レベル70『静寂たる』サンデー7
「ーーーー」
「随分と遅かったじゃねえか、サンデー」
いるのは、くたびれた男だ。
不安に押し潰されそうになりながら一晩中駆け回ったサンデーよりも、くたびれている。
男が薄暗い廃屋の一角で腰をかけている、今にも朽ちてしまいそうな木箱よりもボロボロだった。
ボサボサに伸びた髭にはしらみが踊り、元が何色だったのかもよくわからないほどに汚れた服にはあちこちに穴が開いている。
「ーーーー」
「なあ、いつものやつやらなくていいのかい?そこまでだ、ってやつだよ」
目が、死んでいる。
深い深い虚無はなく、空まで飛び上がれそうな楽観もなく、ただ灰のように死んでいた。
男は、くたびれている。
燦然と輝く悪辣な奸智はなく、恐るべし力の威すらない。
ふらふらと揺れる紫煙には、煙草とは違う香りが混ざっている。
恐らくは、麻薬のたぐいか。
「まぁ……必要ないもんな、もう」
男が座り込む廃屋の中は、すでに全てが終わっていた。
男の足元には見慣れた金髪、鼻には嗅ぎ慣れた鉄錆の臭い。
倒れ伏す女の姿を、サンデーが見間違えるはずがなかった。
それだけの時を過ごしてきた人だった。
「どうして、とは聞かない」
「そうだな、今さらだ」
男には、『蛇蝎閻味』のアンリには、
サンデーから見れば逆恨みでしかないが、ありとあらゆる邪智暴虐を果たす理由がある。
初めて会った頃のアンリは、颯爽とした男だった。
同門の先輩だったアンリは一を聞いて十を知る、真の天才だ。
落ちこぼれだったサンデーは、一を聞いてもわからない。
毎日毎日、一に届くように必死に技を磨くしかなかったのだ。
そんな彼が、とサンデーが考えるには、あまりに時が足りない。
魔王の尖兵となり、顔を合わせるたびに「こんな事を同じ人間が考えられるのか」と思うほどの醜い策を弄してきた。
だが、それでもアンリはアンリだったはずだ。
颯爽として傲慢で、だが自信に満ち溢れたアンリが。
大した障害にもならないチンピラを雇い、ちんけな罠をしかけ、こうしてくたびれて、落ちぶれた姿をサンデーの前に晒している。
「なあ、サンデーよう」
弱さを、見せる男ではなかった。
それがこんなにも弱々しく、すがるようにして語りかけてくるなんて。
「あなたと話す事など、一つもない。問いは一つだ」
それは、サンデーの失われてしまった愛とは別の何かを、どうしようもなく刺激していた。
自分でも思ってもみなかった、アンリが人類を裏切り、魔王に組した時ですら、こうはならなかった。
「娘はどこだ」
「ひひっ」
初めて見せたアンリの笑顔は、それはそれは醜い顔をしていた。
唇をひっくり返し、猿のように見える歯列は、汚ならしい黄色と、所々の抜けがある。
肩で風切る色男だったアンリが、どんどん消えていくのが、サンデーにはひどくたまらなかった。
「お前さんはいい奴さ。魔王軍にいた俺相手でも、どっか本気じゃなかった」
「今の僕は、あなたにかける情けなど」
「まぁ待てよ、慌てんなよ、サンデー。どうせもうすぐ終わるんだ。ちっとばかし聞いてくれてもいいだろう?」
俺はな、と語るアンリは、ひどく小さい。
背を抜かしていたのには、気付いていた。
だが、傲慢で、うつむく事などなかったアンリは、いつだって大きな男だったのだ。
それがこんな老いを、
「俺はさ、病気なんだよ。もう医者にも手の施しようがないって匙投げられるやつさ」
自分の病を語る男ではなかった。
「だから、最後はサンデー。お前さんだ。娘を返して欲しいなら、俺にお前の最高の一撃をくれよ。一発で終わっちまう、とびっきりのやつをな」
「そんな理由であなたは」
「そんな理由しか残ってないんだよ、俺には。もう俺は拳士じゃねえが、病で死ぬのだけはごめんだ」
立ち上がる姿すら弱々しく、足元の妻を乗り越えるのにもふらつく有り様だ。
怒りと、悲しみと、ただどうしようもない虚しさだけが、サンデーの中にあった。
「その前に娘はどこだ」
「安心しなよ、地下室でぴんぴんしてるぜ。飯だってしっかり食ってやがった。お前の娘らしいな」
「そうか……なら、容赦はしない」
「おう、どんと来やがれ」
妙な事に、両手を開いて、こちらを招き入れるアンリの姿に、サンデーは昔を思い出していた。
遠慮容赦なく、力一杯殴りかかるサンデーを軽々と蹴り倒すアンリは、性格こそ歪んでいたが、それでも不思議と面倒見がよかったのだ。
彼を慕っていた若い連中は数知れず、サンデーだってその一人だった。
そんな彼が、こんなにも惨めに生きるのならば、妻を殺された怒りは一度置こう、とサンデーは決める。
今、サンデーが出来る最大の一撃を餞に。
一歩目は、柔らかく。
いっそゆっくりとした踏み込みは、しっかと床を噛み締め、常人に比べれば圧倒的なステータスとは違う力で自分の身体を前に進ませる。
「なあ、サンデー。お前はすげえよ」
二歩、距離はまだ遠く。拳は届かず。
だが、意思の中にある拳打の道は見えている。
「お前が一歩踏み出すたび、鳥肌が立つんだ」
三歩、変化はない。
ここからどんな変化があろうと、届かせてみせる距離。
「大した奴さ、お前は。ジジイになったお前が相手でも、最盛期の俺だって敵いやしないだろう」
四歩。踏み込む力で、大地が揺れた。
あまりに脆い床板は支えにならず、遠当ての絶技により足場と成す。
絶命必殺の踏み込みは、ただの余技に過ぎず。
全身連動の最速の一撃は、言葉よりも
そのあまりの衝撃は、人の柔らかな肉をただの液体へと変化させるほど。
余震生じぬ一撃は、見事な円をアンリの胸に空けてみせた。
「おさらばです、師兄」
その刹那は、どこまでも遠い郷愁と、
「だが、勝つのは俺だ。『蛇蝎閻味』のアンリだ!」
ただひたすらに、その瞬間を待ち続けた拳鬼、最後の一撃が交差した。
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