5-4


 一曲目、『1000のバイオリン』。

 姫が一番好きだと言った曲。僕たちの始まり。不忍池での幻想的な出会い、手探りで心に触れようとした初デート、二人乗りの自転車で駆け抜けた夜の街を思い返す。粒子となった音が夜空に散らばり、月の光を押し返すイメージを胸に抱き、スピーカーから流れる歌声に負けないよう声を目一杯張り上げる。

 激しいサウンドが世界を揺らす。小気味良いビートが心を震わせる。スタートからクライマックスだ。祈りや願いなんてチンケなものを挟んでいる余裕はない。

 歌え。

 歌え、歌え。

 歌え! 歌え! 歌え!

「君!」

 足元から叫び声が聞こえた。ちらりと下を覗き、僕を見上げる二人の制服警官を見つける。

「なにをやっているんだ! 止めなさい!」

 ――うるさいな。こっちは今、最強の敵と戦ってる真っ最中なんだ。邪魔すんなよ。僕の世界にノイズを挟むな。

 制服警官の片方が校舎の中に入った。僕は後ろを振り向く。身体を押し付けてペントハウスのドアを抑えるみんなが「任せろ」という感じで笑い、僕は「任せた」という感じで笑い返す。そしてまた月を睨み、歌声を夜空に響かせる。

 二曲目、『チェインギャング』。

 この曲をメドレーに加えるのは少し悩んだ。歌っているのがヒロトじゃないから。それでも入れたのはやっぱり、僕にとって強く印象に残っている曲だから。騎士団攻撃の要、武闘家ケイゴのテーマソング。夜の上野公園で繰り広げられた死闘。振り上げた拳が鎖を砕く音が鼓膜の内側で、静かに、だけど力強く再生される。

「止めろ! 降りて来い!」

「鍵を開けなさい! 今なら大事にはしない!」

 地上と背後から、叫び声が重なって僕に届く。背後からはドンドンとドアを激しく叩く音も聞こえる。「開けるわけねえだろバーカ!」。ケイゴがドア越しに放った悪態が気持ちよくて、僕はつい、小さく笑ってしまう。

 三曲目、『青空』。

 世界を分かつ国境線。騎士団の頭脳、魔法使いソンが人生を通して翻弄されてきたもの。賽銭箱に投げ込まれた一元硬貨を、祀られている雲の上の人たちはどう受け止めたのだろう。案外、喜んでくれたかもしれない。まだまだ問題はあるけれど、かつて憎しみ、殺し合った人々の末裔が参拝に訪れるぐらいには、世界は平和になったのだから。

「いい加減にしなさい! 音楽を止めろ!」

 足元から届く声が、拡声器を通したそれになった。ふと見ると、いつの間にか地上にいる人間が増えている。応援部隊が到着したのだろうか。そろそろ、危ないかもしれない。

「もうすぐ鍵が来るぞ! 諦めてドアを開けなさい!」

 屋上側の警官がドアを叩きながら投降を促す。ソンが「鍵挿したら電流流れるようになってるんで気をつけて下さいね!」と大嘘を吐く。ドアを叩く音が止まる。僕の口元にまた含み笑いが浮かび、歌声が少しブレる。

 四曲目、『夜の盗賊団』。

 気の合う仲間同士だって、みんなが好き勝手に走ったら必ず誰かが置いていかれる。それでも騎士団のサポート役、盗賊カトウは走った。無様に息を切らし、茹で蛸みたいに顔を真っ赤にしながら、自分を信じて走った。そして僕らは今夜、一緒にいる。それはきっと奇跡だ。そういう、当たり前の顔をしてしれっと居座る奇跡をいくつも積み重ねて、僕たちはこれからも生きて行くのだろう。

「何が目的だ!」

 拡声器を通した声が、地上からキンと鼓膜に響く。

「そんなことをして、格好いいとでも思っているのか!」

 何気ない煽りが、僕の核心に触れた。僕は思わず歌を止めて反論しかける。だけどそれより早く、ついに鍵の開けられたドアを三人がかりで必死に抑えているカトウから、反論の声が上がる。

「思ってるに決まってんだろ!」がむしゃらな叫び声。「おれたちは、自分がカッコいいと思うことしかやらねえよ!」

 ――サンキュー、カトウ。僕は心の中でカトウに礼を告げ、歌に意識を研ぎ澄ませた。次は、僕の一番好きな曲。軽快なイントロの最中に大きく息を吸い、月まで届く声を出す準備を整える。

 五曲目。

 ――『月の爆撃機』。

「無駄な抵抗は止めろ!」

 屋上のドアを開けようとする警官の声が、凍える夜風に乗って僕の耳に届く。言葉が頭蓋骨の中でぐわんぐわんと回り、やがて月の使者のそれとなって脳内で再生される。お前が何をしても意味はない。月の姫は在るべきところに帰る。無駄な抵抗は止めろ。無駄な抵抗は止めろ――

 ――うるさい。

 たった今、歌っただろ。

 ここから先には通さねえんだよ。

 理屈も、法律も、原則も、学説も、論理も、公理も、定理も、体系も、常識も、良識も、俗識も、教義も、戒律も、信条も、教訓も、因果も、宿命も、運命も――

 全部!

 腰の後ろで組んでいる手に力を込める。横隔膜を上下に揺さぶり、力の限り声を吐き出す。夜空に放った声が耳から戻り、また次の声を出す力となる。永久機関の完成だ。世界が滅びるまでだって、このまま歌い続けてみせる。

 自分の声以外の音が僕の世界から消えていく。冷たい夜風の囁きが、足元と背後の喧騒が、そして、僕じゃないヒロトの歌声とその仲間たちの演奏がフェードアウトして溶ける。暗闇の中、僕は僕を嘲笑うように煌々と輝き続ける月と対峙し、力の限り、心の限り、想いを乗せた歌を放つ。

 姫の屈託ない笑顔が、丸い月の上に被さって浮かんだ。

 ――一人?

 作り物みたいに白い指。小人の足跡みたいなえくぼ。思い返せば、あの瞬間から僕は既にやられていた。惚れた弱み。覆しようのない上下関係。でも僕はそれで良かったのだ。どっちが上だろうと下だろうと、一緒に居て同じ時を過ごせれば、それで。

 ――責任取ってね。

 悪戯っぽい口調。女は十六歳から、男は十八歳から。三年後の僕はどういう人間になっているのだろう。大人になるにつれて現実と限界を知り、つまらない人間になるんじゃないかと考えたこともある。でも今は、そんな気はしない。彼女がいるから。彼女を守らなくちゃならないから。そのためにはきっと、限界なんて感じている余裕はない。

 ――わたしは今好きな人と一緒にいるんだなって、ところどころで感じる。

 腕に感じる柔らかな感触。しみじみと語られる実感。僕もそうだった。自分が心底惚れている人間と一緒にいることを、いついかなる時も感じていた。でもそういえば、あまり彼女にそれを伝えたことはないかもしれない。今度会ったら絶対に言おう。君といることそれ自体が幸せなんだと、絶対に。

 ――ヒロトたちはね、ここがすごく強いの。

 切ない声。寂しげな表情。僕は強いのだろうか。むしろ、逆だと思う。僕は弱いから、人と触れ合うのが怖いから、誰にも声をかけられないスピードで走って来たのだ。本当に強いのはそんな僕を捕まえ、足を止めさせた彼女だ。彼女のおかげで僕も強くなれた。人と対話する勇気を、手に入れることが出来た。

 思い出がぐるぐると頭の中を巡って回る。聞いた言葉、見た景色、食べた物、嗅いだ匂い、触れた感触、全てが実感を伴って蘇る。出会ったのが四月の始まり。今は十二月の終わり。およそ九ヵ月、二百七十日程度の出来事。

 ああ。

 楽しかったなあ。

「ヒロト!」

 世界に、雑音が戻った。

 振り返る。フェンスの向こうでドアを突破した警官とみんなが格闘している。カトウは捕まって羽交い絞めにされ、ソンは必死に逃げ回り、ケイゴは正面から殴り合っている。手の空いている一人の警官が僕に向かって突撃し、動物園の猿みたいにフェンスを掴んで何事かを喚きたてた。僕は再び月と向き合い、そして、夜空に輝く月の輪郭が滲んでいることに気づく。

 涙を拭って歌う。だけどまたすぐに視界がぼやける。いつの間にか、スピーカーから流れる音は止まっている。それでも歌う。情けなく震える涙声で、ガイドを失ってリズムも音程もめちゃくちゃな歌を歌いながら、しみじみと思う。

 ――カッコ悪ぃ。

 ノイズが消せない。世界が正常に機能しない。ひっくひっくとしゃくりあげ、吐き気をこらえながら絞り出す声は、もう歌にはなっていない。おもちゃをねだる駄々っ子。悪戯を叱られた幼稚園児。月の使者もきっと僕を指さして笑ってる。「威勢よく出てきて、なんだあいつ」。そんな風にバカにしている。

 背後から、フェンス扉が開く音がした。

 僕は慌てて振り返り、ぐらりとバランスを崩した。転落しかけた僕の身体を若い男の警官がグイと引き寄せる。そのままコンクリートの上に僕の身体をうつ伏せに倒し、背中に乗り、両腕を抑えながら叫ぶ。

「大人しくしろ!」

 首を持ち上げ、夜空を仰ぐ。遥か彼方で輝く月を見つめる。涙の膜に月光が当たって広がり、万華鏡を覗いたような幻想的な景色が目の前に広がる。それはあまりにも圧倒的で、美しくて、ちっぽけな僕を支えていた何かを、ポキポキとあっけなく圧し折っていく。

 僕は、叫んだ。

「あーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 月の王から姫が帰還した旨を聞いたのは、翌日の朝のことだった。

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