笑んだ。椿山父の頬が少し緩む。
「実は体調に問題があって、今は学校に行けていません。そんな中、ソンくんには勉強を教えてもらっていて、すごく助かっています。娘さんから聞いていると思いますけど、ソンくん、すごく頭がいいんですよ。校内テストは学校で一番なんです」
なるほど、ああやるのか。僕は姫の立ち振る舞いを脳内にインストールする。姫が指を揃えた右手で僕を示しつつ、横に動いて椿山父の正面を外れた。
「それでこっちが、わたしの恋人で、ソンくんを紹介してくれた男の子です」
僕は姫に代わって前に出た。そして「はじめまして。七瀬ヒロトです」と頭を下げ、何でもいいからソンのことを褒めようと口を開きかける。
だけど、相手の方が早かった。
「君は日本人か?」
反射的に「は?」と言いかけた。どうにか堪え、体裁を整える。
「……どういう意味でしょうか」
「『同士』だから仲良くしているのかと思ってな。名前は日本名のようだが、通名ということもある」
イラッ。
胃液が血管に漏れ出したようなムカつきが全身を襲った。中国人と仲良くするようなやつは日本人じゃないってか。じゃあその中国人とつきあっているお前の娘は何だ。現実を見ろ、ハゲ。僕はれっきとした――
――ん?
僕の親父って、日本人なのか?
「……………………たぶん、日本人です」
椿山父の眉間に皺が寄った。椿山さんが慌てたように間に入り、「前言った通り、今日はこの人たちも一緒に来るから」と父親に告げる。それから椿山親子とソンでぎこちない会話が始まり、僕は姫に腕を引かれた後、少し離れたところでひそひそと話しかけられた。
「なんで『たぶん』とか言っちゃうの」
「だって、父親が日本人かどうか分からないから」
「ヒロトの国籍は日本なんでしょ?」
「そのはず。でもさ、それって国籍だけの問題なのかな。考えてみると自分が日本人かどうかってすごく曖昧だよね。そういうの、考えたことない?」
「ない。だってわたし、月の民だもん」
――そうだった。この子は、そういう次元で生きている子ではなかった。
「曖昧で当然だと思うよ」
姫が髪をかき上げ、物憂げに目を細めてソンを見やった。
「もともと世界には、国境線なんてなかったんだから」
姫が見ている方を僕も見る。ソンが愛想笑いを浮かべながら椿山父に話しかけ、だけど椿山父は不機嫌そうな相好を崩さない。人間が見ている世界は一人一人違うらしいけれど、あの男にはいったいどんな世界が見えているのだろう。眼鏡をかけたひょろい身体の男子中学生が、漆黒の翼を生やした世界を滅ぼす悪魔にでも見えているのだろうか。
「行こ。わたしたち、サポートしに来たんだし」
姫が駆け出す。僕も後を追いかける。寄ってくる僕たちを見て安心したように唇を綻ばせるソンは、やっぱり僕には、世界を滅ぼす悪魔にはどうしても見えなかった。
◆
乗り込んだバスは二人掛け二列に別れており、その中で僕たちは、僕と姫、椿山親子、ソンという風に別れた。事前の打ち合わせで椿山さんは自分の父親とソンを並べたがっていたけれど、それは僕たちが全力で止めた。「二人できちんと話せば分かってもらえると思うんです」と強固に主張する椿山さんは危うさの塊で、僕はこの件でソンがやたら疲れた表情を見せる理由が分かった気がした。
東京駅を出て、皇居前広場を通り、国会議事堂へ向かう。途中、警視庁と警察庁の前を通った際、椿山父が「君の指紋はもうそこにあるのか?」とソンに語りかけ、ソンは「在日外国人への指紋押捺制度は二〇〇〇年に無くなりましたし、残っていたとしても十六歳からなので僕は対象ではないです」と答えた。テストだったら百点満点の模範解答なのだろうけど、椿山父はものすごく不満そうな顔をして、軽く舌打ちさえ漏らしていた。
やがて国会議事堂に着き、乗客全員でバスを降りる。議場のある建物の中に入り、バス添乗員の解説を聞きながら階段を上る。僕と姫は手を繋いでいるが、ソンと椿山さんは隣り合っていても手は繋いでいない。まあ、すぐ傍から椿山父が睨みを利かせているわけで、繋げる状況じゃないけれど。
「ところでこの国会議事堂、皆さん、何代目の議事堂だと思いますか?」
添乗員の解説が国会議事堂に歴史に触れる。明治二十三年、初代が日比谷に出来て、漏電で燃えて、二代目を同じところに作り直して、また燃えて、三代目は広島へ。添乗員が広島では日清・日露戦争の予算を作っていたと話し、すさかず、椿山父がソンに向かって嘲笑を浮かべながら言葉を放った。
「あの、眠れる獅子を叩き起こしたら猫だった戦争か」
清々しいまでの喧嘩腰。ソンは曖昧に笑ってその場を乗り切ろうとする。ある意味、とても日本人っぽい平和的解決手段。
が、それが不味かった。
「おい」椿山父が、ずいとソンに迫った。「どうして自分の国をバカにされて、そんなにへらへらしていられる」
――無茶苦茶だ。喧嘩をふっかけて、それに乗らないと「どうして乗ってこない」とさらにふっかける。ただのチンピラじゃないか、こんなの。
「僕は日本生まれ日本育ちなので……」
「だから愛国心がない、か。芯のない男だ」
姫が僕の手を強く握った。僕はソンに声をかけようと口を開く。だけど開いた口から音が出る前に、椿山さんがソンと父親の間に入った。
「パパ、止めてよ。ソンくんの中身は日本人なの。たまにしか行かない中国に愛国心なんて湧くわけないじゃない。ねえ?」
椿山さんがソンの顔を覗く。ソンは椿山父に見せた曖昧な笑いを椿山さんにも返した。椿山父がふんと鼻を大きく鳴らし、蔑むように言い放つ。
「さすが『上に政策あれば下に対策あり』の国の人間だな。国家への忠誠がない」
椿山さんとソンが同じように目を丸くする。だけどたぶん、その意味は違う。椿山さんは分かっていない。ソンは分かっていて、驚いている。
「中国の諺なんて、よく知っていますね」
「君の国の人間が言っているだろう。『彼を知り己を知れば百戦殆からず』だ」
「その言葉、続きがあるのはご存知ですか?」
「もちろん。『彼を知らずして己を知るは一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦う毎に殆うし』。今は見る影もないが、中国人も古人は優れた頭脳を持っていたな」
「『'武経七書』の中でも『孫子』は、その思想が現代の経済学で整えられたものがゲーム理論だという主張すらありますからね」
ぶけいしちしょ。げーむりろん。――呪文か? いや、大丈夫。『孫子』は分かる。ケイゴよりはマシなはずだ。たぶん。
椿山父がソンを見つめる。人間を見極めようとする鋭い視線。やがて同じバスに乗っていたツアー客にどんどんと追い抜かれる中、椿山父がソンにくるりと背を向け、ツアー客を追いつつ独り言のように呟いた。
「君も、頭の出来がいいことは認めよう」
褒めた。中国アレルギーの男が、中国籍の少年を。これは大きな一歩だ。まだまだ先は長いけれど、絶望的な作戦にわずかながら光が見えた。
「ソンくん、すごい! パパ、めったに人のことを褒めないんだよ!」
椿山さんが声を弾ませ、ソンが照れくさそうにはにかむ。そして椿山さんは右の人さし指を立て、ソンの顔を覗き込んで尋ねた。
「それでね、一つ、聞きたいことがあるの」
「なに?」
「さっきの話の中に、パパがよく言う言葉があったの。でもわたしはずっとそれ分かってなくて、ちょうどいいから意味を知りたいなーと思って」
「いいよ。教えてあげる」
ソンが得意げに答える。僕は会話を思い返し、『上に政策あれば下に対策あり』という諺に思い至った。確かに僕も知らない。何となく予想はつくけれど。
「あのね」
舌足らずな声が、キンと鼓膜に響く。
「ソンシってなに?」
◆
椿山さんは、アホの子だった。
議場ではソンに「中国はどの政党が一番強いの?」と尋ね、「共産党以外はオマケだよ」と言われていた。続けて「へー。なんで?」と尋ね、「共産主義だからだよ」と言われていた。他にも添乗員の解説に伊藤博文の名前が出て「日本地図作った人だっけ?」と言ったり、議事堂の右が参議院で左が衆議院という話を聞いて「参議院が右翼で衆議院が左翼なんだね」と言ったり、やりたい放題。一つ質問するたびにソンが疲弊して椿山さんが元気になっていく様は、まるで他人の知識を吸い取って成長する新手のモンスターのようだった。
だけどそのアホの子旋風は、作戦においてはかなり有効に機能した。椿山父が明らかに戸惑っていたのだ。ネットで彼氏を調達したことを後から知るだけあって、日頃から娘のことを見ているわけではないのだろう。自分の娘がアホな質問をソンに投げ、ソンがそれに答える度に分かりやすく引け目を感じていた。その証拠に見学ツアーが進むにつれ、椿山父がソンに厳しい言葉を吐くことは無くなっていった。
やがて、国会議事堂見学ツアーが終わった。最後にトイレ休憩の時間があり、僕と姫とソンはトイレに行くという口実でバスに戻る椿山親子から一時的に離れる。休日なので営業していないお土産売り場がある小さな建物に足を踏み入れ、ベンチに座るなり盛大なため息を吐いたソンに、僕は右隣に座って声をかけた。
「お前、あの子がアホの子だって知らなかったのかよ」
「……あんまりそういう場面で口出す子じゃなかったから」
「頭良さげな場所に来て、知識欲が刺激されちゃったんだろうね」
左隣から姫が他人事のように呟く。ソンが再び大きなため息を吐く。可哀想に。ネットで会った子とノリで付き合うソンも悪いと思うけど。
「まあ、それはお前がこれから教えてやりゃいいじゃん。むしろそのおかげであのクソオヤジが折れ始めてるし、万々歳でしょ」
僕はソンの背中をバンと叩いた。ソンは肩を落として「まあね」と力なく答える。そんなソンを見て姫が、姿勢を正して改まった問いを投げた。
「ねえ。ソンくんはどうして椿山さんと別れたくないの?」
ソンの丸まった背筋が、ピクリと小さく動いた。
「だって、あんなお父さん、めんどくさいじゃない。確かに椿山さんはかわいいけど、ソンくんなら他にいくらでもかわいい子捕まえられると思うよ。わたしが保証する。『今回は諦めて次!』ってわけにはいかないの?」
ソンは空気を噛むように唇を動かし、だけど何も言わずに止めるという行為を数回繰り返した。溜めて、溜めて、溜めて、ようやく言葉を吐き出す。
「僕の父さんがさ」ソンの口元に、どこか寂しげな笑みが浮かんだ。「若い頃、日本人の女の人と付き合ってたんだ」
ソンの父親。輪郭は四角くて、顔のパーツは丸っこい、優しさと厳しさが同居した不思議な雰囲気の人。厨房で大きな中華鍋を振るう凛々しい横顔が僕の脳裏に浮かぶ。
「酔っ払って、二人になった時に話してくれた。母さんには悪いけど、人生で一番好きになったのはその人なんだって。お互い結婚する気満々で、女の人の親御さんに婚約の挨拶に行くことになって、父さんはその人に誓ったんだ。どれだけ殴られても、蹴られても、蔑まれても、絶対に諦めない。だから俺についてきてくれって。女の人は涙を流して喜んで、何があっても幸せになろうって誓い合ったらしい」
絶対に諦めない。何があっても幸せになろう。その約束が守られなかったことを、未来にいる僕たちは知っている。
「長時間土下座を続けるためにはどういう体勢を取ればいいかとか、わざわざ研究したらしいよ。笑っちゃうよね。でも本当に笑っちゃうのはその後のオチ。そこまで準備して、女の人の実家に行って、どうなったと思う?」
乾いた笑顔を貼り付け、ソンが僕の方を向く。僕は無言でふるふると首を横に振る。ソンは笑顔を消してまた俯き、ポツリと正解を固い床に落とした。
「土下座されたんだって」
床に落ちた言葉が、跳ね返って薄く広がる。
「両親揃って、泣きながら謝って来たんだって。止めてくれ、許してくれ、勘弁してくれって、何度も。父さんがどれだけ頼んでも止めてくれなくて、女の人も泣き出して、最後は父さんが折れたらしい。父さんは普段から『日本も日本人も好きだけど日本人のすぐ謝るところだけは嫌いだ』って言ってるんだけど、その話を聞いて納得したよ」
ソンがベンチからゆっくりと立ち上がった。バスが停まっている駐車場の方を見やりながら、独り言のように呟く。
「なんで別れたくないんだろうね」
皮肉めいた笑みを浮かべ、ソンがくるりと僕たちに背を向けた。
「僕にも分かんないや」
ソンが駐車場に向かって歩き出した。僕は見えない何かに押さえつけられて動けない。やがてその姿が見えなくなった後、姫が湿っぽく呟いた。
「ブルーハーツの『青空』」
伸びやかな声で歌われるサビが、急速に頭の中で再生される。
「歌詞がピッタリで、なんか思い出しちゃうよね」
「ピッタリかな。あいつ、生まれたところは日本だし、皮膚も目の色も日本人と何も変わんないけど」
「言いたいことは同じでしょ。ただ歌よりも現実がもっと面倒なだけ」
姫がこちらに身体を寄せて、僕の左手に柔らかな右手を乗せた。さらさらの肌がやけに暖かくて、僕は自分の芯が冷えていることを知る。
昔、僕も国境線を引いた。
砂場に引いた国境線。こっち側とあっち側。でも僕が引いたあの線は、自分の世界を守るための線だった。ソンの目に見えている線は違う。他人を排除するための線。あいつはそういう線を十年以上も周りに押し付けられながら、この国でどうにか生きて来たのだ。
「どうしようか」
姫が僕に問う。いや、違う。焚きつけている。姫も、僕も、そしてソンもとっくに分かっている。このまま進んでも、その先に未来はない。
「――決まってるだろ」
僕は姫にキリリとした顔を向け、おもむろに口を開いた。
「ミッション変更だ」
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