第5章 月姫の詩

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 それが何歳の頃だったか、僕も覚えていない。

 ただ、小さかった。手も足も身体も脳みそも何もかもが小さかった。そんな僕にとって世界はとんでもなく広くて大きくて無限大。何があっても、何が起きても、何一つとして不思議ではない。表情豊かな機関車が人間の言葉を喋りながら日々の運行をこなすのも、命を持ったあんぱんがパンチ一発で悪者を懲らしめるのも、全部、全部、この世界のどこかで本当に起きているお話。いつか会えたら褒めてもらうために、いい子にしてなくちゃ。そんなロジックで人生を回せるお年頃。

 そんな僕に世界のことを教えてくれるのは、もちろん母さん。母さんは何でも知っている僕の神さま。母さんが「夜にアイスを食べると寝ている時にお腹が爆発する」って言うから僕は夜にアイスを食べない。母さんが「玩具をちゃんと片付けないとおもちゃ箱が爆発する」って言うから僕はお片づけをする。今の僕なら「爆発好きすぎだろ」と冷めた目で突っ込みを入れるところだけど、その頃の僕は全て信じてしまう。だって母さんは神さまなのだ。信じない方がおかしい。

 だから月が煌々と輝く夜道を歩きながら、母さんに「月には人が住んでいるのよ」なんて言われたら、そりゃあ僕は、信じてしまう。

「どんな人が住んでるの?」

 手を引く母さんに僕はうきうきと尋ねる。母さんは空に浮かぶまんまるお月さまを眺めながら、得意げに呟く。

「お姫さま」

「お姫さま!?」

「そう。ちょっとだけ地球にもいたのよ」

「本当に!?」

「本当に」

 僕はほうと熱い息を吐いた。母さんが本当だと言うならそれは本当なのだ。ちょっとだけ地球にいた月のお姫さま。だったら――

「また来るかな!」

 母さんが首を傾げた。あんまり分かっていない顔。僕は言い直す。

「また、地球に来るかな!」

 母さんが僕の言いたいことを理解した。微笑みながら語りかける。

「来るんじゃないかな」

「じゃあ、会えるね!」

「そうね。ヒロくんは月のお姫さまに会いたい?」

「会いたい!」

 元気よく答える。元気が良すぎて、母さんが苦笑いを浮かべる。「会えるといいね」。そう言って母さんが手を強く握り、柔らかくて暖かな感触が僕に安らぎを与える。

 ――そうだよ。

 ずっと、会いたかった。

 自分の名前も上手く話せない頃から、僕は君に会いたかったんだ。

 なのに――


   ◆


 十二月、受験前最後の三者面談があった。

 ここまで来ればもう進む道は決まっている。やることはモチベーションの向上だけ。というわけなのか何なのかは知らないけれど、保坂は僕のことを気持ち悪いぐらいに褒め倒した。志望校を引き上げた時はどうなることかと思ったけれど、今は合格圏内にいる。ここまでやるとは思っていなかった。友達との交流を最小限に留めてストイックに勉強に励んだのが良かっただろうと、「コミュ力不足を何とかしろ」とか言ってたのはどこのどいつだと言いたくなるようなことも言われた。だけど、言わなかった。そんな場面じゃなかったし、そんな気分でも無かった。

 面談が終わった後、保坂は「少しお子さんと話をさせて下さい」と母さんだけを教室の外に追い出した。そして机の上に腕を乗せ、少し身を乗り出す。保坂はどんな顔で僕を見ているのだろう。俯く僕の視界には、飾り気のない紺色のネクタイしか映らない。

「お前、最近どうした」

 ――意外と、よく見ている。もしくは僕が分かりやすすぎるのか。

「別にどうもしていません」

「嘘をつくな」

 瞬殺。「こっちを見ろ」と言われ、僕は顔を上げた。保坂はいつも通りの仏頂面。だけど心なしか、いつも陰険に尖っている目が少し心配そうに垂れ下がっている。

「先生に相談する気はないか?」

 ない。それを伝えるため、無反応という反応を返す。

「……お母さんや、友達には相談しているのか?」

「相談してどうにかなることではないので」

 不毛なやりとりの気配を察し、先手を打った。保坂が何か言いたげに口を動かし、だけど言わずに「そうか」と呟く。

「まあ、今の時期は気持ちが落ち着かないからな。ナイーブになるのは分かる」

 保坂が身を引いた。椅子の背もたれがギィと鈍い音を立てて軋む。

「ただな、そんな風に沈んでいると、手に入るものも手に入らなくなるぞ。お前には今、無限の可能性があるんだ。未来に目を向けて、ここは踏ん張れ」

 ねえよ。

 無限の可能性なんかない。僕は無敵でも最強でも何でもない。口だけは立派なくせに、本当にどうしようもない現実にはただひれ伏すしかない。そんなことにさえその現実を突きつけられるまで気づかなかった、中途半端に成長した中学生のクソガキだ。

「……そうですね」

 力なく呟く。少しの沈黙の後、椅子から立ち上がり「ありがとうございました」と言って教室から出る。外で待っていた母さんが僕を見て、「ずいぶん怒られたみたいね」と勘違いして笑った。


   ◆


 クリスマスイブの前日。

 僕はソンの部屋で勉強していた。部屋の主のソンはもちろん、ケイゴとカトウも一緒。姫が倒れてから僕たちの溜まり場はソンの部屋に戻った。しばらくぶりに玉座からアジトに戻った時はぎこちなかったけれど、今ではその違和感も薄れている。人は慣れるのだ。慣れたくないものにだって、すぐに。

 シャーペンが紙の上を走る音が部屋に響く。受験勉強も追い込みに入り、もう質問もあまり飛ばない。黙々と問題集を解き続けるだけ。それでも僕たちは自然と毎日のように集まっていた。みんな、目に見えない何かを変えたくなかったのだと思う。

「ヒロトさ」シャーペンをくるくると回しながら、カトウが僕に話しかける。「明日のデート、どこ行くか分かった?」

 メトロノームみたいに一定のリズムを刻んでいたソンの文字を書く音が、ほんの一瞬だけ途切れた。だけどすぐ何事もなかったかのように再開する。僕はカトウ以外の二人も意識して、少し声を大きくして答える。

「まだ。全然、教えてくれない」

「親父さんの車で行くんだろ? 遠いのかな」

「さあ。本当にノーヒントだから」

「ふーん」

 カトウがシャーペンの回転を止めた。そして持ち直したペンで僕を指し、ニカッと屈託なく笑う。

「ま、何にせよクリスマスイブに彼女とデートってのは羨ましいよ。このリア充め」

 明るい表現。僕は「親つきだけどな」と言い返す。クリスマスイブに彼女とデートする予定があるリア充らしい返事が出来ただろうか。分からない。そういえば最近、鏡をあまり見ていない気がする。

「プレゼントは買ったの?」

 今度はソン。「まあ、一応」と答えをはぐらかす僕を、カトウが「何買ったんだよ」と問い詰める。ケイゴが頬杖をつき、口を開いた。

「まさかペアリングとかじゃねーだろーな」

 声が出そうになった。

 発声はどうにか堪えた。だけど、寝耳に炭酸水をぶちこまれたような表情はどうしようもなくて、全く無意味だった。カトウがにんまりと笑い、上機嫌に喋り出す。

「そっかー。ペアリングかー。そっかー」

「なんだよ」

「別にー。いやー、ペアリングかー。そっかー」

 殺す。僕はシャーペンを机に置いて立ち上がった。カトウが「暴力反対!」とケイゴの後ろに隠れ、ソンが苦笑いを浮かべる。

「僕はいいと思うよ。ロマンチストなヒロトらしくて」

「……フォローしてんのかバカにしてんのか、どっちだよ」

「両方」

 悪びれもせずに言い放つ。カトウに肩を掴まれながら、ケイゴが口を挟んだ。

「なあ、もしかしてイニシャル……」

「言うな」

 僕はケイゴをじろりと睨んだ。さすが非童貞。的確に読んでくる。侮れない。

「この話はこれでおしまい。もう何も話さねえからな」

 強引に話を打ち切り、座り直す。カトウがケイゴの後ろからこそこそと出てきて元の位置に戻り、また無言の勉強タイムが始まる。カリカリ、カリカリ。固い音が狭い部屋を埋め尽くす中、ソンがノートと向き合ったまま口を開いた。

「ヒロト」

「ん?」

「姫に『待ってるよ』って伝えといて」

「あ、おれも」

「オレも頼むわ」

 僕は顔を上げた。参考書にメンチを切るケイゴ、涼しい顔で問題を解くソン、机に肘をついてペンを回すカトウ。誰も僕を見てはいない。だけど全員、心は僕を見ている。それが分かる。

 ――ありがとう。

 言いかけて、口を閉じる。それは違う。それじゃあ台無しだ。僕は誰も見ていないことを承知で笑みを浮かべながら、クールに、カッコよく言い切った。

「分かった」


   ◆


 上野の街は、クリスマスに興味がない。

 年末年始に大騒ぎするから、そこに向けて力を溜めている雰囲気がある。リースもツリーもサンタクロースも驚くほど見かけない。そんな街で生まれ育った僕も当然、クリスマスに興味がない。だからクリスマスイブ、コートのポケットにプレゼントを忍ばせてデート出向く自分なんて、そうなるまで想像もしていなかった。おかしくて、苦笑いが零れる。

 病院のロビーに着き、約二か月ぶりに姫と対面。倒れる前と全く変わらない――というわけにはやっぱり行かなかった。頬は痩せこけていて、ファーのついたカーディガンもベージュのニットも紺のロングスカートも何だかダボついているように見える。だけど「久しぶり」と笑う表情と朗らかな声はそのままで、僕はどうにか、笑い返すことが出来た。

 姫の父親と一緒に病院の駐車場に行き、車に乗り込む。僕と姫は後部座席。父親がエンジンをかけると、車内に僕じゃないヒロトの歌声が流れ出した。『君のため』。姫が僕にもたれかかりながら呟く。

「いい選曲でしょ。仕込んでおいたの」

「うん」

「ヒロトもこの曲と同じぐらい、はっきり言ってくれると嬉しいんだけど」

「……神様よりも好きだよ」

「適当すぎ」

 姫がくすくすと笑った。そして流れる曲の歌詞と同じように、僕の肩に頬を埋めて目を閉じる。僕は正面を向き、バックミラー越しに姫の父親と目を合わせる。月の王の視線にいつもの敵意はなく、それが、敵意をぶつけられるよりもずっと苦しい。

 姫から「イブにデートをしたい」と言われたのは、三者面談の翌日。

 十月の終わりに倒れてから、姫はずっと無菌室にこもっていた。『月帰還性症候群』を抑えるためには特殊な薬で魔力を高める必要があるけれど、魔力が強すぎると自分の免疫機能も破壊してしまう。抵抗力が落ち、何気ない病原菌が脅威になる。だから膨大な魔力を練る必要がある時は無菌室を使う。それが電話で聞いた説明だった。無菌室に入っている間の外出は極端に制限され、部屋に持ち込めるものも多くはないらしく、姫は「病原菌の前に暇で死にそう」とちょくちょく僕に電話をかけてきた。

 そんな中、姫からデートの申し出を受けた。一緒に行きたい場所がある。少し遠いから親の車を借りる予定で、許可はもう取ってある。そう言われた僕はすぐ、事態をおぼろげに察した。今の姫がデートなんて理由で簡単に外出できるわけがない。外出は出来る状態だったしても、父親や医師がそれを許さないだろう。だから、きっと、これは――

 最後の――

「ヒロト?」

 名を呼ばれ、僕はハッと我に返った。姫が甘い声で話しかけてくる。

「どうしたの。ぼーっとして」

「……ごめん。考え事してた」

「ひどい。デートなんだから、わたしに集中して」

 姫が僕の顔に手を伸ばし、クイと強引に自分の方を向かせた。

「今日はね、わたしの生まれ故郷に行くから」

「故郷?」

「そう。小学校を卒業するまでいたところ。まあ、神奈川だし、故郷っていうほど遠くはないけど」

「そんなところに行ってどうするの?」

「昔の友達とかに彼氏を紹介するの」

 友達に紹介。桜色の唇を柔らかく歪め、姫が悪戯っぽく微笑んだ。

「自慢の彼氏だって言いたいんだから、ちゃんとしてよ」

 姫が僕の顔から手を離した。そしてまた僕の肩にもたれかかって目を閉じる。「少し近づきすぎだろう」。運転席からそんな言葉が飛んでくるのを期待してバックミラーを覗いたけれど、月の王はもう、僕のことも姫のことも見てはいなかった。

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