この世の支配者、鈴木

カスイ漁池

第1部 俺たちの支配者、鈴木

プロローグ

河川敷では既にすべての物語が始まっている

 

 家出をするときは「探してみなよ」と置き手紙に書くべきだ。「探さないでください」では弱気が窺えるし、かといって何も残さなければ意志が伝わらない。だから、少し挑発的なくらいの態度を取ったほうがいい。


 アキがもともと細い目をさらに細めてそんなことを言うので、俺は返す言葉に悩んだ。一理あるとは思ったが、その裏の本意を探るには抵抗があった。


「なんだよ、それ」

「別に家出したいとかそういうのじゃないからね」


 と、次の質問を先取りしたかのように、アキは軽く会話を均す。

 いつもの河川敷だった。学校の帰り、二人で足を投げ出してベンチに座っている。昨日降った雨のせいで川は普段より大きな音を立てていた。初夏のため暮れるにはまだ早い。高い位置から太陽の光が注がれており、川面のちらちらと反射するさまで時折目が眩んだ。対岸に見える景色は十七日前と同じだ。白いガードレールがあり、コンビニがあり、その奥の幹線道路には車やら自転車やら、歩き煙草をするマナーの悪い大学生らしき男やらが、通っている。

 なんだか溜息が漏れそうになり、堪えているうちにその男が橋を渡ってこちらへとやって来ていることに気がついた。彼はアキがいるとも知らず、河川敷の歩道を、煙を吐き出しながら進んでいた。


「ねえ、お兄さん」


 アキの呼びかけに反応はない。男の耳にはイヤホンのコードが伸びていて、音楽でも聴いているのだろう、声が届いていないようだった。俺はその後の光景を想像し、目の前を通りがかった男の手首を咄嗟に掴んだ。突然腕を引っ張られた男はバランスを崩しかけ、踏みとどまった後、満面に不機嫌を浮かべた。手が振り払われる。引きちぎるようにイヤホンを外した彼は俺をじろじろと睨み、恐怖や不審よりも怒りが勝ったのか、ゆっくりと詰め寄ってきた。


「何すんだよ」

「何って」


 俺が言い淀むと、アキが静かに訊ねる。


「お兄さんはトーマス?」

「は?」

「もし、お兄さんが機関車トーマスじゃないなら、ゴードンでもそうなんだけど、モクモク煙を吐き出しながら歩かないで欲しいんだ。煙草、苦手でさ」

「何、言ってんの、お前」


 男の眉がひそめられる。逆上まではほど遠いが、年下の人間に注意されたのが不快だったに違いない、示威するように息を吸い込んだ。煙草の先の赤が強くなる。アキの言葉に従う気配は微塵もなく、俺は立ち上がってもう一度、男の手首を掴んだ。


「いいから消せって。アキになんべんも言わすな」


 男の顔にあった険がわずかにかげる。熱意に打たれたわけではないのは明白で、代わりに滑り込んできたのは不可解の色だった。もしかしたら俺の声に焦りが滲んでいて、それを感じ取ったのかもしれない。とにかく、男は勢いをなくし、それから視線をアキのほうへと動かした。

 その瞬間、男の顔面が蒼白になる。煙草が口元から落ちる。地面に火の粉が跳ね、灰が飛び散る。どこかの動画サイトで配信された事故映像を思い浮かべたのかもしれない。男は震える声でアキのことを「鈴木」と呼び、「様」と付け足した。滑稽なまでの豹変に俺は悲しくなり、手を離した。それから先は目の前で繰り広げられる真剣な茶番を眺めることしかできなかった。


「すみません、すみません」と男はすがりつくように頭を下げている。「まさか鈴木様だとは思っていなくて、ああ、あの、すみません、こっ、殺さないでください」

「……僕は殺さないよ」

「ああ、ああ、ありがとうございます、今後は気をつけますから」

「じゃあ」アキは悪戯っぽく微笑み、手を差し伸べた。「罰金」

「え」

「千円」

「あ、はい、はい、ありがたく差し上げます」


 男はジーンズの尻ポケットから黒い革財布を取り出し、札を摘まもうとした。が、その手が震えているものだからうまくできないでいる。それがアキに対する抵抗や侮辱と看做されるのではないかと勘違いしたらしく、謝罪の言葉を繰り返した。


「すみません、うまく掴めなくて、違うんです、いやだとかそう言うんじゃないんです、すみません」


 ようやく、男は札を摘まむことに成功し、たったそれだけのことで心底安堵したかのような表情になった。千円札が差し出される。アキはじっとそれを見て、小さく溜息を吐き、首を振った。


「冗談だよ、こんなカツアゲみたいなことするわけないじゃない」

「え」

「お兄さん、もう行っていいよ。煙草は喫煙所で吸ってね」

「あ、は、はい、気をつけます」


 男は追従笑いとともに何度も感謝の言葉を述べ、そして、足早に背後の公園のほうへと去って行った。その途中、ちらちらとこちらを振り返っていたが、アキはその光景から目を逸らすように川を見ていた。この世の支配者といえど、自然現象には介入できない。水は何も知らずに流れていて、それがとても尊いものであるかのようにアキは薄く笑った。


「まだ慣れないなあ」


 去年、高校一年の夏、一緒に原付の免許を取ったときのことを思い出す。中古のスクーターに跨がったアキは同じような発音で同じことを言った。だが、俺にはそこに含まれている感情が当時と今では正反対のもののように思えてならなかった。少なくとも前向きな意志だとか浮ついた心はなかった。

 風が吹く。朝から寝癖のついたままの、アキの黒髪がそよぐ。


「なあ、アキ、支配者になって、どうよ?」


 俺の質問にアキは一瞬呆けた後、苦笑し、頭を掻いた。


「どうって、もう二週間以上経ってるのに」

「なんか急に気になったんだよ」


 嘘だった。ずっと頭の中央にあった質問だ。それを今の今まで訊けずにいたのは、やはり、怖かったからなのかもしれない。地球の人口が七十億人いて、八王子の高校生に白羽の矢が立つなんて想像していなくて、たとえ恐怖がなかったとしても、少なくともひたすらに戸惑っていたことは間違いがなかった。しかも、それが、小学校からの友人だというのだから、笑える。本当に笑える。笑うことしかできない。笑うくらいが俺にできることだったから、そういった質問は避けてきていた。

 でも、たぶん、真っ先にぶつけるべき疑問ではあったのだろう。そのせいか、アキは少し安心したかのように頬を緩めて、「そうだなあ」と鷹揚に言った。


「支配者ってさ、それほど自由ではないんだよ。むしろ逆なのかもしれない。支配者こそが誰よりも縛られちゃうんじゃないかなあ。もし、僕が望んで、みんなに望まれてそうなったのなら別だったのかもしれないけど」


 惰性で読んでいる週刊漫画のあらすじを説明させられた、そんな口調だった。要点が掴めない内容だと自覚しているのか、アキは続きをごまかし、男子大学生が残していった吸い殻を拾い上げた。飲み終えたコーヒーの空き缶を差し出すとアキはなぜだか嬉しそうにその中に煙草を放り込んだ。


「なんか有効活用しようかなとは思うんだけど、ケイスケはどう思う?」

「そのままでもいいんじゃねえの?」

「難しいことを言うなあ。そのままでいるのが何より大変なのに」

「じゃあ、これからドンキに行って王冠とマントでも買うか」

「絶対にいやだよ」


 アキは鼻で笑い、「帰ろう、帰って古典の宿題やろう」と言った。そのあっけなさに一瞬世界が遠のく。俺のクラスではまだその宿題は出ていなかったが、担当教員が同じであるため、従うことにした。支配者からの命令であるとは考えていない。考えていないが、心のどこかにその気持ちが発生することが怖くて必死に締め出した。


「世直しでもしようか」と提案されたのはその三日後のことだった。都心から来た美容師に切ってもらったという髪はきっちりとセットされていて、いつもついていた寝癖はなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る