3-3


 キャンプ場にはほどほどに人がいた。ほどほどにしか人がいなかったとも、言える。朝早く下されたアキの〈命令〉が尾を引いていたのかもしれないし、盆休みにはまだ早かったからなのかもしれない。受付はいちばん顔が割れていないだろうナコに任せたのち、俺たちはテントの設営にかかった。

 ナコは初めての経験らしく、四苦八苦し、うるさかったが、俺とアキは何度か経験があったため、テントの設営はそれほど手間取らずに終わった。持参した折りたたみの小さな椅子に腰掛けて一息吐いたところでアキがしみじみと言った。


「なんか、久々だね、こういうの」

 その感嘆に俺は頷く。「いつ以来だ?」

「いつ以来だと思う?」

「だから、それを訊いてるんじゃねえか」

「ねえねえ、キャンプって焚き火とかするんでしょ? あたし、着火したいんだけど」

「薪買ってねえからやらねえよ。まずメシ食おうぜ」


 夕食はレトルトカレーで済ませた。それでも、済ませたという簡素な言葉で表せるほど質素なものとは思えなかった。たとえ米が牛丼屋で購入したものであったとしても、大自然の中で食べる夕食はいつも以上に美味に感じられた。

 その後、ナコたっての願いで俺たちは薪を調達し、焚き火をすることになった。ぱちぱちと音を立てて弾ける火種に、なんだか穏やかな気分になる。ナコは自販機で購入したビールを飲み、俺はコーラの缶を空けた。写真も何枚か、撮った。火を囲むと何でもさまになるから不思議だ。俺とナコはしばらくはしゃいでいたが、朝からインタビューを受けていたアキは疲労が色濃かったのか、一足先にテントに潜っていった。


 キャンプ場には同じような灯が点在している。馬鹿騒ぎをする客はおらず、普段身の回りにある喧噪など欠片もなかった。誰もが自然に溶け込もうとしているようだった。その静寂に耐えきれなかったのか、薪を燃やし尽くす前にナコが「もう限界」ともう一つのテントに入っていった。

 俺は電源を切ったスマートホンを一瞥し、それから思い切り仰け反った。空には星が輝いており、そのどこかに宇宙船がある。そう思うと妙な気持ちになった。

 一本、また一本、薪を火にくべる。携帯電話の電源を切っているため、時間を知る術はなく、どれだけ時間が経ったのか、わからない。眠気は感じなかった。テレビ局で眠ったのは二時間ほどだったが、非日常の興奮が未だ循環しているのだろう。俺はぬるいお茶を飲みながら、しばらく火を見つめた。


 尿意を感じたのは火の勢いがすっかり弱まった頃だ。

 俺は歯ブラシを用意してトイレへと向かった。水場に隣接するトイレでは硬質な音が絶えず鳴り響いている。走光性だ。羽虫がライトに体当たりする音はかえって静けさを際立たせていた。おそらく、寝るには少し早いのだろう、周囲に人影はない。俺は用を足し終えると誰もいない水場に寄り、歯ブラシをケースの中から取りだした。

 声をかけられたのはそのときだった。


「遠藤ケイスケ、だな」


 突然の出来事に背筋が痛くなるほど驚いた。今の今まで誰もいなかったというのに、振り返ると長身の男が立っている。キャンプ場には似つかわしくない黒のスーツで、見るからに堅苦しい顔をしていた。短髪の、三十代から四十代の男は胃の底を震わせるような低い声で、もう一度、確認をした。


「お前は、遠藤ケイスケだな」

「あ、ああ、そうですけど」どうにか返し、それから、合点する。「ああ、アキのこと? 今なら寝てるから、肩、触り放題ですよ。なんなら早口言葉もいいの知ってますけど」

「必要ない。それに、明日の十二時からだろう」


 羽虫の音が強くなる。息苦しさを感じる。遠くで笑い声が上がるが、別世界のもののように聞こえる。男はスーツの上からでもわかるほどに屈強で、その体躯は羽交い締めにされたらどんな抵抗も無意味であると悟らせた。何より、この状況では逃走などできるはずもない。見知らぬ山の中、誰もいない水場、背後にスペースはなく、テントではアキとナコが眠っているのだ。


 ……逃げる?

 そこでようやく、俺は自分が抱いている感情を自覚した。恐怖だ。見知らぬ人間に名を呼ばれたというだけではない、もっと強い恐ろしさを感じていた。

 だが、男は襲いかかってくるわけでもなく、その場で直立したまま、言った。


「私は大崎おおさきという」

「……え」

「お前の担当だ」

「担当?」

 大崎なる男はその疑問には答えず、続けた。「姿を現す方針にはずっと反対だったが、少し事情が変わってな」


 その受け答えで、俺は彼が何者か、うっすらと理解した。

 政府の人間だ。

 そう考えるとわざとらしいスーツ姿さえもなんらかの意図を漂わせているように思えてくる。きっと示威行動の一つなのだろう。ビジネススーツは組織的統制の象徴だ。規律と異様さを強調するには十分な効果を持っていた。

 唾を飲む。無理矢理に飲み込んだ唾液はどこか硬い感触がした。


「遠藤ケイスケ、一つ聞こう。なぜ、鈴木明英はあんな〈命令〉をした?」


 鉄面皮の大崎には冷たい威圧感があり、汗が背筋を伝った。射貫くような視線に、俺は考えをまとめようとする。だが、ただでさえ説明しにくいアキのことなのだ。正直に言っても目の前の男が納得するようには思えなかった。


「どうした? 答えられない事情があるのか?」

「……笑うなよ」

「言ってみろ」

「アキは宇宙人を救おうとしてるんだよ。地球に来た宇宙人たちは何か困っているらしくてさ」

「それは違う」

「え」


 鋭い否定に頭が真っ白になる。困惑でも嘲笑でもない反応など予想していなかった。俺は何かを訊こうとして、その何かすら思いつかず、口をかすかに開けたまま、大崎を見つめる。光が当たっているというのに、彼の顔は暗く、影が貼りついているようでもあった。


「正確に言えば、その意志があったとしても別の目的が念頭に置かれている、と予想されている。そうでなければ鈴木明英はこんな〈命令〉をしない」


 信頼感や過小評価とはまた違ったニュアンスを持った響きに、俺は口を結ぶ。

 大崎の口ぶりは一部で宇宙人の目的が共有されている事実をほのめかしていた。だが、彼を迂闊な人間と評価するのはあまりに安易すぎる。きっと、俺がどのくらいの知識を持っているかを把握しているに違いない。その上で反応を見ているようにも思えた。


「鈴木明英は何をしようとしている?」

「……あんたもナコと同じことを言うんだな」

「横谷ナコか? 彼女は何と言っていた?」

「アキは何か隠し事をしてる、って」


 大崎のまぶたがぴくりと動く。だが、その動きもかすかで、ややもすると気のせいだったのではないかと疑いたくなる程度のものだった。


「その可能性は十分にある。なにせ、現状、宇宙人と顔を合わせたのは彼しかいないからな。私たちにも伝えていない情報があってもなんらおかしくはない」

「それを俺たちには話してるかもってことか」

「ああ。どうだ、何かあるか?」


 目を逸らし、考え込む。

 この大崎という男を信用していいものだろうか。勝手に政府の人間だと断じているが、見当違いという場合もある。正直、政府も宇宙人も俺にとっては似たようなものだ。大きな力で俺の行動を左右するが、おそらく直接的に危害を加えようとはしない。だが、そうでなかったとき、俺たちにどんな不利益が降りかかるか、想像するのもぞっとした。


「なあ、大崎さん。あんた、政府の人間だよな。日本の、政府」

「厳密に言えば違うが、お前の視点ではそうなる」

「それを証明できるものってある? もし、あんたが厄介な連中だったら何も教えたくないんだ」

「俺が厄介な連中だったら既にお前らは確保している。それが何よりの証明じゃないか?」

「油断を誘うためかもしれないし、他に何か事情があるかもしれない」

「では、どうする? 名刺でも見せるか? そんなものは容易に捏造できる。その気になれば公的な証明書も偽造できる世の中だぞ」


 俺はやりづらさに唇を噛んだ。

 たぶん、この男は俺より一枚上手だ。

 大崎の言うとおり、生産手段さえ確立していれば自分の所属などいくらでも偽れる。この場で精査できる方法などない以上、何を目にしても信頼に値しないのは確かだった。


 小さく息を吸う。

 この場をやり過ごすことは簡単だ。大声を出せば、そうでなくても無言を貫いていればいずれ人が来るだろう。

 だが、俺にはその選択が正しいとは思えなかった。「彼ら」はきっと俺よりも多くの情報を持ち、危機管理にも長けている。大崎が本当に政府に関係する人間であるのなら、邪険に扱ったところで得はないのだ。

 迷っている暇はない。

 俺は暗がりを一瞥し、細く長い息を吐いた。

 モノを見て信頼度が上下しないのであれば、別の何かを提示してもらうしかなかった。


「……じゃあ、仮にあんたが政府の人間だとして、一つ、訊くよ。あんたらの目的はなんだ? そうやってアキを管理して、何をしようとしてるんだ?」

「管理?」と、大崎は一音一音噛みしめるように発音した。「お前は大きな勘違いをしている。管理されているのは私たちのほうだ。私たちがしていることは手助けと『問題を起こさないでくれ』というお願いくらいしかない」

「管理してんだろうが。アキにどんな〈命令〉をしたか、とかいちいち報告させてよ、監視までしてんだろ?」

「それは必要だからだ。支配者の周りにはあまりよろしくない人間も集まってくる。私たちが排除していなければ彼は学校になど通えるはずがなかった。お前は知らないだろうがな」


 大崎の声色は極めて平坦だった。子どもだからと侮る調子はなく、淡々と事実だけを語っている。だが、俺にとってはむしろその無感情さが腹立たしかった。どこまでも客観的に無知を突きつけられているようにも感じられた。

 歯を食いしばり、痛いほどに手を握る。

 そこで大崎は静かに言った。


「まあいい。質問には答えておこう」

「あ?」

「目的を聞きたいのだろう? 私たちも一枚岩ではないから組織の方針とはまた違うがな、少なくとも私は鈴木明英をアメリア・スミスにはしたくないと考えている」


 宇宙人が強いた「支配者制度」最大の加害者であり、被害者であるアメリカ人女性の名だ。三代目支配者である彼女は死者を出す事故を引き起こし、多大な批判を一身に受けた。脳裏にその事故映像が甦り、俺は舌打ちをする。

 その音にすら反応せず、大崎は岩のような表情を崩さぬまま、続けた。


「ついでだ。おそらく我々以外には知られていない情報も教えてやろう」

「……いいのかよ、そんなことして」

「部外秘とはいえ、知られたところで問題はないものだ。お前に信用されたいとは思っていないが、それでも何か情報があるなら訊いておきたいからな」

「で、なんだよ」

「お前は『強い〈命令〉』と『弱い〈命令〉』に関することを鈴木明英から聞いたか?」


 俺は固まる。

 知らない単語だった。


「その様子だと耳にしたことはないようだな」口を挟む間もなく、大崎は説明を始める。「『弱い〈命令〉』は鈴木明英が持っている支配権のことだ。他人の行動を歪めるが、精神までは掌握できない。一方、『強い〈命令〉』は物理法則そのものを――」


 そこまで言ったところで大崎は一度言葉を句切った。キャンプ客が近づいてきたのか、と俺は周囲に目を配る。遠くから人の声がしたもののそばには誰もいなかった。


「どうかしたのか?」

「ああ、いや、言葉を間違えたんだ。すまない」大崎は面倒そうに言い直す。「『強い〈命令〉』は我々が物理法則と信じ切っている現象にも介入する。触ることもなく木の枝を折ることも可能だし、水を空へと落ちるようにすることもできる。あくまで『らしい』という話だがな」

「ファンタジーにもほどがあるな」

「まあ、そこは問題じゃない。私が今、問題としているのはその『強い〈命令〉』は人の記憶や感情にまで踏み込むということだ。鈴木明英はそこに興味を示していてな」

「アキが?」


 原付に乗って移動していたときの会話が甦る。アキは母親から一時的に自分の記憶を消す、などと言っていた。俺はくだらない冗談だと判断したが、必ずしも虚言ではないらしい。

 だが、なぜアキはそんなことに興味を抱いたのだろう。消したい記憶か、あるいは反対に作り上げたい感情があったのだろうか?

 考えても答えが出る気配などなく、俺は大崎に続きを促した。


「もちろん、思春期の高校生だ。心の底の部分から誰かを操りたい願望があっても不思議ではない。金銭的なことや性的なことに用いたとき、罪悪感は薄まるだろうからな」

「アキはそんなことしねえよ」

「単純に可能性の話だ。だが、鈴木明英の思考はもう一歩奥にあった。彼は私たちにこんな疑問を溢した。……なぜ、わざわざ『強い〈命令〉』と『弱い〈命令〉』があるのだろう、とな。宇宙人の享楽説は未だ根強いが、それならこんな不自由な支配者を生み出しはしないはずだ。こんなもので彼らは面白いと思うだろうか」

「それは」と俺は口ごもる。「刺激的すぎるのはもう飽きた、とか」

「嗜好の問題、というのは確かに反論としてはわかりやすい。そうだった場合、お手上げだしな。だが、ワン・シウヂエの例からその見解は否定派が主流だ。彼女はあまりにも支配者として相応しくなかった。それに、ヴィカス・クマールによると支配者はある程度選別されているそうだ。基準まではわからないがな」


 詳しくは覚えていないが、映画でそんな下りがあった気もした。アキに聞いたときも濁されたような記憶がある。


「それで、その二つがどうしたんだよ」

「……私たちは鈴木明英の疑問から推論を重ね、そして、ある仮説に辿りついた。もし、宇宙人たちの言葉が真実であるのなら……彼らの求める救いの鍵はそこにあるのではないか、と。ただ、やはりピースが足りない。だから今回の鈴木明英の行動に何か隠された意味があると思ったんだ」


 大崎の話はそこで終わった。沈黙の合間に、虫たちが踊る音が響いている。光を求め、むちゃくちゃな軌道を描く様は俺たちの行動にも似ている気がした。

 俺は溜息を吐き、頷く。大崎を全面的に信用するつもりはなかったが、俺の考えを明かすくらいでは害になるとも思えなかった。


「アキのさ、行動に大した意味はないんだ。だから、今回の帰宅禁止令もきっと必要な〈命令〉じゃなかったんだよ」

「……そうか」

「でも、理由はあるんだ」


 俺は今回の〈命令〉に至った経緯を明かす。

 アキは具体的な内容よりもまず対象を決めた、ということだ。すなわち、アキは何よりも日本在住者に〈命令〉をすることが重要だと捉えたはずなのだ。そこには厳然たる理由があって然るべきだった。八王子しか見ていなかったアキが突然日本をターゲットとするのは飛躍が過ぎる。今にして思えば、アキが語った理由ではあまりにも弱い。

 大崎は俺の説明に頷くでもなく、直立して耳を傾け、礼の言葉を口にした。有用だったのかどうか、表情からは判然としない。また、こちらへ向かってくる人影も現れたため、俺たちの会合はここで終わりとなった。


「なあ、大崎さん。大崎さんって俺たちの味方なのかよ? それとも……」

「味方だ」大崎は俺の言葉を打ち切るように言った。「たとえ敵であっても味方と吹聴するがな」

「だろうなあ」


 俺は顔を引き攣らせ、頭を掻いた。岩から生まれたのではないかと思えるほどに大崎は無感情で、たとえ歳が近かったとしても友達にはなれなかっただろう。政府の人間はきっとこういう人間ばかりに違いない。

 その思いが伝わったのか、大崎は去り際に否定を残していった。


「言っておくが、私が特別にこういう人間なだけだ」


 闇に黒のスーツが紛れ、すぐに背中が見えなくなる。同時に俺はアキとの思い出の反芻を開始した。支配者になってからだけではなく、出会いから、だ。ただ、年月とともに角を取られた記憶は極めて断片的で、思い浮かぶのは何年も前のことばかりだった。

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