5-2
姫の故郷は、閑静な住宅街だった。
各駅しか止まらない最寄りの私鉄駅まで歩いて二十分。コンビニやスーパーやファミリレストランはあるけれど、デパートや映画館やアミューズメント施設はない。住宅も高層マンションではなくて背の低い一軒家ばかり。ただ街並みは整っていて、古めかしいイメージは無かった。時代に取り残されたというより、時代を追いかけるのを止めた感じ。
やがて、クリーム色の壁をした二階建て一軒家の前で車が止まった。姫がドアを開けて降り、僕も同じように降りる。『吉田』と記された表札のついた門の前に立ち、インターホンのボタンに指を伸ばしながら、姫が呟く。
「いるかなー」
「連絡してないの?」
「いきなり行くのがいいんじゃない。それで会えなかったら――運命だよ」
姫が、インターホンを押した。
呼び出し音の後、「はい」と機械を通してくぐもった女性の声が届く。姫が「相馬ノゾミです。もしかして、ナオちゃん?」と尋ねると、ほんの少しの沈黙の後、「ノゾミ!?」と分かりやすく驚きに満ちた反応が返って来た。そしてすぐにインターホンが切れ、玄関の扉が開き、中からえんじ色のジャージを着たショートヘアの女の子が現れた。
「うわあー、ノゾミだあー」
女の子が姫に駆け寄り、手を取って小さく跳ねる。姫も「ひさびさー」と同じように跳ねる。女子特有の儀式めいた動き。
「え、なに、いきなりどうしたの?」
「近くに寄ったから、ナオちゃんいるかなーと思って」
「ありがとー、うれしー」
甲高い声ではしゃぐ二人を見ながら、僕は「姫も中学生の女の子だったんだな」なんて当たり前のことを考える。やがてひとしきり騒いだ後、ナオちゃんと呼ばれた女の子が僕の方をちらりと見た。すさかず、姫が僕を指さして口を開く。
「これ、わたしの彼氏」
「うそ! 彼氏とかいんの!?」
姫が僕の背中を軽く叩いた。――仕方ない。
「初めまして。七瀬ヒロトと言います」
「あ、初めまして。吉田奈央です。ノゾミの昔の親友です」
親友。そう自分で言い切れる関係。僕の脳裏にケイゴたちの姿が浮かんだ。まあ僕たちはきっと「自分たちは親友」だなんて、誰も他人には言わないだろうけど。
「七瀬さんは、ノゾミのクラスメイトなんですか?」
「あー、えっと……」
「わたしが街でナンパしたの」
吉田さんが「ナンパ!?」と声を上ずらせながら口に手を当てた。姫が腰に手をやって胸を張り、得意げに言い放つ。
「ほら、わたし、いつ月に帰るか分からないでしょ? だからその前に地球で彼氏作っておきたいなーと思って。初回で逆ナン成功したんだよ。すごくない?」
僕は、大きく目を剥いた。
瞳孔の開いた目を吉田さんに向ける。吉田さんは全く動じることなく「すごーい。コツは?」と姫に尋ねる。「うーん。顔かな」「うわー、出たよ」。軽いやりとりの後に吉田さんが僕に「七瀬さんだって顔だけで決めたわけじゃないですよねえ?」と話を振り、僕はどうにか「うん、まあ」と曖昧に頷いた。
しばらく玄関先で話が続き、姫が「じゃあそろそろ」と言ってお開きとなる。姫は「またね」と吉田さんに言いながら手を振り、吉田さんも「またね」と手を振り返して別れた。乗り込んだ車が発進し、僕たちを見送る吉田さんがバックミラーに映らなくなったのを見計らって、僕は姫に質問を投げる。
「あの子は月の王国のこと、知ってるんだ」
「うん。っていうか、こっちの友達はだいたい知ってる。『月帰還性症候群』の症状が出始めた頃はわたしも子どもだから、べらべら何でも喋っちゃったんだよね。まあ、どうしても秘密にしなくちゃいけない理由はないんだけど」
目を細め、流れる景色を見やる姫の顔は、とても幸せそうだった。この土地を、人を、愛していることがありありと見て取れる表情。なんとなく分かる。さっき会ったあの子は先代のカグヤナイツだ。そういう名前はついていなかったかもしれないけれど。
「これから会う子たちもみんな知ってるから、あんま構えなくていいよ」
姫が笑う。僕は笑い返す。「またね」「またね」。さっき聞いた会話が頭の中でリフレインして、なぜだか、何でもいいから何かを思い切り殴りたくなった。
◆
姫はそれから、三人の友達に会った。
二人は女子で、一人は男子だった。男子は今のカグヤナイツで言うとケイゴに近い感じで、初対面の僕にも気取らずに話しかけて来た。姫に僕を紹介された時は「マジかよー。俺ノゾミのこと好きだったのに」と言っていたけれど、たぶん嘘だと思う。ただ姫は「そういうことは早く言ってよー」と返した時に少し寂しそうな目をしていたので、もしかしたら好きだったのかもしれない。
四人の友達に会った後、車は街から離れた。だけど来た道を戻るわけではなく、むしろどんどん離れる方向に進んだ。まだ寄るところがあるのだろうかと思って姫に聞くと、姫は「ちょっとね」と返事をはぐらかした。そして街を離れて約十分。その答えが、僕の目の前に現れた。
霊園。
誰のお墓がここにあるのか。そんなことを改めて聞く必要は、どこにも無かった。僕たちは無言のまま駐車場に車を停め、無言のまま降りた。降りた時に姫が自分の身体を抱きながら発した「さむーい」と口にし、十年ぶりぐらいに声を聞いた気分になった。
線香を買い、水を汲んで、段々畑のように墓が立ち並ぶ霊園を歩く。季節は冬至。まだ時間はそれほどでもないのに、既に辺りは夕闇に沈みかけていた。鬱々した雰囲気の中、三人で連なって歩き、目的地にたどり着く。
相馬家之墓。
月の王が無言でお墓の周りに生えている雑草をむしり始めた。姫がそれを手伝おうとして「お前はいい」と止められ、代わりに僕が「手伝います」と助けに入る。男二人で黙々と雑草をむしり、墓石を磨き、準備を整える。
やがて掃除が終わり、月の王がライターで線香の束に火をつけ、その一部を僕に手渡した。王、姫、僕の順に墓の前で手を合わせる。そして僕が目を開けた後、月の王が水と雑巾の入っている手桶を持ち上げ、姫に告げた。
「これを置いて来るから、ここで待ってなさい」
来る途中に汲んできたものだ。帰る途中に置いて来ればいい。――そんなことは、もちろん言わない。去っていく広い背中に心の中で頭を下げ、姫に声をかける。
「ねえ」声が、少しばかり震える。「渡したいものがあるんだ」
クレーンゲームみたいに、コートのポケットに右手を突っ込み、中で箱を掴み、ゆっくりと引き出す。ラッピングされた箱を右手の上に乗せ、姫に差し出す。箱を指さし、目を輝かせながら「開けていい?」と尋ねる姫に、大きく頷く。
姫が丁寧にラッピングを剥がし、箱を開けた。金色のリングが二つ並んで姫の前に姿を現す。姫がそのうち一つを手に取り、内側に掘られているイニシャルを見て「こっちがヒロトのだ」と声を弾ませた。そのまま姫は僕にリングを手渡し、僕はそれを左手の薬指に嵌める。そして姫は残った自分のリングを、さっき僕がやったように、左の手のひらに乗せて僕に差し出してきた。
「ヒロトがつけて」
言われるがまま、僕はリングを取って姫の左手を掴んだ。そして自分が想像していたよりもずっと細い腕と指に驚愕する。恐る恐るリングを薬指に嵌めると、案の定ゆるゆる。しまった。やらかした。
「ごめん。サイズ合わないみたい。細めにはしたんだけど」
「いいよ。サイズなんかどうでもいい。本当にありがとう」
左手を顔の前に掲げ、姫が薬指を眺める。右の人さし指でリングの表面をなぞり、ほうと小さくため息をつく。
「イニシャルまで掘って、高かったんじゃないの?」
「そうでもないよ。母さんの友達にアクセサリーショップをやっている人がいて、知り合い価格で何とかしてくれた」
「そうなんだ。じゃあ、わたしの代わりにお礼を言っておいてくれると嬉しいな」
姫が開いた左手を天に伸ばした。伸びた手の先には、夕暮れの月。半月と呼ぶには少し大きい。満月と呼ぶには少し足りない。そんな大きさ。
「ママ、見てるかなあ」
ママ。月の女王。僕が「見てると思うよ」と答えると、姫は腕を下ろした。そしてふと墓石に目をやり、物憂げに呟く。
「本当はこんなの、要らないんだよね。月に帰っただけなんだから」
「……そうも行かないよ。公には亡くなったことになってるんでしょ」
「そうだけど、お参りに来るたびになんかモヤッとするの。だってここにママはいないんだもん。いないのに手を合わせるの、なんかすごく変に感じる」
姫が軽くため息をついた。そして首を曲げ、再び月を見上げる。
「わたしが月に帰った後、パパはここに来るのかな」
――やめろ。
心がざわつく。口にするな。形にするな。
「来るんだろうなあ。それを考えると憂鬱なんだよね。わたしに何かを伝えたいなら月を見てくれればいいのに。わたしはずっとそこにいるんだから」
やめろ。やめろ。やめてくれ。
「ヒロトは」姫が僕の方を向き、朗らかに笑った。「別に来なくていいからね」
――プツン
「止めろよ!」
自分でも驚くぐらいの大声が出た。木枯らしが木々を撫でて去り、葉擦れの音が叫び声をかき消す。姫の両肩を強く掴んだ。
「月に帰るとか、そういう話は止めようよ。僕たちが守るって言っただろ。ケイゴも、ソンも、カトウも、みんな待ってるんだ。待ってるって言ってるんだ」
勢いだけで喋る。想いを頭で咀嚼せず、そのまま吐き出す。
「弱点とか、ないのかよ」
ちくしょう、僕は何を言っているんだ。何が言いたいんだ。
「月の使者がとんでもなく強いのは分かった。それでも弱点ぐらいあるだろ。ここをつけば倒せるかもしれないみたいな抜け道、一つぐらいは用意されてるだろ。そうじゃなきゃ、そうじゃないなら――」
君の人生は、なんなんだよ。
最後まで言い切らずに、僕は口を噤んだ。姫が自分の両肩から僕の腕を外し、ゆったりとした歩調で僕から離れる。一歩、二歩、三歩――四歩離れたところでバレリーナみたいにくるりと回って振り返り、腰の後ろで手を組みながら微笑む。
「歌」
透明な声が、寒空に響く。
「月の使者は、地球の歌が苦手なの。宇宙には大気がなくて、音がないでしょ? 月も音は弱くて、だから音楽の文化があまり育ってない。月の人たちにとって音楽は理解不能なもので、聞くと心がざわざわするみたい」
鳥が羽を広げるみたいに、姫が大きく両手を広げた。
「だから歌って。わたしが危なくなったら、わたしのために、力の限り。それできっと追い返せる。またカグヤナイツのみんなで、冒険出来るようになるから」
歌う。
姫のために歌を歌う。それで月の使者を追い返せる。綺麗で、ロマンチックで、意味不明で、まさに――御伽噺だ。
「……歌」
「そう、歌」
姫が僕に歩み寄る。そして上目遣いに僕を覗き、僕を挑発する。
「わたしのために歌うのはイヤ?」
僕は首をぶんぶんと横に振った。姫がにこりと笑いながら僕の左手を取り、両手で包み込む。ペアのリングが、夕焼けを反射して鈍く光る。
「大丈夫」姫の肩が、小さく震えていた。「勝てるよ」
僕は姫を抱き寄せた。薄くて細い身体を腕に収めながら、目一杯の敵意を込めて月を睨む。月はただ、ぼんやりと空に浮かぶだけで、何も答えはしなかった。
◆
墓参りを終え、僕たちは上野に戻った。
病院のロビーで姫と別れた後、僕は何だか帰る気になれなくて、上野公園をぷらぷらと歩いた。いくらクリスマスに興味のない上野とはいえ、国内有数の都市公園をそのまま遊ばせておくほど愚かではない。あちこちにイルミネーションが施され、カップルもそこそこ歩いていた。ホームレスの男がコートの襟を立てて一人で歩く僕に「ご愁傷さま」といった感じの視線を寄越し、僕は「お前に言われたくねえよ」と男を軽く睨み返した。
やがて、枯れた桜の木に青色の電飾を巻き付けた、上野公園風クリスマスツリーの前まで来た。僕は汚すぎて誰も座らないベンチに腰かけ、ツリーを見上げる。左手をツリーの前にかざし、薬指のリングが電飾の光を受けて輝く姿をぼうっと眺める。
コートのポケットでスマホが震えた。取り出して画面を見ると、知らない番号。とりあえず通話にして「もしもし」と声をかける。返って来たのは、聞き覚えのある男の声。
「七瀬くんか?」
ぼやけていた意識が、一気に輪郭を取り戻した。
「君と話がしたい。今、どこにいる?」
月の王。相馬幹彦。僕は居場所を答えると、月の王は「分かった。今から行く」と言って電話を切った。僕は唐突で一方的な申し出に困惑しつつ、とりあえず他の誰かが座らないようにベンチの中央で大股を広げて待つ。
月の王が現れたのはおよそ十分後だった。律儀に走ってきたようで、はあはあと絶え間なく白い息を吐き出していた。僕はベンチの右に詰め、月の王が左に座る。やがて呼吸を落ち着かせた月の王がふうと深く息を吐き、ツリーを見上げながら口を開いた。
「綺麗だな」
「……そうですね」
一往復。そして沈黙。――付き合いたての年の差ゲイカップルか。男二人並んでイルミネーションを見る違和感に僕がそわそわしていると、月の王がコートのポケットから封の開いていない煙草の箱を取り出した。そして箱のビニールを取り、煙草を一本咥え、百円ライターで火をつける。
「煙草、吸うんですね」
「十五年ぶりだ。娘が生まれてから一本も吸っていない」
淡々と言い切り、月の王が煙草を吹かした。寒空に消える煙を見つめながら、吐き捨てるように「不味い」と呟く。そのまま、まだ随分と残っている煙草を地面に落とし、革靴で踏みつけてグリグリと火を揉み消す。
「くそったれ」似つかわしくない、汚い言葉。「くそったれめ」
月の王。一生を共にしようとした妻を月の民に奪われ、最愛の娘までも奪われようとしている、名ばかりの王。姫と出会ってまだ一年も経っていない僕と違って、この人は姫が生まれた時から一緒だったのだ。僕なんかよりもずっと悔しいはずだ。苦しいはずだ。
聞いてはいけない。
「何とかならないんですか」
我慢が、出来なかった。
「娘さんを助ける方法、何かないんですか」
あるならとっくにやっている。そんなことは分かっているのに、言葉を止められない。希望が欲しい。救いが欲しい。この御伽噺はハッピーエンドで終わるのだと言う、確かな手触りを感じたい。
強い意志を込めて月の王を見据える。月の王はどこか気の抜けた目で僕を見やり、力なく笑った。少し自虐的な笑い。
「そうか」しみじみと呟く。「君は、まだ諦めていないんだな」
月の王がベンチから立ち上がった。そして座る僕の頭の上に手を置き、撫でる。中三にもなっての子ども扱いが、なぜだか妙に心地よい。
「私も、妻の時はそうだった」
僕の頭から、月の王の手を離した。
「最後まで諦めず、どうにかならないかと希望を求め続けていた。いよいよ亡くなるその瞬間にだって、助けてくれと神に祈り続けていた」
月の王が天を仰ぐ。夜空に浮かぶ黄色い塊を見つめ、語り続ける。
「結局、どうにもならなかった。この世には神も仏もいなかった。だけど――」
電飾と月光。人工と天然。二つの青白い光を受けながら、月の王が呟きをこぼした。
「諦めなかったことを、後悔はしていないな」
月の王がゆっくりと僕の方を向いた。優しさに満ちた視線を僕に送りながら、穏やかな声で語る。
「君も――諦めないでくれ」
踵を返し、月の王が去る。冷たい夜風が頬に当たる。僕は左手に嵌まっているリングを一撫でした後、両方の拳を、爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめた。
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