第3章 魔法使いの詩

3-1


 五歳の夏、僕は国境線を引いた。

 世界中の海が干上がりそうなぐらいカラカラに晴れた日。僕は集めていた恐竜のソフトビニール人形を近所の公園に持っていき、砂場で彼らのためのジオラマを作っていた。砂を集めて山を作り、枝を立てて森を作り、水を溜めて湖を作る。「創世記」よろしく神さま気分で小さな世界創造を楽しんでいると、いつの間にか僕と同じ年ぐらいの男の子が赤いプラスチックのバケツに水を汲んで砂場に現れ、小さな手を使って僕の作った砂山に水をまぶし始めた。

「なにやってんだよ」

「トンネル作るの」

 ペタペタ、ペタペタ。男の子が湿った手で砂山を固める。ふと見ると、僕が恐竜のビニール人形を詰めたカゴを持っているのと同じように、男の子はプラスチック製の電車を詰めたカゴを砂場に持ってきていた。トンネルを作って電車を走らせるつもりなんだな。僕はすぐにそう気づき――ふざけるなと思った。

「止めろよ」

 僕は男の子を砂山から引き剥がした。とてん、と男の子が砂の上に尻もちをつく。僕は倒れる男の子の前に足を伸ばし、砂場の上に靴の爪先で線を引いた。

「こっから先には入ってくんなよ」

 きょとんとする男の子に背を向け、世界創造を再開する。そのうち男の子も線の向こう側で自分の世界を創り始める。こっちはティラノサウルスやトリケラトプスが歩き回る白亜紀。あっちは山手線や小田急線が走り回る現代。二つの世界を隔てる線は紛れもなく、僕が僕のために引いた国境線だった。

 世界で初めて国境線を引いたやつも、そんな感じだったんじゃないかと思う。

 自分だけの世界を作りたかった。だから線を引いた。線の向こう側のことなんてどうでも良くて、ただ邪魔をされたくなかっただけ。そいつは五歳の僕に匹敵するぐらい身勝手で自分本位で純粋なやつで、だからきっと、気づかなかったのだ。

 人間が、とてつもなく頭が良くて、果てしなくめんどくさい生き物だということに。


   ◆


 一学期最後のホームルームが終わった。

ここからは夏休み。解放感から教室が盛大にざわつき出す。クラスで一番人気のある男子が「これからカラオケ行く人ー!」とサタデー・ナイト・フィーバーのジョン・トラボルタのように指を立て、クラスで一番人気のある女子が「行くー!」といつもより三オクターブは高い声を出して飛びつく。二ヶ月ぐらい前にヤクザの親分から聞いた「眩しくて、鬱陶しくて、ぶん殴りたくなる」という台詞を、僕はふと思い出した。

 僕は学生鞄を担ぎ、教室を出た。あちこちの教室がお祭りのように賑わっていて、だけど帰ろうとする生徒はあまり廊下に溢れていない。みんな、やっと休みだなんて騒いではいるけれど、学校のことが好きなのだ。嫌いなのは学校そのものじゃなくて――

「七瀬」

 振り返る。仏頂面で僕を見る担任の保坂。嫌いなのは、そう、こういうやつ。

「なんですか」

「お前、夏休みはどうやって勉強するつもりだ」

 ――またかよ。

 進路調査で医者になりたいという将来像を掲げ、志望校を偏差値七十超えの公立進学校に変えて以降、保坂はちょくちょく僕に小言を言ってくる。ライバルは塾に行っているからお前は三倍頑張らないと間に合わないだの、内申点がいくらあっても足りないから品行方正な態度を心掛けろだの、モチベーションを削ぎに来ているとしか思えない。

「周りは塾の夏期講習だぞ。お前は何か考えているのか?」

「友達に勉強を教えてもらう予定です。四組の――」

「ああ、ソン・リャンか」

 保坂が頷いた。僕の友達、勉強を教えてもらう、四組で通じる程度には認識されているらしい。さすが、校内テスト学年一位。

「はい。あいつも塾には行っていないけれど、成績は十分ですから」

 塾なんか行かなくてもどうにかなんだよ。そういう言葉をそういうニュアンスで叩きつける。保坂が軽くため息を吐き、僕の機嫌を探るようにゆっくりと語りだした。

「お前は先生が口うるさいことを言っていると思っているだろう」

 ――当たり前だろ。思ったけれど、とりあえず黙っておく。

「確かにうるさい。それは認める。だけどな、冗談でも誇張でもなく、この夏で本当に勝負が決まるんだ。お前はずっと、斜に構えて、物事と正面から向き合わないところがあったからな。目指すものが出来たならそれは応援したい」

 僕は、驚きに目を見開いた。

 保坂が僕を応援。いや、担任なんだから当たり前なんだけど、そんなことを言われるなんて思っていなかった。もしかしてこいつ、前に母さんが言った通りのいいやつなのか? そんなことを考え始めた僕の肩に手を乗せ、保坂が微笑む。

「だから、気をつけろよ」

 そして続く言葉を耳にした瞬間、情にほだされて開きかけていた僕の心の扉は、再びバーナーで溶接したように固く閉ざされた。

「凡人が天才の真似をしても、失敗するだけだからな」


   ◆


「当たってんじゃん」

 放課後、姫の病室でテーブルを囲み、騎士団四人と姫で勉強をしながら僕が吐いた保坂への怒りに、カトウはあっさりとそう返した。僕は唇を尖らせて不満を表明し、でも反論はしない。確かに当たっている。当たっているから、ムカつくのだ。

「ソンはさー、素因数分解に『式の形を見れば分かる』とか言うだろ。あれ聞いてついていけねえって思ったもん。なんだよ、式の形って。数字だろ」

「中学の因数分解なんてパターン少ないし、感覚で分かるってことだよ」

「だから、それが意味わかんねえって言ってんの」

 カトウがくるくると指先でシャーペンを回す。ただ回しているだけじゃなくて、指の間を通したり、逆回転になったり、工夫を入れているようだ。器用なやつ。

「ソンくん、本当に頭いいもんね。夏休みの宿題なんて一日で終わっちゃいそう」

 僕の隣から姫がソンを褒める。僕は、気にくわない。このままだとロクな高校に入れないケイゴと医者になるために難関校を目指したい僕の需要で定期勉強会が始まって以降、姫の中でソンの評価はうなぎのぼりだ。ついでに姫にも勉強を教えているから月の王こと姫の父親の評価もうなぎのぼりで、「どうせ彼氏にするならあの中国の子の方がいいんじゃないか?」とか言い出しているらしい。納得いかない。

「なあ」ケイゴが参考書を開き、隣のカトウに寄った。「これ、分からないんだけど」

 カトウがケイゴの参考書を覗き込んだ。瞬く間に、その表情が驚愕の色に染まる。

「……本気?」

 ケイゴは今、小学生から勉強をやり直しており、最近やっと中一の単元に入った。求めているレベルが全く違うから、僕はソン、ケイゴはカトウに勉強を教わっていて、席も毎回そのペアに別れている。いったいどんな問題を聞かれたのだろう。気になる。

「ヒロト、集中」

 向かいに気を取られている僕の頭を、姫がノートでペシッと叩いた。僕は子ども扱いすんなよと思いつつ、それを言うのがまた子どもっぽいので勉強に戻る。やがてこのまま一人で考えていても地球が滅びるまで分からなそうな問題にぶち当たり、姫とは逆隣りにいるソンに声をかけた。

「なあ、ソン」

 スマホを弄っていたソンは、僕の呼びかけに答えなかった。「ソン」と少し声を大きくして呼びかけ、やっと「なに?」と振り向く。そして僕に勉強を教えた後はまたスマホ弄りに戻り、自分の世界に没頭。僕は冗談半分に尋ねた。

「カノジョ?」

「うん、そう」

 カトウの指から、回していたシャーペンがすっぽ抜けた。

 すっぽ抜けたシャーペンが隣のケイゴの顔に当たり、ケイゴが「いて!」と呟く。シャーペンはそれからテーブルに落ち、カツンと軽い音を病室に響かせる。その音の余韻が完全に消えた後、カトウがテーブルに手をつき、ソンを除く僕たち全員の想いを代弁した。

「言えよ!」

 僕は心の中で深く頷いた。こんなにもカトウに共感を覚えたのは初めてだ。

「別にわざわざ言わなくても良くない?」

「言うだろ! 割と最近、高校に行かないの言わないで揉めたやついただろ!」

「それとは重さが違うし」

「そうだけどさあ!」

 カトウがはーと息を吐く。姫がうきうきした様子でソンに尋ねた。

「どこで知り合った、どんな子なの?」

「出会ったのはスローライフ系のネットゲーム。話してるうちに意気投合して、近くに住んでるのが分かったから会ってみたんだ。そうしたら、付き合うことになった」

 要約するとネットで女を引っかけてそのままモノにしたということだ。こいつ、人畜無害そうな顔して、意外とやる。

「年は?」

「一つ下」

「写真ある?」

「あるよ」

 ソンが姫にスマホを渡した。姫が「あ、かわいー」と声を弾ませ、僕とケイゴとカトウも集まってスマホの写真を覗き込む。肩まで伸びるふんわりしたボブカットと、ぷっくり膨らむ頬が印象的な、幼い雰囲気の女の子。

「……かわいい」

 カトウが悔しそうに呟く。無理もない。僕には姫がいて、ケイゴは童貞卒業済で、ソンまで彼女持ちになってしまったのだから。

「今度、連れてきてよ」

「いいよ。みんなの話はしてて、向こうも会いたいって言ってるから」

「そうなんだ。どうせなら外で会おうか。その子はどういうものが好きなの?」

 姫とソンがワイワイと盛り上がる。女の子ってなんであんなに恋バナ好きなんだろうと思いながら、僕は勉強に戻る。そしてすぐにまた三回生まれ変わっても解けなさそうな問題にぶち当たり、ソンに助けを求め、それで姫とソンの話は終わった。その時点でソンが彼女をいつ連れてくるかは決まっていなくて、僕はどうせ自然とお流れになるだろうなと大した注意を払っていなかった。

 だけどその機会は、意外と早く訪れた。


   ◆


『カグヤナイツ緊急招集指令

【対象】全員

【ミッション】魔法使いのパートナーに関する問題について協議』


 姫からそのメッセージが入ったのは七月末。僕たちが姫の病室に集まってソンの彼女、椿山安奈と対面したのはその翌日だった。都内の私立中学に通う二年生。少し舌足らずなおっとりした喋り方をする子。あとやたらおっぱいがでかい。僕は嫌いではないけれど、女子には嫌われるタイプの子だと思った。

 招集をかけたのは姫だけど、そもそもはソンから持ち込まれた話で、さらにルーツを辿ると発端は椿山さんだった。だから僕たちが呼ばれた理由は椿山さんが説明した。ソファに座って椿山さんの話を聞き、ある程度進んだところでカトウがそれをまとめ直す。

「えっと、つまり」カトウが小さく首を捻った。「椿山さんのお父さんがソンのことを中国人だって理由で嫌ってて別れろって言ってくるから、椿山さんはそれをおれたちにどうにかして欲しいってこと?」

 椿山さんがこくりと頷いた。それから、ゆっくりと語り出す。

「わたしのパパ、中国とか、韓国とか、理屈抜きでダメなんです。あとインターネットにも偏見があって、だからわたしがネットで知り合った中国人の彼氏と付き合ってるのが許せないみたいで、でも……」

 椿山さんが、隣のソンをちらりと見やった。

「わたし、ソンくんは日本人より日本人らしいと思うんです。落ち着いてるし、礼儀正しいし、お魚の骨取って食べるのわたしより上手いし。だからきちんと付き合えば分かってくれるはずで、皆さんにはその手伝いをしてもらいたいんです。ちゃんとした日本人の友達がいるのは、パパにとってもプラスだから。ね、ソンくん」

 ソンが困ったように笑いながら「そうだね」と答えた。僕はその場にいる面子をざっと見渡す。風俗嬢の息子、ヤクザの息子、キラキラネーム、月のお姫さま。――本当にプラスなのだろうか。マイナスな気がする。

「手伝いって言われても、何すりゃいいんだよ」

 ケイゴが乱暴に尋ね、椿山さんが肩を竦めた。特にこいつはダメだ。絶対にマイナス。椿山さんの彼氏がソンじゃなくてケイゴだったとしても、国籍とは関係のないところで通らないだろう。

「それもね、決まってるの」椿山さんに代わって、姫が口を開く。「これ見て」

 姫がソンからタブレットを受け取り、ソファ前のテーブルに置いた。僕とケイゴとカトウでタブレットを覗き込む。


『バスで気軽に東京観光! 国会議事堂と靖国神社参拝 半日コース』


 東京を大型バスで巡る観光ツアーの案内ページ。僕はタブレットから顔を上げてソンを見た。疲れたように肩を落とすソンの隣で、椿山さんが意気揚々と語る。

「それにわたしとソンくんとパパで参加するんです。わたしがパパにソンくんのことを分かってもらいたくて企画しました」

「いや、でも、靖国……」

「……コースはパパに決められちゃいました」

 椿山さんが俯いて黙った。重たい空気の中、ケイゴがあっけらかんと言い放つ。

「神社に行くと何か問題あんの?」

 ――お前、マジかよ。よくそれでヤクザになろうと思ったな。偏見かもしれないけれど、あの界隈ってだいたい右寄りだろ。

「もうそんなお父さん、無視しちゃっていいんじゃないの? 別に今すぐ結婚したいってわけでもないんだから無理しなくても……」

「ダメですよ!」

 カトウの言葉を遮り、椿山さんが勢いよく語り出した。

「パパは自分の気に入らないことには本当にうるさいから、このままだとわたしもすごく疲れるし、それに何より、国籍で人を判断するのって間違ってるじゃないですか。わたしはソンくんを通して、パパのそういうところを直していきたいんです!」

 鼻息の荒い椿山さん。そういう親子の話はソンを通さないでやればいいのに。僕の言うことじゃないから、言わないけど。

「とにかく」姫が場を仕切り直した。「ソンくんたちがこれに乗るから、わたしたちにも来て欲しいっていうのが椿山さんの頼み。一緒に回って二人をサポートする。どう?」

 どう、と言われても困る。人づきあいが苦手な人間に人づきあいを円滑にする手助けを頼まないで欲しい。カトウが「うーん」と悩みながら意見を口にした。

「あんまり多人数で押しかけても困る気がするけど」

「それはわたしも同意。どっちがメインだか分からなくなっちゃうよね」

「じゃあオレはパス。金ねえし」

 ケイゴがいち早く逃げ出した。すさかず、カトウが便乗する。

「おれもパスかな。ヒロトたち二人で行けばいいじゃん。ダブルデートみたいな感じで」

 ダブルデート。その言葉を聞いた途端、姫の瞳が輝いた。

「そうだね。じゃあダブルデートってことにして、わたしたち二人で行こうか」

 カトウが「そうしなよ」と答え、それからほんの一瞬、僕に向かってふふんと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。てめえ。覚えてろよ、クソチビ。

「ありがとうございます! よろしくお願いします!」

 椿山さんが大きく頭を下げた。それからソンの腕にしがみつき、「頑張ろうね!」と元気いっぱいに声をかける。ソンはただ、困ったように苦笑いを浮かべ続けていた。

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